山本寛斎さんとの思い出
山本寛斎さんが7月21日に亡くなった。享年76。
とにかく残念だ。
私はわずか2年半ほどの短い期間だったが、寛斎さんとお付き合いさせていただいた。
出会いのきっかけは、2018年1月に私が南極点までの単独行の遠征を終えて帰国した直後のことだ。突然、寛斎さんから連絡をいただき「会いたい」と伝えられた。
それまで全く面識もなく、接点もなかったために「なぜ山本寛斎さんが!?」と私も驚いたが、誘われるままに指定されたお店に向かうと、そこには全身を赤でコーディネートした寛斎さんがいた。
席に座るやいなや「僕ね、アムンゼンとかスコットが大好きで、植村直己さんの本も全部読んでるし、北極や南極って実際にどんなところか興味あるんですよ!」と、目を輝かせながら話してきた。
楽しそうに、子供のような目で語る姿を見て「あぁ、この人は本当に楽しそうに話すな」と感心した。そして、周囲にいる人すべてを明るく照らすような太陽みたいな人だなと感じた。
「僕もそのうち北極に行ってみたいんですが、行けるものですか!?」
最後にそう言ってきた。「行ってみたい」と言う人は多いし、私もこれまでそう言う人にはたくさん出会ってきたので「はい、まあ行けますよ」と話半分の気持ちで答えた。
「荻田さん、連れて行ってもらえますか!?」
「はい、私でよければお連れします」
その年の6月、寛斎さんが六本木で開催しているイベント「日本元気プロジェクト」のステージに出てくれと依頼をいただき、打ち合わせのために何度か顔を合わせることになった。
寛斎さんの事務所に顔を出すと、いつも素敵なコーディネートに身を包んだ寛斎さんが満面の笑顔で迎えてくれる。「荻田さん、僕ね、最近はタクシーに乗らずに自宅からなるべく歩くようにしてるんですよ!北極に向けて運動しなくちゃね!」と、これまた楽しそうに話す姿を見て、私は「やべ!この人、本気で行く気だ!」と心の中で思っていた。私も言った手前、連れていくしかないと覚悟を決めた。
この頃、私は翌2019年に若者たちを連れての北極徒歩遠征を計画し、参加メンバーたちと毎月都内でミーティングを行っていた。寛斎さんの北極と、若者たちとの北極は別計画として進めていたが、寛斎さんから「僕もそのミーティングに参加していいですか!?」と連絡をいただき、何度か若者たちと交流していただいた。寛斎さんは「どんな若者たちが来てるんだろう」「みんな、どんな気持ちで北極に行くのだろう」そんなことに興味があるようだった。
2019年3月。寛斎さんはカナダ北極圏のイヌイットの村に降り立った。私と出会って1年後、本当に北極の村までやって来てしまった。
一週間ほどの滞在では、村の中で出会うイヌイットの女性が纏う民族衣装に興味を持ち「この毛は何の動物なんですか?」「あなたが作ったんですか?」「みなさん、お仕事は何してるんですか?」など、自ら聞いて歩いていた。「あの人の履いているブーツ、カッコいいね!」「あの服はすごく機能的だね、写真に撮っておこう」そうやって、おそらく後々自分のインスピレーションの参考になりそうだと感じたものを、記録に残しまくる。あぁ、こういう小さな蓄積がある時繋がって、大きなアイデアとして実現するんだろうな、ということを間近に感じた。
2019年3月上旬に寛斎さんとカナダ北極圏を旅し、帰国すると私はすぐに若者たちと再びカナダ北極圏に旅立った。
若者たちとの600km、1ヶ月間の徒歩冒険行の間は、日本の私の事務所に寛斎さん自身から何度も電話があったようで「若者たちみんな元気に歩いてますか!?」「誰も怪我してませんか!?」と、ずいぶん気にかけていただいた。
結局、私が最後に寛斎さんと顔を合わせたのは、昨年末に私が企画している忘年会に寛斎さんも顔を出していただいて、たくさんの人たちから「寛斎さん、写真撮って!」「握手して!」と、もみくちゃにされてご本人も満面の笑みで帰って行ったのを見送ったのが最後だった。
年が明け、白血病が発覚して入院、闘病を続けたが、ついに亡くなってしまった。
私が山本寛斎さんから学んだことはたくさんある。
寛斎さんから見れば息子のような年齢の私に対し、寛斎さんは常に敬語だった。一度も上から目線の態度を取られた覚えはない。自分の知らないことを知っている人、自分のできないことをやっている人への尊敬の気持ちを、心から持っている方だった。
また、寛斎さんと話していると、私が寛斎さんから受ける質問のどれもが「こんな質問、初めてされるな」というものばかりだった。私も北極や南極のことを人に話す機会は多いし、質問を受ける機会も多い。すると、やはり人が気になるポイントというのはある程度定まってきて、ある意味で定型化された質問とそれに対する返答が出来上がってしまう。
しかし、寛斎さんと話していると思いもよらない方向から質問が飛んでくる。「荻田さんはご自分を冒険家として他の冒険家とどう違っていると思っていますか?」なんて聞かれた時には、自分でも改めて初めて考えるな、と頭をひねったものだ。寛斎さんと話していると、私自身が新しい視点を得ることができる。
そんな優しく、寛大な寛斎さんがいる一方で、イベントプロデューサーとしてショーの演出をしてる時の鋭い目と、ズバリと本質を見極めて放つ言葉にドキリとさせられる。触れると火傷しそうなほど激しい情熱を燃やすデザイナーでありプロデューサーの寛斎さんと、その熱量を太陽のように周囲を明るく照らすプライベートの寛斎さんがいた。
一緒に食事をしていれば優しく楽しいおっちゃん、という感じであるが、仕事の現場に立てばプロの勝負師になるこの切り替えは人間として本当にカッコいい人だった。
毎年開催している「日本元気プロジェクト」のイベントは、今年はコロナウイルスの影響もあり、オンラインイベントとして準備している。今月末、7月31日の夜に配信予定だ。寛斎さんが最後まで作り上げたイベントを、ぜひ皆さんも画面を通してご覧ください。
まだまだお話ししたかったし、教えてもらいたいこともあった。短い期間だったが、寛斎さんから教えていただいたことがたくさんある。本当にありがとうございました。寛斎さんの燃えるような駆け抜けた人生で、たくさんの人に影響を与えて下さり、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。