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「当たり前」を「不満」に変えたくない

 「オレからしたら全部、当然のことをしてるだけ。」

記念日や何かを達成した時にはお花をくれたり、何も言わなくても家事をしてくれたり、辛い時には寄り添ってくれる旦那さん。お礼を言うと、この言葉が返ってくるのだけど、正直ズキッとする時がある。

お礼の言葉を受け入れてほしいのに、突っぱねるみたいに思える。彼にそんなつもりはないけど、サラッと言われる感じにモヤモヤ。

彼からしたら奥さんを笑顔にすることは、歯磨きするのと同じくらい当たり前なんかな(歯磨きと自分を比べるのもどうなのか)。彼の考えとしては、「してあげた」って気持ちになるのが嫌だから、「当然」だと思うようにしているのかも。

だけど、私から彼に何かした時は「してくれて当然」ではないらしい。目を見て、しっかり感謝の言葉をくれる。私も彼がしてくれることの全部、当然なことなんてない。

「当たり前」なことはいつも目の前にあって、それが無くならないと錯覚する時がある。今の生活や自分が酸素と同じように、いて・あって「当たり前」と思って生きている。

もし旦那さんがいなくなったら?今の生活が突然なくなったら?明日、病気になったら?手足がなくなったとしたら?

お金や物には代わりがあるけれど、時間や人や命の代わりはない。いて「当たり前」の家族はいなくなって、実母にはお別れも言えないまま一生会えなくなってしまった。カタチあるものばかりを大事にして、目に見えないものは無くならないと思っていいのかなって。星の王子様も、いちばん大切なものは目に見えないって言うてたよね。

じゃあ、旦那さんがしてくれることを「当たり前」と思って、感謝しなくなるとどうなるだろう?…それは「不満」に変わる。

口先だけでお礼を言うようになったとしたら、きっと自分が望む以上のことを相手に要求し始めると思う。バッタモン家族の継母のように「家の手伝いするのが”当たり前”」、「言わなくても分かるのが”当たり前”」になるんじゃないかと。

手伝いをしたとしても「お皿に小さな汚れがある」、「ここができてない」と怒られ、彼女はガチャガチャと音を立ててお皿を洗い直していた。彼女と同じレベルで家事をこなせないと、手伝ったことにはならないようだった。

誰かを手伝うこと、ケアすること、優しくすることの裏側には、その人が自分のことを考えて、少しでも楽にしてあげたい気持ちがある。それに文句を言って「そのくらい”当たり前”でしょ?」なんて思えない。むしろ、やってくれてありがとう。

継母のように「当たり前」を「不満」に変えたくないから、当たり前のことこそ感謝の言葉には心を込めているつもり。当たり前だと思わないことで、自分のそばにいてくれる人、そばにあるものをもっと大事にするように心がける。

 当たり前は、当たり前じゃないんだね。