言葉の丈夫さ
9月19日はちょうど自分がイギリスに旅立った日だ。あれから一年が過ぎたのだと思うと、感慨深くなってすこし涙が出た。
無人の国際空港で一人キャリーケースを引っ張って歩いたその日、片手には何十枚もの書類を持っていた。それは全部入国するためのコロナに関する書類たち。書類に一つ不備があったから、急いで書き直してなんとかチェックインできた。トランジェットでまずは香港行きの国際便に乗ったのだけれど、周りには誰一人乗客がいなかった。乗務員に聞くと、この国際便に乗ってるのば僕一人だったのだ。何千人もの人を運ぶ機体に、たった僕だけだ。本当に恐ろしくなった。あの時ほど恐ろしい時間はない。
なんとか香港に着いて、三時間の休憩。もうそこは海外だった。周りには日本人誰人もいなくて、頼れるのは自分一人だった。乗り換えもうまくいき、14時間のフライト。着いた頃には身体中が痛かった。迎えにきてくれる運転手さんは既に英語圏の人。言われるがままについていって、車に乗り込んだ。実際にイギリスについたんだなって感じたのはその時だったのだと思う。なにもかもが忙しくて、今自分がイギリスの地に足をつけていることに実感が湧かなかったのだ。
ここから先のことを書こうと思うと歯止めがきかないから、ここまで。
なんだか記憶というのはある程度の歳月が経って、ようやくそれを言葉として残せる気がする。
風化していった記憶の一部を補完するために、人は物語として、言葉として残すのだろう。記憶というのはそれほど脆く、言葉はそれ以上に丈夫なのだ。だからあの半年の記憶が今になって漸く言葉として書けるくらいに落ち着いたのだと思う。
『現在の自分は、その自分の記憶の集積ではなく、過去の記憶とそのまた過去の記憶の、差異の反復にある。』みたいなことを、ドゥルーズが言ってた気がする。なんだか今漸くその意味が少し分かった気がする。
過去は絶対的ではなく、今の自分との相対によって形作られる。だから記憶は時間が経ってから、ようやく素晴らしいものになる気がする。
よく頑張ったなぁ…。