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若者たちと歩いた北極圏600km

私の最新刊「君はなぜ北極を歩かないのか」が発売になりました。

冒険研究所書店ではサイン入りも用意しています。

あらためて、今回の新刊は2019年に私が素人の若者たち12名を率いて、カナダ北極圏のバフィン島を600km、1ヶ月の徒歩冒険に出ましたが、その旅を準備期間から含めて一冊にまとめました。

若者たちの平均年齢は23歳。女性2名を含む12名は、全員がアウトドア経験もない、海外旅行も初めてのメンバーも多数、スキーやキャンプ経験もない素人ばかり。

凍った海の上を、各自がキャンプ道具や食料を積んだソリを引いて歩いていく。

私がこの冒険を明確に考えたのは、2017年から2018年にかけて南極点無補給単独徒歩到達に臨んだ際のことでした。

 この二〇年弱、自分の原点となった二〇〇〇年の北磁極への冒険ウォークが、常に頭の片隅にあった。
 自分の成長を願い、一つずつ課題を乗り越えながら実力をつけてきたが、この日々を送っていった先には、いつの日か自分が大場さんのように、若者たちを率いて北極を歩く日が来るようなイメージを持っていた。
 しかし、まだ若く自分の課題にひたすら取り組んでいたころには、他人を連れて北極を歩くことは現実的に考えられなかった。それほどの実力も実績も伴っているとは思えず、いつの日かやって来るであろう未来のイメージとして、脳内の片隅に置いておくだけのものだった。
 そうだ、この南極が終わったら、次は自分が若者たちを連れて北極を歩こう。
 南極を歩きながら、そのアイデアが現実味を持って私の中に育っていた。その計画を実施する許可が、自分自身に対してようやく出たような気がした。

「君はなぜ北極を歩かないのか」より

私自身、2000年に冒険家の大場満郎さんが計画して実施された「北磁極を目指す冒険ウォーク」に参加したことが、極地冒険を始めた全ての始まりでした。

当時の私は22歳。海外旅行経験もなく、アウトドア経験もない、普通の若者でした。

あれから約20年が経ち、成功も失敗も経験し、そろそろ自分が若者たちを率いる番だなと、自分自身に対して許可が出たのが、南極を歩きながらでした。

カナダ北極圏、バフィン島にルートを定め、参加希望の若者たちが一人また一人と集まってくる。最終的に12名の若者が集まりました。

 若者たちとの旅が終わった後に、何度も「どうやって参加するメンバーを選んだんですか? 」と尋ねられた。その度に「私は選んでません。結果的に、行きたいという意思でやって来た全員を連れていきました」と答えた。それは何も選抜なしなのか? というと、そうではない。私がとった手法は「募集をしない」という選抜方法だった。
 一般的に募集というのは「募り」「集める」という言葉から分かる通り、主催者から参加を呼びかけることだ。こんなことをやりますよ、参加しませんか? と投げかける。主催者が手を差し出し、その手を参加者が握り返すことで、そのツアー旅行なりへの参加が決まる。主催者が募り、そして集める。
 しかし、私は募集をしないことに決めていた。つまり、私から参加者に向けて手を差し出さないということ。私が行うのは、来年の計画として若者たちと北極での徒歩冒険を行うと、告知するのみ。告知はするが、募集はしない。
 差し出された手を握り返すのではなく、差し出されてもいない私の手を、勝手に握りに来る若者だけを連れて行こうと考えていた。
 私の中で、選抜はそこで終了だ。
 あとの条件は関係ない。運動経験とか、体力とか、協調性であるとか、アウトドアスキルとか、そんなことは正直どうでもよかった。
 日本社会で計る物差しがそのまま北極の現場にも適用されるわけではない。つまり、日本の常識の範囲内で測ったところで、大した参考にならないと思うのだ。だからこそ、私が呼びかけてもいない募集に対して、差し出されていない手を握りに来る若者、募集されてもいない計画に主体的に参加表明してくる若者であれば、それで十分だと思っていた。

「君はなぜ北極を歩かないのか」より

極地冒険をどのような手順で進めていくのか。若者たちとの旅を追いかけながら、手順を紹介しながら計画は進んでいきます。

2019年3月下旬。日本からカナダへと渡り、オタワでの準備を経て、ヌナブト準州の州都イカルイットへ。

現地での実地トレーニングを経て、旅はスタートします。

冒険のスタート

この時の冒険の中で起きたエピソードは、いくつかはnoteでも紹介してきました。

主体的に能動的に集まってきた若者たちも、出発直後は北極の環境の物珍しさも手伝って、大学生のサークル旅行のような浮ついた気分に支配されます。
しかし、そこからいくつもの出来事を経て、次第に姿勢が変化していきます。途中、ホワイトアウトで視界が全く効かない中で、先頭を歩く私が正確なナビゲーションを行って目的地にピタリと辿り着いたことを見て、若者たちはナビゲーションに関心を持ち始めます。それまでただの綺麗な景色としてしかみていなかった周囲の環境が、自分たちが前進するための「情報」に置き換わり、その情報を把握して利用しながら前進することを知ります。

主体的な姿勢の変化に伴い、私は若者たちに指導や叱責をするようになり、旅の最終盤にある事件が起きます。

そこで何が起きたのか。若者たちは、北極の旅を経て何を得たのか。ぜひ、本書を読んで確認してください。

私が「君はなぜ北極を歩かないのか」で伝えたいことは「冒険とは何か」「冒険の意味とは何か」です。

果たして意味などあるのか?

 冒険とは、単なるリスクを冒す行為ではなく、人間の内なる衝動に応じ、未知の領域へと主体的に踏み出すこと。そして、事後的に社会に対して影響を及ぼす一連の行為のことだ。
 アメリカのユダヤ系詩人、ポール・ツヴァイクは、著書「冒険の文学」の中でこんな一節を書いている。

 「冒険者は、自らの人性の中で鳴り響く魔神的な呼びかけに応えて、城壁をめぐらした都市から逃げ出すのだが、最後には、語ることのできる物語をひっさげて帰ってくる。社会からの彼の脱出は、きわめて社会化作用の強い行為なのである。」

 冒険は、内なる魔神の呼びかけに応じる、根源的欲求が端緒となる。それは、衝動であり、好奇心であり、内発的で極めて個人的な動機のことだ。
 城壁をめぐらした都市から脱出した先に待っているのは、生命維持もリスク回避も人為的な構造に依存することのない、行為者の主体性によって全責任を引き受けざるを得ない荒野だ。荒野の中で、主体的に責任の全てを引き受ける覚悟を持つからこそ、本当の自由が手に入る。
 そこで冒険者は「語ることのできる物語」を獲得し、それを引っ提げて彼は城壁に帰還する。
 魔神的な呼びかけに応じて旅立った彼の行為は、城壁の外で荒野の声を聞き、語ることのできる物語としてそれを社会に伝えたとき、人々に新たな視座を与え、初めて社会的な意味を帯びることとなる。
 冒険とは、社会性をまとった人類という生物種が、その社会に動的平衡を与え続けるために本能的に獲得した、生存戦略のことである。

「君はなぜ北極を歩かないのか」より

この文章から始まって、私なりの冒険とは何か、について考察しています。

そして、冒険や探検という言葉の足りなさ。言葉によって本質が小さくなっていく意味に対抗するために、第三の言葉としての「験」についての考察を行っています。是非読んでいただきたいです。

そして、最後のあとがきに旅の憧れについて。

 旅が必ず効用をもたらしてくれるわけではない。効用を求めて旅に出るのは、意味を求めた行為である。
 旅とは、憧れだ。
 まだ見ぬ世界への憧れ。世界に触れた、自分自身への憧れ。そんな、個人的な衝動が一歩を進ませる力となる。
 憧れること、衝動に従うこと、打算のない純粋な一歩を重ねること。その人生最大の価値を信じて歩き続ける者にしか、最高の意味は訪れない。
 意味とは、徒労とも思える無為の果てにこそ生まれ出る。

「君はなぜ北極を歩かないのか」あとがきより

「君はなぜ北極を歩かないのか」と、読者に訴えかけるようなタイトルになっています。

ほとんどの人は「いや、そんなこと言われても、北極なんて歩かないし」という返事でしょう。

北極を歩くこと、というのは私なりの冒険の形です。

そして、皆さんには皆さんなりの冒険の形があるでしょう。

冒険とは、何も北極やジャングルや砂漠や高山にだけあるのではなく、日常にあります。

冒険とは、場所の話ではなく、姿勢の話です。

本書を読んでいただければ、きっと分かるでしょう。


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