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47歳独身、全力で「子育て」を考える

なんだかうすらぼんやりと、ひとつのことをぐるぐる考えている。きっかけはあれだ、たまたま聞いたラジオである。TBSラジオ、朝11時から始まる『ジェーン・スー 生活は踊る』。正午になるとスーさんが、ありとあらゆるお悩み相談にこたえる『相談は踊る』というコーナーがあって、そこに先週木曜日、こんなお悩みが寄せられたのだ。

30代女性のお悩み。夫と結婚したものの、どうしても「子どもが欲しい」と思えない。仕事が面白いのもあるけれど、そもそも、子どもを最後まで死なせずに育てあげられる自信がない。夫は子どもを望んでいて、職場の制度も育児には協力的で、「子を産んで育てる」ための条件は揃いに揃っている。それでも「産まない」を選びたい自分は、夫に対して「不誠実」なんではないか。いつか年を取り、手遅れになってしまったときに、やはり産みたかったと後悔するんではないか。

これはキツかろうと思うのだ。「産まない」ことを、自分以外の、何のせいにもすることができない。

私も若い頃から「子どもが欲しい」と思ったことがない。人ひとりの人生に対して「親」が及ぼす影響の大きさを身を持って知っているし、その責任を自分が負いきれるとは少しも思えない。最初は、こんなの思春期特有の潔癖症だと思っていた。大人になれば、平気になるんだろう。「適齢期」とやらを迎えたら、ひとりでに子どもが欲しくなるんだろう。——そんなふうに思ったけれど、まったく平気にならないまま、気づけば「アラフィフ」とやらである。もはや、「産まない」理由をいちいち標榜せずに済む年頃。番組でスーさんが言っていたように、私も激しく安堵している。

そう、私は、産まずに済むなら済ませたいと思ってきた。だって、産んでしまったら、もう後戻りはできないのだ。子どもと私、抱く価値観が大いに違って、大きな決裂を迎えたとしても、多くの友人や恋愛関係のように、じゃあサヨナラというわけにはいかない。親と子は、一生、親と子なんである。

ああ妊娠してしまった!という夢を見たことも少なからずあった。夢の中の私は、大きなお腹を抱えて、喜ぶどころか、途方に暮れているのだ。ああなんて取り返しのつかないことをしてしまったんだろう。これから一生続く「子育て」という試練を、私ひとりで、乗り越えることができるんだろうか。親も老いたし、友だちもいない。自分ひとり食わせていくのもやっとなのに、この子をこれから数十年、どうやって背負っていけばいいんだろう。

私の脳内で「子育て」は、どうやら、自分ひとりですることのようである。夢の中の私は(そしておそらく現実の私も)、「男」や「夫」をまったくあてにしていない。だってその人は私にとって、まぎれもなく、他者なのだ。今日一緒にいてくれたとしても、明日、気が変わるかもしれない。明後日、とんでもない大恋愛が、彼をまるごと飲み込むかもしれない。人は、変わるものだ。「結婚」なんて、まったくもって、何の約束にもならないのだ。

幸いにも、私の周りには「誰かいい人はおらんのか」とか「早く孫の顔を見せなさいよ」的なことを言う大人はひとりもいなかった。「俺の子どもを産んでほしい」的なことを迫ってくる異性もだ。親は私に「よい嫁(母)になるための心得」を伝授することよりも、「一生ひとり者だった場合の対策」に熱心な人だ。年金のあれこれ。あるいは、終身保険のあれこれ。

それでも、やっぱり「子産み」「子産まず」のプレッシャーは、あらゆる形で女にのしかかる。誰にも急かされないからといって、自由の身というわけではまったくない。私の場合は、「こんなふうにしか思えない自分はなにかが大きく欠落しているのではないか」という疑念がこびりついて離れない。いくつになっても、子どもをあんまり可愛いと思えない自分。街で泣き叫ぶ子どもから、つい遠ざかってしまう自分。こっちがどんなに忙しくても、「俺の方を見ろ」「俺こそが主役だ」と全身全霊で主張する生きもの、それが子ども。それらをいちいち満たしてやらないと、大人になって、何らかの屈折が生じかねない生きもの。ああ、なんて厄介な生きものなんだろう。

たぶん、私自身がまだ子どものまんまなのだと思う。子どもの私は、いろんなことを、グッとこらえながら生きてきた。地べたにころげまわって駄々をこねることも、おとーさんやおかーさんにそばにいてほしいと泣き叫ぶことも。大好きな誰かに甘えてみせることも、こっちを見て見てと前へ前へ出ることも。……ああ、そうか。私は子どもに嫉妬しているのだ。自分がこらえてきたことや、自分がしてこなかったことを、大いに謳歌している、あの生きものに。

駄々をこねてみたい、甘えてみたい、前へ出てみたい。それらの思いがこじれにこじれて、ぜい肉になって私の身に、ごっっってりと貼り付いている気がする。あまりにも長年こじらせすぎて、今の私には、駄々をこねる方法も、甘える方法も、前へ出る方法もさっぱりわからない。躊躇なくそれらができるようになったら、子どもを可愛いと思えるようになるんだろうか。躊躇なくそれらができるようになる日が、果たして私に訪れるんだろうか。自分に問う。考える。それらができるようになった自分は、果たして、幸福だろうか。

……驚くことに、今の私は、そんな日が訪れなくても別にいい、と思っている。

子どもを産みたい人と、産みたくない人がいるように、「産みたくない人」の中にも、なにがどうして産みたくないのか、その理由や事情は星の数ほどある。星の数ほどあるからこそ、私たちは知るべきだ。他ならぬ自分自身の理由や事情は何なのか、どこの何がどう不安なのか。そこをしっかり知るだけで、その道行きはだいぶラクになる。……ほら、あれだ、あれを持ってたほうがいいんだって。星座を見るときに使う、まるい、円盤があったじゃないか昔、小さい頃。ほれ、こーーういうやつ。あれ、なんていうんだっけ。ねえ、なんていうんだっけか。

そう語りかけるべき相手は、ここにはいない。だから、すぐさまグーグルさんに頼る。「星座 円盤」で検索……「星座早見盤」。なんだー、パッとしない名前。もっと洒落っ気が欲しかったー。ひとりボヤきながら、笑いを噛みしめる。こんな時間が、まったくもって嫌いではない。代えがたい幸福が、ここにもある。これから白いごはんを炊いて、塩鮭を焼こうと思っている。(2020/07/21)


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