マルチ人。の絶叫伝記 〜小学生編 ④ 母子家庭でもひとときの安息。
1991年10月、東京都、練馬区。
「いつき!いつきぃ、早く来いよ。」
「待ってよぉ。」
「遅せぇよ、置いて行くよ。」
「待ってよぉ(泣)」
私(マルチ人。)の3つ下の妹のいつき(仮名)は立ち止まり、今にも大声を上げて泣きそうな表情だ。
私と2つ上の兄のりょう(仮名)は、振り返りいつきが歩き出すのを、やきもきしながら待つ。
「早く来いよぉ!」
と兄のりょうが声を張る。
「すぐ泣くなよ!」
と、私がとどめをさす。
「○%×$☆♭#▲〜(号泣)」
大空を見上げて、声をあげて泣き出すいつき。
りょうは、そのままいつきのとこまで戻り、いつきの手を繋ぎ一緒に歩く。いつきの足取りがりょうに追いつかず、半分引きずられているようにも思える。
反対側のいつきの手を私が繋ぐ。というよりむしろ、”掴む”に近い。
りょうは、小学4年生、私が小学2年生、いつきはまだ、保育園年中のクラスだ。
身長差、体格差、歩幅が全く違う兄2人に両サイドから手を繋がれて歩かされているそのいつきの様は、まるで人間に捕獲された宇宙人のようだ。
子ども3人が足早に向かっているのは、近所にある「そうじや(仮名)」という駄菓子屋。
母からもらったお小遣いを握りしめて、3人で駄菓子屋に行っておやつを買うのが楽しみの1つでもあった。
ガラガラッと、そうじやの引き戸を開け、中を覗き込むと、シチサン白髪でメガネをかけたおじいちゃん店主のいつもの姿がそこにあった。
「いらっしゃい。」
この時の私の駄菓子のマイブームは”のし梅さん”と”ビッグカツ”だ。
いつものようにその2つは予め捕獲して、駄菓子をかごに追加していく。
3人の子どもは、駄菓子を購入して、そのまま、新たな目的地に向かう。
次はおもちゃ屋だ。
当時、おもちゃ屋の前に設置されている
”ガチャガチャ”
またの名を
”ガチャポン”のキン消し(材質が消しゴムのようなキャラクターフィギュア)にりょうと私は、はまっていた。
もう1つはまっていたものがある。
”カードダス”をご存じだろうか。
販売機にお金を入れて、つまみを回すとカードが出てくるという、コレクションカード販売機のことだ。
当時はカードダスが1枚20円で販売されており、20円入れてつまみを回すと1枚ランダムでカードが出てくる。100円で5枚セットで買えるカードダス販売機のタイプもあった。
そのカードがレアなカード、もしくはラメが入ったキラキラのカードが出てきた時には、テンションが上がり歓喜を上げたものだ。
兄のりょうと私は、特に”ドラゴンボールZ”シリーズの”ガチャピン”と”カードダス”が好きで、その魅力に取りつかれて、お小遣いのほとんどをそれに浪費していた。
この駄菓子屋の”そうじや”と”おもちゃ屋”の買い物コースは、子どもたちのとってのハッピーロードだ。
あのおぞましいモンスターハウスから、見事なまでに脱出を果たした山川(やまかわ)家(仮名)は、母、りょう、私、いつきの4人の母子家庭生活が新たにスタートしていた。
震度5程度の地震でも倒壊しそうなほどボロい外観をした、2DKの木造アパートに4人が住んでいた。
1年経過しない間に2回も転校を余儀なくされた、山川家の兄のりょうと私は、また新たな環境に適応しなければならないはめとなった。
妹のいつきだけは、園が変わることなく同じ保育園にそのまま通っていた。
(いつきは転校とかなくて、いいなぁ)
と、よく思ったりもしたものだ。
それでも、金田(かなだ)家(仮名)との(モンスターハウスでの)同居生活の時のような、家庭内に嫌悪感や違和感、恐怖感を味わうことなく、若干の寂しさはありながらも、安らぎを見出して過ごせていた。
子どもたちにとっては、ひとときの安息だ。
引っ越してきてから母は、私たち3人の子どもたちのために、朝食の準備から始まり、私とりょうの小学校登校の送り出し、その後、いつきを保育園へ送り届け、そのまま仕事に行く。歯科衛生士の資格を持っていた母は、歯医者の先生へのサポート事業をしている企業で事務の仕事をしていた。仕事終わりには、そのまま保育園へいつきを迎えに行き、家族の夕食を作り、子どもたちの就寝まで、仕事、家事、3人の育児を一人で毎日こなしていた。
モンスターハウスを出る時もおそらく、引っ越しの手配や転校の手続き、役所への手続き、就業なども一人で行ない、その多忙を極めた時期もあっただろう。
この時、母の両親(私の祖父、祖母)は既に亡くなっている。正確に言うと私が保育園の歳の頃に、祖母が亡くなって、祖父は、この母子家庭のバタバタしていた時期に、亡くなっていた。母は自分の父が亡くなったことを母の家族から知らされていなかったのだ。母は自分の父の葬儀に出ることも、亡くなったその死に顔を見送ることも、最後に看取ることもできなかったのだ。母方の親族の方で、すでに葬儀は済ませて、そのあとに祖父が亡くなったことを知らされたそうだ。以前までは盛んにあった母方の親族との交流は、離婚を機に、突然パタリとなくなっていた。なぜか、山川家は母方の親族から、・・・いや、どの親族からも何の助けも得られない完全孤立家族の状態にあった。
母方の親族から助けを得られなくなった、その理由はこの約10年後に私は知ることとなる。
物事に対して、真っ直ぐで物怖じせず、すべきことに猪突猛進して、それを成し遂げる馬力と行動力がある亥年(いのしし年)のパワフルな母は、母の家族にすら頼ることなく、この新生活をワンオペ(レーション)でやってのけたのだ。
このパワフルな母の人物像は、今でも私(マルチ人。)の心の中で強く印象として残っている。
数年後には、これから繰り広げられる絶叫をあげるほどの変化がうねる人生によって、母の神経と精神が削られ、やせ細っていき、この”パワフルな母”が、見る影も無いほどに弱っていくことなど、私はまだ露程も思っていない。
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