春のおとずれ(Scene8)
年始から続く脚の怪我もあってなかなか腰が重くなっていた平日の高尾山トレーニングも、ようやく再開する気になってきた。と言っても自分で奮い立ったわけではなく、友人がたまたま今時期平日に時間があって暇だと言うので、それなら一緒に高尾山でも行こうかと誘っただけなのだけど。
一度途切れた習慣を再開させるのはなかなか難しい。何かきっかけが必要だった。幸い高尾山は天気予報も良いと言うので、彼と久しぶりに高尾山から小仏城山を歩いてみることにした。二人で山を歩いたのは一度きり。13年前になるだろうか。僕の初めての登山は彼と歩いた高尾山。それ以来である。
13年も経てばお互いの状況も変わるもので、あの頃は同じ会社の同期だった二人も片方は独立し、もう片方もこの春にめでたく転職となった。それに、二人とも有り難いことに結婚することも出来た。お互いに体重も増えたし、仕事の話もプライベートな話も、あの頃こぼした愚痴よりも思い出話に花が咲くようになった。
初めて二人で登った稲荷山コースを歩く。あの頃とは違ってよく整備された登山道。ここが変わったあそこが変わったと、通い詰めた僕が彼に言う。あの頃あった稲荷山の四阿も、今は取り壊され綺麗なベンチに取って変わった。13年経つと山のそこかしこも変わるものだ。「こんなだったかなぁ」と、彼が不思議がるのも無理はない。
それでも、あの頃よりも二人とも調子よく登ったと思う。二人とも偉いのは、仕事ばかりだったあの頃よりも運動するようになったことかも知れない。僕は山登りを趣味としたし、彼はフットサルを続けている。30代も後半に差し掛かって仕事も変わっていく中で、お互いに運動習慣は継続している。おかげさんで、高尾山頂まで難なく歩いた。
以前来た時は秋に差し掛かる頃だった。気温も高く、山頂からの景色は薄ぼんやりとして良くなかったと思う。今日は良い。冬らしく、空気が澄んで富士山も丹沢もよく見える。向こうには、相模湾が輝いているのも見えた。こうやって景色を見て足を止めるのも、あの頃はやらなかったかも知れない。
高尾山頂で止まるのも勿体無いから、小仏城山まで足を伸ばすことにした。山頂から石段を下って奥高尾へ入ると人の姿もまばらになって、とたんに静かになる。今となってはトレーニングに使う道も、あの頃はそんな道があることさえ知らなかった。彼にとっては未知の域を、ベラベラと他愛のない会話をしながら進む。会話の内容は仕事のことが多いあたりは変わらないなぁと思う。
そんな中で自分でも変わったところと言えば、山のあちこちを指して花や草の話をするようになったことかも知れない。この道にはいついつにどんな花が咲くとか、これは何の花だとか、そういう事を自然と言うようになったのは自分でも新鮮だったかも知れない。昨年は毎週のように高尾山に来ていたから、いつどの辺りで何が咲くかはだいたい把握した。今年もそれを見に来るのが、結構楽しみだったりするのだ。
下りには1号路を使って薬王院にで参拝し、その後2号路から琵琶滝を見物して下山した。沢筋を歩くと水の音が涼しげで気持ちいい。路端に小さな白い花が群生していた。これは、ユリワサビという花なのだそうだ。山葵の様な風味があると言うから、食べられるのか…。
いつもは黙々と歩く高尾山も、たまには人と来て話しながら歩くのも良い。それが旧友ならば尚更だ。良い時間を過ごしたな、と思って「また山行こうぜ。」と誘うと、彼は笑って「いや、いいわ。」と言った。絶対また山に引っ張ってこよう。
他の草花に比べて春になるといち早く咲き始めるユリワサビの花言葉は「目覚め」。高尾山にももう春が来ていた。