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「見て」いるものと、「見えて」いるものの違い

2019年春。私は学生やフリーター、新米社会人など12名の若者男女(男性10名女性2名)を率いて、カナダ北極圏600kmの徒歩冒険に挑んだ。

「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」と名付けられたこの旅は、私が20年かけて極地で学んできたことを、若者たちに体験してもらい、その経験を自分の世界に持ち帰ってもらおうという狙いで計画し、一年をかけて準備を進めた。

4月7日、カナダ北極圏バフィン島に位置する”パングニタング ”という、先住民イヌイットの村をスタートした。

一人ひとりのメンバーは皆、心にそれぞれの思いを持って参加してきている。ある者は自分の世界を広げに、ある者は誰かに決められたレールから外れ自分の道を歩くため、ある者は極地の自然を身いっぱいに体験するため。

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出発してしばらくの間は、毎日の進行の先頭に私(荻田)が立ち、地図とコンパスを見ながら、太陽の位置と時間で方角を割り出し、風紋と風向きからも進路を決めて歩いた。若者たちは、私の後ろを一列になって追従するだけで良い。

2週間ほどたったある日のことだ。その日は視界が悪く、ホワイトアウト状態で周囲の景色は牛乳の中を泳いでいるような白一色の世界。目標物もなく、正しい進路を決めるのがとても難しい1日だった。

午後になって、その視界の悪い中で、海氷上から上陸し、5kmほど小さな半島を横切った。その先にある、半島から海に注ぐ河口に出るのが正しいルートである。

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先頭を行く私は、これまでの経験と技術から、ホワイトアウトで視覚的な目標物がほとんどない中でナビゲーションを行い、目標の河口にピタリと出た。

若者たちにはこれが驚きだったようである。

「真っ白でどこをどう歩いているのかも全くわからないのに、荻田さんはなんでまっすぐ歩けたんですか?何を目標にしてたんですか?」

その日を境に、彼らから北極を歩く技術に関しての具体的な質問が出るようになった。

翌日から、私は彼らに対してナビゲーションの技術を少しずつ教え始めた。そして「興味があるならみんなでやってごらん」と伝え、私が持っていた地図とコンパスをリーダーに渡し、私は隊列の最後尾に回って彼らに先頭を譲った。

それまで私の後ろをただ黙々と追従するだけの毎日から一転、自分たちで進路を確認しながら進んでいくことは、若者たちにとって大きなやり甲斐となった。

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私は最後尾から彼らを見守り、時に軌道修正し、時に叱責し、何かを判断するというのはどのようなことか?重要にすべきことは何か?そんなことを日々伝えていった。

その中で、何度も何度も重ねて言ったのは「よく見なさい。ただ見るんじゃなく、じっと観察しなさい。よく聞きなさい。ただ聞くんじゃなく、しっかりと耳を傾けなさい」ということだ。

凍結した海の上を歩いていると、水平線に見えている島や氷山などが、どのくらい遠くにあるのかを視覚的に判断するのがとても難しい。比較対象物がないからだ。地図を「読み」ながら自分の進路を決める、という人生初めての体験をする彼らにとっては、自分が「見て」いるものが何なのかを正確に理解することも難しい。

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ある日、こんなことがあった。

30分ごとに隊は進行を止め、5分間の休憩を取る。その間に、先頭でナビゲーションを行うメンバーたちは、みんなで集まって地図とコンパスを広げながら自分たちの進路を確認する。最後尾で私が様子を見ていると、先頭で何やら悩んでいるようだ。隊の進路の先には、水平線に小さな島が二つ、並んでいるのが見える。

私には、すぐに彼らが何に悩んでいるのかが理解できた。

私は先頭に合流し「どうしたの?」と声をかけると。彼らは答えた。

「いや、進路の先に二つ島が並んでるんですけど、地図を見るとそんな島は書いてないんですよね。あれって、何なんだろう。どれを見ているんだろう?」

私は答えた。

「ほら、よーーーく見てごらん。あの二つ並んでる島って、二つの色が少し違うでしょう?岸壁の色が。片方は黒っぽいけど、もう一つはほんの少しだけ青っぽいでしょ?分かる?」

「あ!確かに言われてみると、そうですね」

「色が違う意味、分かるか?」

「そうか、我々からの距離が違うってことですね。青っぽいってことは、あれはもっと遠くにあるってことか」

「その通り。ほら、地図見てごらん。我々から見て、あの方向に、手前に小さな島、遠くに大きめの島があるでしょ。それが同じくらいの大きさで並んでいるように見えるだけってことだ」

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私が見えているものと、彼らが見えているものは違う。でも、同じものを「見て」いる。ここに、「見ている」ものと「見えている」ものの差がある。

私は、これまでの経験によって、北極においてどのようにものを見て、聞いて、感じれば良いかが身に付いている。

見ているのに見えなかったことを、見えるようにしていく。

これは、漫然と誰かの後ろを追従しているだけでは、絶対に身につかない。主体的に、観察する意志を持ち、果てしない実践と失敗を経て、その果てに特に意識することもなく「見える」ように身に付くものだ。

「よく見ろよ!」と経験豊富な者が言うと、経験に乏しい者は「よく見てます!」と答える。だが、大抵は見ているだけで見えていない。だが、そこで何度も失敗することで、次第に「見える」ようになってくる。経験者は、自分が見えているものが必ずしも経験乏しい他人にも見えていると勘違いしてはならない。

全ての物事には、多角的な側面がある。缶コーヒーの姿を見て、丸だと言う人もいれば四角だと言う人もいる。どちらも正解だが、物事を一側面からしか見ることを知らない人、他の側面を見ることを放棄した人は「どう見ても丸だろ!缶コーヒーが四角なわけあるかい!」と、他人の意見を「誤り」だと決めつけてかかる。

主体的な姿勢での実践を通し、自らの経験として多角的な視座を持つことで、他人を許容する気持ちも生まれてくるだろう。

だからこそ、漫然たる他者の追従をやめ、自分の道は自分で決めていく確固たる姿勢が大事であると知る必要がある。

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