春来たりなば、夏遠からじ
イヤホンとWALKMANを家に置き忘れた。
車内の沈黙が耳に痛い。ガタンゴトンと揺れる度に、他人との距離が、強く振ったペットボトルの中の水みたいに、近づいたり離れたりする。
目の前の人との関係が揺れに合わせて絡まって、隣の人との関係に引っかかって、ほどける。
関係が耳に痛い。
電車を乗り換えると、対面に凛とした女性が腰を下ろした。白いインナーにベージュの薄い上着、まさに春の装いだ。
電車が発車する。白い関係が近づいて、離れて、触れたと思ったら、すごく遠い。
駅に停まってドアが開くと、仄かに雨の匂いがした。そして、そのときにやっと女性が傍らに傘を携えていることに気づいた。柄の部分は渋い青、バンドから上は白と黒のストライプになっていて可愛い。
窓の外を見遣ると、白と灰の斑空が続いていた。濡れた土の匂いに、べたついた陽の香りが混ざり合った空気。
ふと、脳内にあるイメージが膨らんだ。傘の紫陽花だ。音もなく振る雨が、隙間なく連なる赤、水色、黄色、色とりどりの傘に吸い込まれていく。あまりにも人工的なその紫陽花は、自然の重みに身を寄せ合ってじっと健気に耐えている……。
しだれ桜の指先に、生温い季節の芽が宿る。
夏の予感を湿った空気に忍ばせて、ただ沈黙の電車は走る。
しとしと降り始めた雨が、鼓膜から肺の中まで浸透して、鼻腔で薫るノスタルジア。
白昼夢に微睡みながら、終点を告げるアナウンスを、まぶたの奥で聞いていた。