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コンピュータデザインの歴史(CD003-2)

1970年代中盤〜後半の頃の話/学生時代

1977年、街の喫茶店にテーブル型のゲームマシンが置かれ始めた。自分はブロック崩しというゲームをよくやった。お金もかかったし性格的にもどっぷりとのめり込むということはなかったが、ロータリーデバイスを使ってタイミングよく「ボール」を打ち返し「ブロック」をじょじょに「クリア」していくのは、なんとも気持ちよいものだった。
大げさにいえば、それは「快感」といってもいい。でもなぜそういうことが快感なのか? は重要なポイントだ。今でも多くの若者がコンピュータゲームにはまり込んで抜け出せなくなっているのは、もったいないことと思うが、単に「遊び」と切り捨てるべきではないと自分は思う。「心をつかむ何か」がそこにあることはたしかで、そのエッセンスをデザインに生かせればとも思う。
(そういう話を、クライアントや学生にサジェッションすると、短絡的にすぐにシステムを「ゲーム仕立て」にしようとする…。だけど的外れもいいところで、ぜんぜんそれはちがう。)
コンピュータゲーム自体はもっと前から存在した。マイコン以前のデジタル回路で構成されたものだったのだろう。ゲームの目的が明快で一面一面に達成感があり、誰でもやっていると「コツ」がわかって自然に上達できる、そういう体験が途切れなく続いていく。また自分にとっては、その動きが物理法則にほぼ乗っており、しかも機敏に機械が応えてくれる、そんなリアルタイムの反応性も重要だった。それはカードゲームやボードゲームにないものだ。またスポーツのように、長い肉体的鍛錬や練習も必要としない。
それからそういったディスプレイ内の世界は、乾いた「清潔感」のあるものである。ブロックが崩れてもゴミや消しかすなどはでない。人や生命がウェットなものであることとの対比がおもしろい。
この後すぐに「スペースインベーダーズ」(1978)が、日本中を席巻することになる。
自分は、大学の4年生と5年生(自己留年中)にあたる。

マイコン/プログラミング

その頃自分は工学部でプロダクトデザイン(インダストリアルデザイン)を学ぶ学生だったが、これらのゲームが「コンピュータ」で実現されていることは知っていた。けれど自分がコンピュータを理解したり、作ったりできるものとは考えもしなかった。けれど何気なく書店でコンピュータ関連の月刊誌がいくつか出ているのに気づき買ってみた。それは「I/O(アイオー)」という月刊誌で、その少し後にややアメリカ文化かぶれした「ASCII」を見つけてどちらもよく読んだ。どちらも創刊間もないころで、そういうムーブメントの中に自分も「たまたま」居合わせたことになる。どちらも西和彦氏が関わっている。
前後して入門書の類いも買い漁った。読んでみると、だいたいは理解できるが、疑問を尋ねる人も周囲にはいないので、どうしてもわからない部分もあった。もちろんインターネットはおろかパソコン通信/BBSも影もかたちもない時代のことだ。
誌面でのコンピュータの話題は、大きくはハードウェア回路としてどうコンピュータを実現するのかやそのためのデジタル回路の入門知識や周辺機器の作り方が解説されていた。ソフトウェアとして機械語やアセンブラが中心で、「高級言語」BASICについての話題が出はじめていた。アセンブラを操るためにはコンピュータの基本構造と基本動作を理解しなければならないわけだが、当時は最初期の8ビットCPUの普及期であり、学ぶにはそれなりに歯ごたえはあるが、前知識の無いまったくの素人でもなんとかなる程度でもあった。なんとも楽しい時代だった。
記事のなかの話題に、プログラミング言語自体をプログラムする、というのがあって、自分はとても興奮してむさぼるように読んだのを覚えている(※1)。当時から小さいmicroと、私のmyをかけて、コンピュータ全体は「マイコン」と愛称的に呼ばれていた(米国では単に「マイクロ」と言うと、在米の友人に教わった)。
大学の授業はデザインの実習とデザインにまつわる講義があったが、そのなかで個人的に印象に残る講義が一つあった。吉川先生(※2)という当時非常勤の先生の「機構学」という講義で、二つの話題を鮮明に覚えている。ひとつは「機能の距離空間」という概念で、機能同士の類似性を定義できるという話。もう一つは、雑談まじりに「あなたたちは今紙とペンでデザインをしているが、将来はコンピュータ端末の前に座ってデザインをすることになる」という予言。1975年ころの話しであり自分もふくめまったく誰も信じなかったが、少なくとも自分は10年後には完全にそうなっていた。
大学5年時には時間に余裕があったのでデザインオフィス(※3)でアルバイトをしていた。「マイコンをいじれる人」という応募希望条件があったので、自分は喜んで手を挙げた。そこにはTK-80 BSというNEC製の日本でも最初期のワンボードのトレーニングキットに、キーボードとテレビへのインターフェイスを持った、BASICが動くマシンがあった。それに繋げるプロッターがあったので、自分はプロッターに文字を書かせるための英数字の「ベクターフォント」を方眼紙でデザインしデータ化して入力し、文字を書かせたりしていた。

(※1)具体的には簡易版のBASIC言語/TinyBASIC自体を設計してアセンブラで実現する。最終的にはたったの700バイトで完成する。アセンブラのコードを読み込んで、インタープリタの動作を理解した。
その後簡易BASIC言語自身で、そのBASICプログラムの機械語へのコンパイラーを作り高速化する。最終的にコンパイラー自体で、そのコンパイラー自体をコンパイルする。コードを読んでコンパイラーの基本動作を理解した。
Smalltalk80からスクイークを作り出すときにも、大まかに同様の流れをとっている。かなりややこしい話しだが、日本語で日本語の文法書や辞書を書くようなことにイメージとしては近いと思う。いずれ触れたい話題のひとつに「言語」があるが、自己言及は広く「言語」の特性である。
(※2)吉川弘之先生はその後、東大の総長をされたり学術会議議長などもされている、とんでもなく偉い先生だった。でもとにかく授業はおもしろかった。
(※3)GKインダストリアルデザイン研究所。

1980年代前半/プロダクトデザイナー

次の年卒業後、結局そのアルバイト先のオフィスに就職して、プロダクトデザインの仕事を始めた。メーカーのデザイン部門とちがって独立したデザイン事務所だったので、生活用品から専門機器などさまざまな案件にかかわることができた。多くのレベルの高い先輩プロダクトデザイナーに混ざって仕事をするのは、刺激的でもあり誇らしい気持ちもした。そのキャリアの後半はプリンターやキーボードなどの多くのコンピュータ周辺機器や、パソコン自体のハードウェアもデザインした。
そういうピュアなプロダクトデザイン業務のかたわら、パソコンで機器の操作パネルの自動レイアウトのプログラムを設計しそのプログラムを書いていた。実践で使えるシステムにまではいたらなかったが、プログラムの勉強になった。それは簡単な対話型のシステムだったが、使用者のミス入力がおきにくいための配慮や、ミスの訂正しやすさなどに心をくだいてプログラムしていたことを思い出す。そのときはもちろん知るよしもないが、今にして思えば、まちがいなく「ユーザーインターフェース」につながる問題意識を持っていた。それが1980〜84年くらいのことだ。
また個人的には貯めたアルバイト代と初給料などを使って、1979年に出たばかりのPC-8001をはじめてのMy Computerとして購入した。168000円也。資金の関係でディスプレイは、グリーンモニターしか買えなかったが、プログラムがしたかったのでそれでよかった。その後プリンターを買いそろえたり、いくつかの機種に乗り換えたりもした。趣味では思考型ゲームのプログラムをしたりした(※4)。
(※4)1983年頃月刊ASCII 誌に「オセロリーグ」という連載があり、読者から投稿されたオセロプログラムを対戦させて優秀作を表彰したりしていた。自分もアセンブラとBASICによるプログラムで参戦した。が、「惜しかった人」に名を連ねるのみだった。そのときプリミティブな人工知能のプログラムを学習しながら作ったが、最終的には自分の作ったプログラムに自分自身が勝てなくなり、改良しているのか改悪しているのか判断が付かなくなるという経験もしている。現在はいろいろなボードゲームで、プログラムがプロ棋士らを打ち負かしているのは素人ながら感慨深い。

1984年/転機

そうこうしているうちに、オフィスでのプロダクトデザインの仕事に関して個人的な壁につきあたる。プロダクトデザインについてやや熱が冷めたというか、生まれた疑問が頭を離れなかった。さまざまな製品のおもに形状やカラーリングを考えてクライアントに提案するわけだが、自分のよかれと思うデザインが、果たしてクライアントにとってもよいものであるのか、よくわからなくなっていた。自分の「好み」以上の説得材料を持ち得なくなっていた。「売れる」という視点をとれば、同じ土俵での提案や議論も可能だったのかもしれないが、自分自身「売れる」ということに、どうも全判断を振り切れなかった。
もちろんコンピュータのことも気になっていたが、まだコンピュータとデザインはあまり結びついていなかった。無理に結びつけるとCGやCAD/CAM になるわけだが、なんとなく自分が求めていることとはちがうと感じていた。
そんなわけで、とりあえずはっきりとした展望はなかったが、とにかく辞表を書いた。辞めてからゆっくりと行く先を考えてみようと思った。辞表提出から退社までは3カ月ほどの期間があったが、そんなある日「それ」が偶然に自分の元に降りてきた。

つづく。


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