養殖

 おれの後輩がとある北陸の海沿いの町へ旅行をした際、こんな体験をしたと聞いた。

 * * *

 宿について部屋に荷物を下ろすなり、露天風呂に入る。
 名物なだけあって見晴らしは最高だ。夏の暑さでべたべたしていた体を、熱い湯で流してから湯船に浸かる。ちょうど日暮れ時で、水平線に沈む夕日を堪能しながら体を温めた。
 海べりの崖を望む宿の周りは車通りも少なく、静か。
 潮騒の合間に魚が跳ねるような、どぷんという音まで聞こえた。

 湯を出るとすぐに夕餉の支度が整えられた。
 地元で採れた魚介づくしの豪勢な食事。仲居さんによれば、それらはみな目の前の海で採れたものだとか。良い餌を食べているから、よそで採れるものとはまるで育ち方が違うらしい。
 見た目はもちろん味も申し分ない。間違いなく人生で一番おいしい食事だった。

 翌日、僕は昼頃になってようやく起き出した。
 昨晩はちょっと飲みすぎたらしい。顔を洗ってから、気分転換がてら散歩に出る。東京にはない剥き出しの自然を一目見るのも悪くないと思い、海へと向かった。
 深緑の木立のあいだを縫うように進むと、やがて潮の香りが漂ってきた。唐突に林が途切れ、目の前がひらける。
 崖の上へ出た。
 切り立った断崖絶壁には展望台どころか手すりさえない。ぐるりと見回すと泊っている宿が見える。どうやら昨晩、露天風呂から見えた崖らしい。
 海からの突風にあおられでもしたが最後、足を踏み外さないとも限らない。おそるおそる崖下を覗く。
 落ちれば確実に命を落とす高さ。
 僕は急に自分がばかげた行いをしているように思え、宿へ戻ることにした。

 宿へと歩いていると木立に紛れて、来るときには気が付かなかった立て看板が目に入った。一枚ではなく、何枚か点々と立っている。

『その選択、後悔しませんか』
『行っても何も変わらない』
『いつでも楽になれる』

 僕の目にはそれが、自殺者の背を押すような文言に思えた。

 * * *

「深読みしすぎじゃん?」
「最初はそう思いましたけど……。先輩、行きは看板に気付かなかった理由、分かりますか」
 単に見落としてたのでは、と言うと彼は首を横に振った。
「看板ね、全部崖を向いてたんですよ。踏みとどまらせたいなら、逆でしょ」
「……理由がないだろ」
「言ったでしょ。『そこいらの魚は良い餌を食べてる。育ちが違う』って」
 まあそういうことなんじゃないですかね、と後輩は言った。
 それ以来、おれは魚を口にしていない。



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以前、竹書房怪談マンスリーコンテストに投稿したもの。改作。

我が家のねこのごはんが豪華になります