「ふるさと」で思い出す、名前も知らないおじいちゃんがくれた写真
ふるさとの風景か…。
noteのお題企画を見て考え、Googleフォトの中に貯められた大量の写真をさかのぼっていく。ふるさとの写真は一枚も見当たらない。「あ、そうや。過去を忘れたくて、全部削除したんやった。」と、アプリを閉じる。スマホを置いて、パソコンの前で考えを巡らせる。
そもそも、「ふるさと」って何なんやろう。
ふるさととは、その人に、古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。
私が考える「ふるさと」は、自分がいつ帰っても温かく迎えてくれる家族がいる場所、だと思っている。そういった意味では、生まれ育った田舎は「ふるさと」とは呼べないなぁ。
それに、田舎が嫌いだった。自転車を漕いでると虫が鼻や目に飛び込んで来るし、高校は山の上にあったから学校に着くと既に疲労困憊、おしゃれなものは売ってない、町は狭いからみんな顔見知りで、噂はすぐに広まる。遊びに行くのは、海か公園かジャスコ(イオン)。
あの頃は水平線を眺めながら、「海の向こうに行きたい!都会に行きたい!海外とかも行ってみたい」と毎日思っていたな。
今はカナダに住んで、生まれ育った田舎も悪くなかったと思えるようになった。自然もいっぱいだし、食べ物も美味しい。さざなみの音、潮の匂いや海の風が恋しい。
でも、あそこにはもう帰れない。ふるさとの写真もない…いや、数枚だけある!思い立って、押入れをほじくり返す。
あった。
これは自分で撮ったものじゃない。コンビニで働いていた時に、毎日来るお客さんから頂いたもの。
その方の名前は知らない。家族構成、どこに住んでいるかも知らない。分かっていることは、私とその方の年齢は孫と祖父ほど離れていて、彼は写真を撮るのが趣味ということ。物腰が柔らかく、親しみのある笑顔があって、お話好きな人だということ。
毎日来ると顔なじみになるし、自然と会話も増えてくる。天気の話から、おじいさんの趣味の話になって、写真をもらったのだ。
他にもたくさんの写真を頂いて、どこで撮ったものか、そこで起きたエピソードを楽しそうに話してくれたことを思い出す。自分の生まれ育った町の素敵な場所や、訪れていない場所に行ってみたくなった。
そうやって親しくなるにつれて、その方は私を「Maiちゃん」と親しみを込めて呼んでくれたから、おじいちゃんができたみたいで嬉しかった。彼が来ない日は何かあったのかと心配するほどだった。
だけど出会いがあれば別れもある。私はカナダ留学が決まったのだ。その事を伝えると、孫が遠くに行ってしまうような寂しげな表情を見せた。
「そうかぁ…。でも頑張ってね!君は良い子やから、どこに行っても大丈夫やわ。」
応援の言葉の部分は、おじいさんが自分に言い聞かせているようだった。ただのコンビニ店員とお客さんでも、親しくなると人間関係が築けるものなんだ。人との別れは、慣れないな。でも慣れてはいけないんだろうな。そう思った。
カナダに行く数ヶ月前、お世話になった人たちに挨拶ができないまま、身ひとつで逃げないといけない出来事が起きてしまった。なぜかその時、おじいちゃんとお別れする時の寂しげな表情が頭をよぎった。気がつけば、もらった写真を掴んで家を飛び出していたのだ。
そうして、私の手元に残った「ふるさと」の思い出の品は、その写真だけだった。
おじいちゃん、元気かな。今も写真、撮ってるかな。ふるさとに戻れるなら、おじいちゃんに会って「あの写真は宝物やで。ありがとう」って伝えたい。
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