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懐かしい「アウェイ感」と再会した話

これはどうも若い頃から、自分は「ここにいちゃいけない人」だと思っていた。どこにいても基本的には、自分は「アウェイ」であり「よそ者」だった。氷河期世代、社会(世界)から、まずはコテンパンに拒まれたという実感がある。

もちろん、そのアウェイ感が功を奏することもあった。どこにいるときも、基本的には「よそ者」として、相手や物ごとを客観的にみつめる。そういう目でしか見えないものを語り、伝える。それが「能力」だった時期である。

だから新しい場所に出くわしたら、そこにいる資格を得るためにしゃかりきに頑張るか、あるいはそこからそっと消えるかのどちらかだった。「自分は拒まれている」が前提だから、しゃかりきにしてないと、どんな椅子にも座ることができない。

そもそも20代の頃、私はとにかく「自立」しなくちゃいけないと思っていた。そのためには実家を出なくちゃいけない。そしたら人間関係も一掃しなくちゃいけない。ここにいちゃいけない。ここではないどこかへ、あなたではない誰かと。

だから私には故郷も「アウェイ」だ。いちゃいけない場所。出なきゃいけない場所。もしいたいのなら、しゃかりきに頑張らなきゃいけない場所。手みやげ。手伝い。上げ気味のテンション。しゃかりきに「ここにいる資格」を得ようとして、その「資格を得たぞ感」に安らいでいた(ような気がしていた)。

しゃかりきになることにくたびれた頃、コロナがやってきた。長年(精神的に)軸足にしていたライターの仕事は壊滅し、ハケン業務に両足を突っ込むことになる。データ入力にコールセンター。それまでの経験はまるでモノを言わないから、やっぱりどの職場でも、アウェイ感むんむんだ。

そんなふうにして足を踏み入れた新しい職場で、私はこの夏、ぱっかーーん!!と壊れた。

今は都内の自宅アパートで、KindleやradikoやTVerにまみれる日々だ。静かな部屋で、何ものにもしゃかりきにならない日々を心がけている。

今日はradikoで、ひとつ再会があった。30歳を過ぎても本を1冊も読んだことのなかった人物が、友に誘われ、初めて『走れメロス』を読む記事である。

最初にこの記事に出くわしたときは興奮した。彼の、あまりの「読んだことのなさ」に。それとはまた別の場所で噴出している、彼のとめどない感受性に。とめどない人が初めて「本」に出くわすと、こんな大爆発を見せるのか。あわてて知人の国語教師にDMを送ったほどである。

その記事が発展して、このほど一冊の本になった。そして今日、私が愛聴しているラジオ番組に、その人物がゲストとして招かれたんである。

ひゃあ!ってなった。あの人だ!!って思った。ほがらかトークがえらくこなれていて、そしてやっぱり、とめどなく噴出していた。何かが。大いに。

ああそうだ。彼もまた全力で「アウェイ」の人だったのだ。「本」に対して。「読書」に対して。はじめましてメロス、はじめまして太宰。圧倒的なアウェイ感が、めちゃめちゃ功を奏している。

功を奏することの幸福。懐かしい幸福。

アウェイであることにくたびれちゃった私が、アウェイであることが功を奏しまくってる人の声を『日曜天国』で聴く。この構図、この景色よ。写真を撮りたい。あるいは俳句に詠みたい。この一瞬を。

その能力のない私は、こうしてだらだらと長文を書き連ねるしかできない。ここまで読んでくれた人ありがとう。教訓もカタルシスもないけど、ためしにこれで終わってみるね。(2024/10/06)

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