『多才』は言われて嬉しい表現か
そんな話を先日長年の友人とやいのやいの話をしたりしまして。『多才』は褒め言葉なのか否か的な。人によっては全く褒め言葉ではなく、単なる器用貧乏ではないかと。むしろ器用貧乏はいいことかどうか。
『何でもできるよね』
こう言われたらほとんどの人が悪い気しないと思います。でも、『何を』『どのレベルで』『できる』のかで意味合いがまったく違うというわけで、しかも他人が下す評価と己の自己申告は結構な割合でかけ離れたりしてるもの。
例えば、自分の中で『多才』を適応すべき人は『何でも90%以上はできる超人』と考えているなら、『ピアノ弾けるけどギターまったく弾けないわ』の一点だけでNO多才でしょうし、『自分ができないことひとつでもできる人なら誰でも』なら、『コードだけでもギター弾けるのすごいね!多才!』であるんでしょうか。一般的には後者が多才の定義に近いような気もします。
仕上がりに納得できーん!と皿をぱりーんと割るような、よくマンガで出てきそうな陶芸家を思い浮かべてしまうわけです。自分は果たして皿を割るタイプなのか否か。…多分割りがち。
で、結論から言いますと、その友人とは意見が一致して『多才って言われたら、全部のレベルが中途半端に思えちゃうよね…あんまり嬉しくないのかもね…』ってなりました。この時は。次、何ヶ月後何年後に同じ話をしたら、ひょっとしたら違う結果になるかもしれない。
言われたらそれだけでありがたいよねーとかそういうことは置いといて、褒め言葉か否かの感覚直感チャレンジ的な意見交換と思ってください。深い意味はないんです。
全般か専門か
昔ですけれど、議員のお役目をいただいてすぐくらいの時かな。ひょんなことから聞かれたことを今でも覚えています。
ジェネラリストになりたいのか、それともスペシャリストになりたいのか、どっちなんだいと。
これは実は長く行政に携わってた方から聞かれたことで、今から考えると『役人さんに聞くならまだしも、議員に聞くことだったのかな…?』と疑問に感じたりもしますが、それはこの際どうでもよいとして。
人間という生き物は、基本隣の芝はよく青く見えるもんだと思っております。なので自分に持ってないものにやっぱり憧れを持つのは仕方ないことで、その時に『ジェネラリストになりたい』と思ったことも覚えてます。9年前くらいの話。
ということは、隣の芝はより青く見える法則として、自分の知識と経験は狭い世界で培養されていたことになるのかならないのか、ある意味当時の自分はスペシャリスト(ニッチな領域)できたことになるんでしょうか。だから広い知識に憧れる。
じゃあ今はどうかと聞かれたら、『スペシャリストになりたい』と実は思うわけで、ひとつのことを突き詰めてその道のプロになれてなかったからこそ、後悔もあるのかもしれないと。
要は、自分で『ああ、色んなことが中途半端だな』と自覚できてるからこそ、『結構何でもできるのね』を素直に受け止めにくいというんでしょうかね。
そう、我はアマノジャクであります。
多彩であれ
年齢相応に歳を重ねてくると、まだまだ若造の類いに入るんだと思いますけども、『多才』より『多彩』の方が、人生を彩って豊かにするのではないんだろうかと思うようになりました。でも個人個人でどっちがいいかは異なるわけだから、どちらでも好きな方で都合よく取ればいい。ということにしましょう。そうしましょう。
日本語は音の響きの裏にある深みがすごい。50音の組み合わせで無限の情景が生み出されるこんな言語は唯一無二。
春は出会いと別れの季節。港区役所でも退職したり、異動だったり、新しいことにチャレンジする機会。広く浅く行くもよし、深く突き詰めるもよし。
アナタの人生が色々と『たさい』であらんことを。