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No.529 小黒恵子氏の紹介記事-95 (活躍する白門の女性学員)

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。

 様々な新聞記事等をご紹介しています。今回は、会報に掲載された小黒恵子氏の記事 をご紹介します。

活躍する白門の女性学員 
         詩人・童謡作家 小黒恵子さん (昭和26年法卒)

自然を愛する心、情操教育は童謡から
「美しい地球を愛し、緑あふれる自然と共存し、生き物への愛と平和の心を育てる情操教育は、幼な心をはぐくむ童謡から―」
これが、わが国初の童謡記念館をつくった小黒恵子さんの生活信条である。
しかも、多くの子供たちに童謡を通じて豊かな感受性を養ってほしいとの願いをこめてつくった童謡詩に曲がついたのが、いま四百点を超える。
昨年十二月と今年一月の二カ月間、NHK「みんなのうた」で、“エトはメリーゴーランド”が流れた。いまもNHKテレビ絵本で“リンゴはうさぎ”が放映中である。
法律を学んだ小黒さんが童謡詩を書くようになったのは、「週刊新潮」の表紙を描きつづけてきた童画家・故谷内六郎さんとの出会いがきっかけである。
中央大学法学部を出て商社に就職したものの倒産、OL生活一年の後、再就職もままならず、東京・渋谷の道玄坂で「ラ・セーヌ」という名の喫茶店を開く。その時の客の一人に谷内六郎さんがいた。
「週刊新潮」の表紙を飾る原画を見せてもらっているうちに、なんとも素晴らしい童画の世界に魅せられてしまった。
「この童画を見るだけでなく、それに詩をつけてみたい」。小黒さんの心を揺さぶるものが、ふつふつと沸き上がってくる。
作詞するならとサトウハチローさんを紹介される。
やってみたい。童画に詩をつけたい― との熱意は人一倍強く、三年間通う。
だが、いつしか自分色の詩を書きたい― しかも、それを世に問いたいとの熱い心で創作をつづけた。
谷内さんから、本にしたら、との誘いもあり、装丁やイラストまでやってもらい、童画詩集「シツレイシマス」を処女出版した。昭和四十五年、四十二歳という遅咲きである。
童画に詩をつけたい、との願いから童謡詩集が出版できるまでになった小黒さんに、たまたま新たな出会いが待っていた。
朝日新聞にこの童謡詩集が紹介され、その中で「こんな素晴らしい童謡詩に曲がついたら、どんなにいい童謡が生まれるだろうか」との記事である。
作曲家や音楽関係の会社とのつながりが増え、ビクターから童謡部門でレコード大賞まで狙おう、とまでいったことも。恩師であるサトウハチローさんと競って作詩大賞の童謡賞を獲得したこともある。
「作詞は苦しいものですが、詩が出来上がり、曲がついて、子供たちに口ずさんでもらうと喜びは倍加します」と小黒さん。
「情操教育の基本は童謡にある」という小黒さん。神奈川県・川崎市高津区にある自宅=明治十二年建築の一世紀余の歴史を刻んだ大黒柱や梁などを生かして改築、平成三年七月「童謡記念館」をオープンした。
樹齢数百年のケヤキの木立ちが囲み、日本初の童話・童謡雑誌「赤い鳥」の全復刻版や手巻き蓄音機、レコードなどの資料がいっぱい。夢は、二・五㍍もあるアンティーク大型オルゴールなどを集めたオルゴール館づくり。
見学者は北海道から九州まで全国的。入館料おとな五百円、こども二百円はすべてWWF(世界自然保護基金)に寄付している。
「この美しい地球に生きる悦びと幸せ、緑の自然、生物への愛の心を、詩人として、童話作家として伝えたい」という小黒さん。庭の一角に“けや木たつ 多摩のほとりの諏訪川原 緑の伝言(ことづて) 未来に伝えて”と石碑に刻む。
その心は、庭の緑も童謡館も、いずれ公共機関に寄贈し、後世に引き継いでもらいたいとの願いがある。
学生時代の思い出に、雪が降る中で聞いたニコライ堂の鐘の音、専門部の学生でかわいい坊ちゃんタイプの海部俊樹さんと一緒に学び、お弁当を食べたことが懐かしい―と。
(社)日本童謡協会理事、(社)日本音楽著作権協会評議員、中央大学学員会学員講師

中央大学学員時報 平成5年(1993年)2月25日

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 次回は、1993(平成5)年の紹介記事をご紹介します。(S)

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