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園長先生さようなら
娘は帰国子女で、日本で暮らすようになったのは五歳の春からです。もう少し早く帰らせる予定でしたが、震災の影響を考慮して延期したのです。
娘は生まれたときから異国で生活していたため、帰国したとき、日本語がまったく理解できませんでした。
どこの国で生活しようが、言語の習得は必須です。それには家族だけでなく、多くのひとびととコミュニケーションを図る必要があります。特に、同じ世代の子供たちと。そのため、帰国させたら幼稚園に入れるつもりでいました。
とは言え、すでに五歳。年長組からの入園になります。
果たして、言葉の理解できない子供を迎えてくれる園があるのか。そのことが最も気掛かりでした。もしも無理なら、自宅で学ばせるしかありません。
とにかく、受け入れてくれるところがあるのを願い、近隣の幼稚園に連絡しました。娘が帰国する数ヶ月前のことです。
最初に電話をかけたところは、先方の素っ気ない口振りからして難しそうでした。ふたつ目のところは、ホームページに問い合わせフォームがあったので、こちらの事情を記入して送信しました。けれど、返信はありませんでした。
そして三つ目。ここが無理なら幼稚園は諦めるしかないと覚悟しました。
電話をすると、たまたま行事の準備中だったらしく、少々お待ちくださいと言われました。一分ほど経って電話に出られたのは、女性の方でした。その幼稚園の園長先生だったのです。
緊張しつつ事情を説明すると、園長先生は明るい声で、それでは面接をしましょうと言ってくださいました。入園が許可されたわけではありませんが、とりあえず安堵して、よろしくお願いいたしますと電話口で頭を下げました。
面接は年明けでした。娘を一時帰国させ、妻と三人で幼稚園に出向きました。そのとき、面接をしてくださったのも園長先生でした。電話で話したときの印象そのままの優しい笑顔で、私の母よりも若いのではないかと思われました。
娘は人見知りをしないたちですし、面接だからと緊張していたわけではありません。しかし、日本語がまったくわからないのです。園長先生に質問されてもきょとんとして、何も答えられませんでした。
これではさすがに駄目かと、私は苛立ちと落胆をあらわにしていたと思います。ところが、園長先生は少しも気にされた様子がなく、「だいじょうぶですよ」と言ってくださったのです。
「子供は吸収が早いんです。すぐにおしゃべりができるようになりますよ」
力強い言葉に、私は目頭が熱くなりました。その場で入園を許可していただき、娘を帰国させるに当たっての不安が、すっと楽になったのを今でも憶えています。
帰国した娘は、四月から幼稚園に通うようになりました。
無事に入園できて、何も心配がなかったわけではありません。友達とうまくやっていけるのか、先生の言うことをちゃんと守れるのか、いや、そもそもみんなと意志の疎通ができるのか。
幸いにも、娘は幼稚園へ行くのを嫌がりませんでした。迎えに行くと、いつも遊具で遊んでおり、帰りたくなさそうにしていました。
ただ、やはり言葉が通じないためか、友達よりも私や妻を相手にすることが多かったです。春の遠足にも私が同行しましたが、友達と遊ぶ場面はあっても、言葉のやりとりは見られませんでした。
そんな娘に変化が見られるようになったのは、六月ぐらいからでしょうか。幼稚園に迎えに行くと、普通に友達と遊んでいたのです。それも、ほんの単語レベルながら、言葉を交わして。
そのころから、娘は日本語がどんどん上達していきました。家でも話すようになり、日本語のアニメも見るようにもなりました。
園長先生がおっしゃったとおり、子供は吸収が早いのだと納得しました。小学校に上がる頃には、他の子供たちと遜色ないまでに話せるようになりましたから。
ところで、初夏に運動会が開催されたあとぐらいから、幼稚園で園長先生をお見かけすることがなくなりました。お体の具合が良くないようなことを小耳に挟んだものの、すぐに元気になって、また子供たちの前で笑顔を見せてくれるものと信じていました。
園からの訃報が届いたのは、秋でした。
あとで知ったのですが、園長先生は長くご病気をされていたそうです。それでも、子供たちのためにと尽力され、無理をされたところもあったのではないでしょうか。最初に問い合わせの電話をしたとき、わざわざ園長先生が対応してくださったことも思い出して、私は胸に迫るものを抑えきれませんでした。
年長からの入園でしたので、園や園長先生と長くお付き合いがあったわけではありません。それでも、誰よりもお世話になったという思いが強く、私は葬儀に参列しました。
秋晴れの、穏やかな日でした。
園児たちの歌声が流れる中、園長先生を見送りました。葬儀場からの帰り道、私は胸の内で、ずっとふたつの言葉を繰り返していました。
「ありがとうございました」
「さようなら」
と。
娘は中学三年生になりました。帰国するまで日本語がまったく話せなかったのが嘘のように、小生意気なことを言います。ときには、親思いの優しい言葉も口にしてくれます。
あのとき、園長先生が「だいじょうぶですよ」と受け入れてくださらなかったら、娘はここまで成長できなかったでしょう。そう考えると、娘の中には園長先生の優しさが、ずっと生き続けている気がするのです。
今日のような秋晴れの日には、今でも時おり、園長先生を思い出します。