かみさまのこども

 大きな木に身体をもたせかけて、生い茂る茨の隙間からわずかに覗く青い空を、ラナは見るともなく見ていた。ここに来てからもうどれくらい日が経ったのか、それすらラナには解らない。空腹も度を越して、何も欲しいとは思わなくなった。ただ、ひどく喉が渇いていた。

 ぼんやりとした頭で、ここに来てから何度となく考えていたことを、ラナはまた考えだした。考えたからとて答えが与えられるわけでもないのに。それでもラナは考える。考えることが唯一ラナに残された、生きている証でもあるかのように。

 ――どうしてあたしが、神様の子供に選ばれたんだろう?――

 ラナが生まれ育った山村では、百年に一度、占いによって選ばれた子供を山神様に還す、というしきたりがあった。選ばれた子供は「神様の子供」と呼ばれ、山神様が棲むという山に還されるのだ。「神様の子供」を山に還すことで、山神様がこの村を守って下さっている――そう考えられているのだった。

 神の代人が占いの結果を伝えに来た時、父はがっくりとうなだれ、母は気が狂ったようにわめき散らした。幼い弟は何が起こったのか解らず、ただ両親をじっと見ていた。老いた祖母だけが、誇らしげに胸を張り、家の中に設しつらえられた祭壇に向かって手を合わせた。神の代人と、それに仕える十名ほどの男に取り囲まれ、輿に乗せられたラナの耳に届いたのは、弟の無邪気な声だった。

「姉ちゃん、どこに行くの? いつ帰ってくるの?」

 その後ラナは代人の屋敷に連れて行かれ、禊みそぎの儀式を行い、用意された装束に着替えさせられた。袖も裾も帯も恐ろしいほど長く、じゃらじゃらと連ねられた装身具が重かった。身動きが取りにくいようにわざとそうしてあるのかもしれない。

 身支度がすっかり整うと、ラナは代人の屋敷の前に集まった村人たちの前に、見世物のように引き出された。ラナを見つめるたくさんの瞳。中にはほっと安堵の色を浮かべているもの、恐れるように上目に見つめるもの、手を合わせているものもあった。代人がよく響く声で村人たちに告げる。用意された台詞を淡々と読み上げるように。

「神様の子供が山神様の御許へお還りあそばす。皆の見送りを、山神様も神様の子供もお喜びであられる」

 それからラナは、きらびやかに飾り付けの施された輿に乗せられた。集まっていた村人たちがさーっと線で引かれたように道をあけた。ラナは輿の上から村人たちを見渡した。両親も弟も、祖母も見当たらなかった。

 輿に従うように連なった村人たちの群れもだんだんと少なくなり、神の代人とラナが載る輿を運ぶ者だけが、深い山道を分け入るように進んでいく。やがて輿が下ろされ、ラナは輿を降りるように言われた。そこでラナが目にしたのは、ご神木と呼ばれる大きな木と、周りを取り囲むように生い茂る茨だった。村人たちが近づくことを決して赦されない場所。ラナはそこに連れて来られたのだ。

「それでは」

 代人と男たちは深く頭を下げ、振り返りもせずに帰って行った。茂った緑に吸い込まれるように小さくなってゆく男たち。すぐにラナは一人ぼっちになった。きょろきょろと見回すと、茨の茂みがアーチのようになっていて、子供が一人やっと通れるかどうか、という隙間があるのを見つけた。誰に何を言われたわけでもない。なのにラナはその奥へ行かねばならないような気がした。誰かが呼んでいる気がしたのだ。茨がラナの装束を引き裂いたが、ラナ自身は傷つくことなく茂みを抜けて、ご神木のすぐ根元までやって来た。そこでご神木にもたれかかると、急に温かな気持ちになった。

 そうしてラナは、幾日もをこの木にもたれて過ごしたのだった。

 最初の頃は、どうして自分が神様の子供に選ばれたのか――そのことばかりを考えていた。しかし食事として渡された団子と、それから白くて甘い、どろりとした飲み物を口にするようになってから、ラナは早く山神様の御許へ還りたい、と思うようになった。

 この頃では意識して考えるようにしなければ、何も考えられなくなってきていた。ラナの脳裏に浮かぶのは、早く山神様の御許に還りたい、という願望だけだった。還りたいという気持ちが日に日に強くなっていくのをラナは感じていた。それを振り払うように軽く頭を振って、ラナは必死に思考を働かせた。

 ――どうしてあたしが、神様の子供に選ばれたんだろう?――

 ラナが瞳を閉じたままで、繰り返し繰り返し考えたことを、またも考え始めたときだった。ラナはふ、っと明るさを感じて、閉じていた瞳を開いた。目の前に、金色の毛並みの大きな獣が佇んでいた。全身が淡く光っているようだった。

「……」

 これが山神様なのだろうか? ラナは何度か瞬きをした。獣は足音も立てずにラナに歩み寄った。獣は濡れた瞳でラナをじっと見つめると、大きな舌でラナの頬を舐めた。その温かさに、ラナは緊張がほぐれていくのを感じた。

『あなたは神様の子供?』

 ラナはこく、と頷く。

『……あなたも還りたいと思っている?』

 声はそっと、ラナに尋ねた。ラナは反射的に頷き返そうとして――ふとあの疑問を口にした。

「あたし、どうして神様の子供に選ばれたのかしら?」

 獣はなぜか考え深げに目を細めた。もう一度ラナの頬に温かな舌を這わせる。

『それは僕にも解らない。もうずっと前から、こんなふうにここにやってくる子供がいる。僕は子供がかわいそうだから、一緒に連れて行ってあげるだけ。子供はみんな、おんなじことを言うんだよ。早く山神様の御許に還りたい、って。だからあなたもそうなのかと思って』

 ラナは首を傾げた。

「あなたが山神様?」

 獣がわずかに首を振った。僕は山神様のお使いに過ぎないよ、そう答える声がした。

「山神様があたしのような子供を、望んでいるわけではないの?」

『……望んでいる? まさか。山神様は何も望んでなどいやしないよ。あなたのような子供たちがそう望むから、僕はその望みを叶えるために、山神様の御許へ連れて行くだけ』

「それじゃ、あたしが帰りたいと望めば、帰らせてくれるの?」

 ラナの問いに、獣は軽く喉を鳴らした。

『帰らせてあげることもできるけれど……』

 獣は曖昧に言葉を濁した。ラナは獣に詰め寄った。

「そうなの? あたし、帰らせてもらえるのね? 帰りたい――帰りたいわ! 村に!」

『それはあなたのためにはならないよ? 山神様の御許に還った方が幸せだったと、後悔してもどうにもならないよ?』

「……それでもいい、帰りたい!」

 ラナは強く言った。獣はそれ以上何も言わずに、ラナを背に乗るように促した。ふわ、っと身体が舞い上がったように感じて、ラナはしっかりと獣の背に掴まった。一瞬だけ視界の隅に、ちらりとご神木が映った。

 ――ただのちっぽけな木。

 ラナは思った。

 その一瞬後、ラナは山のふもとにある、神の代人が住む屋敷の裏手に佇んでいた。あの獣の姿はどこにも見当たらない。帰って来られたんだ――安堵とともに、ラナの口から微かな笑い声が上がった。それを聞きつけたらしく、神の代人がラナの前にやって来た。

「どうして――?」

 代人はそう呟くと、ラナが何かを言おうとしているのに耳も貸さずに屋敷に駆け込んだ。次に現れたとき、代人は宝剣を手にしていた。印を解くと何も言わずに、いきなりラナに斬りかかった。ふらり、と倒れこんだラナの心臓の辺りを、背中から冷たい刃が付き通す。代人は宝剣を引き抜くと、呆然と呟いた。

「新しい子供を、早く山神様にお還ししなくては――大きな禍が……」

 還したはずの『神様の子供』が戻ってきた場合、それは『神様の子供』ではなく穢れた子供。ゆえに宝剣で心臓をついて殺してしまう――村に伝わるしきたりに付随した決まり事だった。ラナが知らなかっただけで、代人はそれを実行したに過ぎなかった。

 ラナは遠のく意識の下で初めて知った。『神様の子供』には、山神様の御許に還る以外、選ぶ道などなかったのだと。帰っても命を奪われるだけだと知っていたら、帰って来なかったのに――。心臓から命が奔流となって溢れる。最期の瞬間、ラナの目に金色の獣の足が映った。

『だから言ったのに。あなたのためにならない、って』

 獣はふんと鼻を鳴らした。

『山神様は人間の血の匂いが嫌いなんだ。毛皮に匂いが移る前に帰らなくちゃ』

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