痔持ち用の座布団を愛用してた小学生は私だ
あれはたぶん、小学5年か6年の頃だ。
クラスでなぜか、「席に座ろうとしてる子の椅子を、背後から思いっきり引く」が流行した。誰の心にも、「いじめ」とか「いやがらせ」とかのつもりは1ミリもなかった。ただただ、いろいろある「遊び」のひとつ。「鬼ごっこ」とか「ハンカチおとし」とかと、同じ類いの「遊び」のひとつ。それを、私も、されたのだ。
自分の席に座ろうとして、腰をおろしたら、椅子がなかった。当時から体格のよかった私であるからして、それはそれは、ドスーーーン!!と、すごい音がした。臀部に、鈍痛。次の瞬間、みんなが大ウケしていることに気づいた。
みんな、大いに笑っている。私の臀部は傷んでいる。混乱した私は、止まらない大爆笑を背に、完全ノーリアクションでトイレに急いだ。
この、高ぶる感情は何なんだろう。そう思った。それを「怒り」と呼んでもいいのだと、気がついたのはだいぶ大人になってからだ。当時の私にとってはただ、わけのわからない何かでしかなかった。何らかの大洪水が私を飲み込んでいる。耳元でごうごう言っている。必死にこらえて、顔を作って、何もなかったみたいな顔をして教室に戻る。痛くて椅子に座れない。右、次は左。しきりに半ケツずつ持ちあげながら、なんとか、その日をしのいだ。
親に相談すると、病院につれていかれた。尾てい骨界隈が炎症しており、なるべく体重をかけないようにと言われたので、母は破竹の勢いで、ドーナツ型の座布団を買ってきた。聞くと、痔持ちの人が、患部を座面に接着させないために使うものだという。一応、思春期の女子なので、母がシックな座布団カバーを手作りしてくれた。
まあるい紺色のでっかいそれを、学校や、塾や、行く先々に持って歩いた。
母が私に教えたのは、「相手とたたかう方法」でも「抗議する方法」でも「とっちめる方法」でもまるでなかった。自分が被った痛みを、自分にできる手立てで、しのぐ方法。相手は相手、自分は自分。相手の心を動かすことなど、望むべくもない。できるのはただ、自分の手の届く範囲内に関することだけだ。
当時はそのことに、大いに救われた。その後も何食わぬ顔して、みんなと仲良く、平穏に暮らした。何なら、大人になってからさえ、彼女たちと仲が良かった。
この人生観が、大人になっても私を支えてくれていると思う。相手に多くを求めない。そのことによって避けられた痛みや傷が、これまでの人生にたくさんあったと思う。
でも同時に、相手に何かを期待するとか、頼るとかが、いまいちよくわからない。自分にとって決して許せないことを、相手がしていたとしたら、「向き合う」も「話し合う」もなく、ただ「離れる」しか選択肢が浮かばない。
これを幸と呼ぶのか、不幸と呼ぶのか。たぶん、どっちも、である。人生におけるだいたいの出来事は、幸福だし、同時に不幸だ。(2021/02/10)