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光浦靖子『ようやくカナダに行きまして』を読みました。

「ゆかいなおばあちゃんになるためのレールを敷きたい」と前作エッセイを締めくくった光浦さんが、いよいよ身ひとつでカナダへ渡った奮闘記。

思うようにいかないコロナ界隈の手続きや、「学校」「クラス」という小さな世界に自分を順応させることなど、だいたいの大人が「自分にはもういいかな!」って足抜けしちゃってるであろう沼のひとつひとつに、ざぶーん!と身体ごと飛び込んでおられる光浦さん。

自分はこの人とは合わないだろうな、と思う相手には、大人になったらもう当たらずさわらずでいいんじゃないかなって(私なんかは)思っちゃうのだけど、「異国でひとり学ぶ」を選んだ彼女にはそうはいかない。

その、「そうはいかなさ」を前にしたときの、光浦さんのあり方が好きだ。わからない相手の、自分との圧倒的な違いを、まず知る。「拒む」でも「合わせる」でもなく、「知る」。その絶妙な塩梅。

そしてここが肝心なんだが、そこに理不尽が生まれると、なかったことにしない。ちゃんと怒る。

あと、50代だからって、達観してみせたりしない。できないことがいっぱいあって、それを隠さず、いっぱいメゲる。いっぱい後悔する。

自分を変えたいからって、留学前の自分を下げたり手放したりもしない。日本の芸能界で得たものたちの、かけがえのなさを誰よりも知ってる。

そこが好きだ。

ここに書かれているのは、彼女が新天地での身(と心)の置き方を、つかみかけるまでのグラデーションだ。人生を大きく転換させた大人が、悟りも解脱も達観もせず、あちこち傷だらけになりながら、ようやくまわりの景色が見え始める。

「あとがき」によれば、この本で語られた期間の翌月に、カナダ留学が次の段階を迎えているらしい。第二の人生に照準を絞った、本腰の足取りが始まるのだ。

えーーー、ここから先が読みたいんじゃん!!!

彼女とほぼ同世代、ひとり住まいのアパートで、Kindle片手にもんどり打ちながら、光浦さんの幸せと、この続きを読める日が来ることを、腹の底から祈りつつ。(2024/10/02)

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