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Nとはなんだったのか?攻殻機動隊 SAC_2045の考察と感想
はじめに
攻殻機動隊 SAC_2045を観終わりました。
久しぶりに考えさせられる物語を観たなぁ・・・って消化しながらいまnoteを書いています。
1984やマトリックス、一番感じたのは伊藤計劃のハーモニーの世界へのその後への賛辞を素直に感じました。
これを最新の3D映像で観れたことに本当に感謝です。
以下は感想とか考察をいろいろと書き連ねていきたいです。twitterで散々つぶやいたのですが、noteにも書いてみます。
僕自身攻殻機動隊の猛烈なファンではないので、気軽に読んでくれると幸いです。
舞台装置としての「1984」
まずはジョージオーウェルの「1984」をオマージュしているのは明らかですよね。作中でも本が登場するくらいですから。二期以降はそのオマージュの広がりが明確になっていました。思想警察やら101号室、ビックブラザーが出てくるあたり、僕自身、熱くなりました。
戦争は平和なり
自由は屈従なり
無知は力なり
1984の超有名な言葉ですよね。
今回の攻殻機動隊の物語を、この言葉と連結させてみたいと思います。
戦争は平和なり=サスティナブルウォー
自由は屈従なり=世界同時デフォルト
無知は力なり=Nになること
僕はこのように考えました。
コード1A84は戦争こそ最も効率的な経済政策であるとプログラムされていた。経済の安定という平和を実現さサスティナブルウォーを計画します。これが「戦争は平和なり」に当てはまります。
しかし、予測結果は著しい貧富の差が表れるという結果を招く計算結果となり、1A84はアメリカを無視し、考えたのが世界同時デフォルト。つまり世界が一度自由になるということです。
しかし総体的に自由になることはできない、難民や移民という社会的弱者を東京の復興計画の労働者として駆り出されるという現実が残っている。ここに「自由は服従」なりを表していると感じました。
そしてコード1A84はポスヒューマンとなり計画するのが「N」です。
まずはNが何だったのか、僕なりに解釈したいと思います。
素子:そもそもNとはなんだ?
プリン:現実を生きながら、摩擦のないもう一つの現実を生きられるようになった世界です。
みんながみんな、自分のやりたいゲームを別々に楽しんでいる。あるいは全員が解脱したような状態で現実を生きているんだと思います。
作中での解説です。なかなかに哲学・・・。
ここからは僕なりの「Nの世界」の考察です。
Nとは?「Nの世界」の考察・伊藤計劃の「ハーモニー」からの系譜
まず僕が思い浮かんだのは伊藤計劃さんの「ハーモニー」です。
「ハーモニー」は究極的な健康社会が進み、ケガや病気というものがなくなり、皆身体的、精神的にも安定した世界でのお話です。
ネタバレになりますが、ハーモニーの世界では、最終的にハーモニープログラムというプログラムで、皆が「意識」を消失します。死んでいるのではありません。ハーモニーの世界で語られるのは、究極的に人間同士の調和のとれた社会の形成には、人間の「意識」が必要なくなる。そういった世界です。
意識はないが、人はいつものように変わらず生活される。寧ろ以前より自明的に社会的に活動する。
そういった結末です。
ここでひとつ科学的なお話。
「自由意志は存在しない」という考えです。
これはまだ完全に明らかには解明されていないそうですが、最新の脳科学の研究によると、意識、つまり「わたし」というのは脳が作り出した錯覚であるという考えがあるようです。
誤った情報や、私自身詳しく書くことができないので、詳しく知りたい方はyoutubeの「哲学チャンネル」の「脳と自由意志」の動画を観ていただくと、とても詳しく、分かりやすく解説してくれています。
ハーモニーの世界での「意識」とは脳の中の様々な葛藤。
つまり「ご飯がたべたい」とか「明日の予定は何だったけ?」とか僕達はずっと頭の中で考え続けて生きています。動機や欲求や感情などの、いくつもの考えがお互いに湧き出てたり抑え込まれたりしている状態。それを「意識」と定義づけています。
そして今の最新研究と比較しても大きく外れてはいない考えだそうです。
このことを踏まえて、話を攻殻機動隊に戻します。
プリンの言ったセリフ「現実を生きながら、摩擦のないもう一つの現実を生きられるようになった世界」これはおそらくですが、全世界の人間が「葛藤という人生の動機や欲求や感情の相反がない世界」
つまり「意識」をなくした世界。私という存在は現実にいるが、「わたし」がない世界。
これが「Nの世界」だと考えました。現実を生きながらその現実に葛藤という摩擦がない世界。
Nって何の略だったのか?
じゃあ「N」というイニシャルは何を表していたのか?
僕はニュートラル(neutral)だと考えました。
自動車のギアに書かれているあのニュートラルです。
ニュートラルの意味の意味は
ニュートラル
1.
中立。中間。
「―コーナー」
2.
機械の伝動装置が動力と切り離された状態。特に自動車の変速機で、エンジンの回転が車輪に伝わらないギアの位置。
この言葉からいろんな解釈ができます。
機械の伝動装置が動力と切り離された状態。攻殻機動隊での機械は「人間」と言える。その動力を心という「意識」とするなら、
人間と意識が切り離された状態=ニュートラル
このように言えるのではないでしょうか?
また中立という意味で考えると
戦争がなくなり平和になる意味でのニュートラル。
Nの世界で摩擦のない状態、電脳内で精神が最も安らかな状態で生きていけるという意味でのニュートラル。
おそらく全世界の経済格差もなくなり、安定していくのでしょう。そういった意味でのニュートラルという捉え方もできる気がします。
技術的特異点に達し、ニュートラルな世界を築こうとした。それがポストヒューマンの目指した世界だった。そう捉えました。
Nになることを認識できない
話は少し脱線しますが、また作中ではこんなセリフがありました。
素子:それ(技術的特異点)を迎えたとき、人は自身の身に起きた進化を認識することすらできない
このセリフから分かるように、Nの状態になるということをその本人は認識できないそうです。自分自身ではNになったかどうか知りようがないそうです。
この台詞から、僕はジョージオーウェル「1984」の「無知は力」を「Nになること」と解釈しました。
だってNになっていることを知っていると、みんなそのことに葛藤するから。無知である方が都合がいい。Nになることに無知であるからこそそのテクノロジー(力)を享受できる。
「Nぽ」の存在 300万人の革命者
また作中には「Nぽ」とうワードも出てきます。これは「Nっぽいひと」の略だと思います。あの郷愁プログラムによって集められた300万人の人たちです。
彼らはお互いに「おまえはNか?」と確かめ合っていました。おそらくですが、スマートガスが散布される数時間前まで、彼らはNの状態になっていなかったと言えるんじゃないのでしょうか?
彼らにとってのNは「革命を起こす者」という共通ワードだった。
Nを知っているようで、知らなかった存在と言えますね。
300万人全員は「Nぽ」だった説。
理由はポストヒューマンが300万人で独立国家を作るというウソを皆んなに信じ込ませて、時間を稼ぐために。
ラストのシーンでポストヒューマンが
意識だけが進化した存在が確認された。
彼らが攻撃されないように、時間を稼ぎたかった。
と言っています。
この「意識だけが進化した存在」こそ「Nぽ」=東京に集まった300万人じゃないのでしょうか?
彼らはビックブラザーに忠実でした。その理由は独裁国家を作って「革命」を起こすため。
「革命」を実行しようとするほどの「意志」があるもの。これをポストヒューマンは「意識が進化した存在」と言ったのではないでしょうか?
彼らはアメリカとっては排除したい存在。
ポストヒューマンの目的は全世界のN化。それは意識が進化した存在も含める必要があった。
だからかれらを東京に集めて、あたからも独立国家を作るようポストヒューマンは仕向けた。それはアメリカから守り、彼らをNにするための時間稼ぎの為。
彼らもまたポストヒューマンの掌に踊らされてたわけですね。ポストヒューマンにとっての優しさなのかな…。
Nの社会をどうとらえるのか? 人としての尊厳
「Nの世界」は全体主義です。個人は自由に生きていると無意識に錯覚しながら生きている、けれどみんなNの状態で生きている。
そこは1984と変わらないディストピアな社会です。ポストヒューマンというAIが全世界の人々を掌握したという意味では完全な管理社会でしょう。
だた一つ違う点は、全世界の人々が究極的に安定しているということです。つまり心の中に相反する動機や欲求や感情などがない状態です。
おそらくですがそういった世界で誰一人「自分は不幸だ!」と嘆く人はいないでしょう。
ある意味では究極のユートピアです。
でも果たしてそれが「人」と呼べるものなのでしょうか?
攻殻機動隊 SAC_2045が投げかけた問いはこれなのだと考えました。
素子の決断した答え
この問いを踏まえて、ラストのシーンを考察してみます。
まずは素子がどうしてダブルシンクにならなかったのか。
ここでのダブルシンクはNの状態=意識のない状態になると同一の意味で捉えたいと思います。
あなたはまれなるロマンチストです。
現実と夢の違いの区別がほとんどありません。
ラストのシーンでポストヒューマンが答えたセリフです。
そして実は攻殻機動隊 SAC_2045の一期一話目の最初の発言は素子のこのセリフから始まるんです。
葛藤(ノイズ)がないって素晴らしいわ、これが永遠に続けばいいのに。
つまり素子は「Nの世界」になる以前からNのような心的状態になっていたということです。だからNになる必要がなかった。
現実と理想の葛藤をほとんど感じていなかった。現実をありのまま受け入れている状態。元々、Nの状態に近かったのが素子
そのためダブルシンクする必要がなかったんです。
じゃあ素子は意識がそもそもなかったのか?となりますが、ここが難しい。
けれど、ここで解決のヒントをくれるのは「プリン」です。
プリンもダブルシンクの必要がない人物でした。その理由はゴーストがないから。
作中のゴーストの概念は意識に近いものだと思います。
ならば「元々Nのような心的状態に近い素子」と「ゴーストを持たないプリン」は似たような人である。ゆえに「意識を持たない人」と考えられる。
だからこそダブルシンクする必要がなかった。
かなり強引な考えですが、こう解釈しました。
(けど、僕自身素子のあのシリアスなかっこよさが好きなんで、意識がないとかになっちゃうと個人的に受け入れられないすね…)
おそらく現実と理想の葛藤を自然的に乗り越えた先の存在が素子であり、そらは限りなく意識がない状態に近い?。そんな解釈です。我ながら訳わからん…。
今現在でも意識ってなんなのかほとんど明らかにされていないんです。本当に意識って何なんでしょうね…。
少し消化不良ですが話を進めます。
ラストのシーンです。結局、素子はポストヒューマンの首裏のコードを抜いたのか?それとも抜いていないのか?そこははっきりと描写されていません。
答えは「わかりません」エピローグが描かれていますが、みんながダブルシンクしているのかどうか客観的に判断しようがないからです。
彼らが意識があって行動しているのか、そもそも意識がない状態で行動しているのか判断ができない。まるで哲学的ゾンビです。
素子自身もその後の世界がどうなったかは答えてない。
それよりも大切なことをこの物語は視聴者に伝えているのかな?と考えました。
視聴者の決断 あなたはコードを抜きますか?
葛藤のない世界。つまりNのような完全に精神が安定した世界。そこにはおそらく戦争におびえたり、格差に苦しむことのない。不安や恐怖、そういった不の感情を一生抱えず生きていけるのでしょう。不幸が一切ない世界です。
同時に精神が安定した状態を「幸せ」と捉えられるのなら、これほど素晴らしい世界はありません。
ただし、意識という「わたし」という感覚はなくなっているかもしれません。それは存在はしているけれど生きているとは言いづらい状態です。
多くの人は日々何かに不安を持ったり、怯えたり、苦しむことがあります。同時に楽しいと感じたり、幸せだと感じることもできます。毎日何かを考え、生きているはずです。
もしそうした心の葛藤こそが生きている証だとするならば、Nの世界を受け入れることに躊躇する気がします。
今回の攻殻機動隊が伝えたかったのは「あなたはどっちの世界を受け入れますか?」ということだったのかなと考えました。
よく没個性化が進んできていると言われています。
そして自分で決めているという自由意志の有無もあやふやだそうです。
けどやっぱり葛藤してても生きていきたい。Nの世界はかなり魅力的だけれど、それでも自分で考え続けて決定していくって気持ちが人を作るのだと信じたいですね。
以上が攻殻機動隊 SAC_2045の考察になります。
ここからは個人的感想
久しぶりに攻殻機動隊を観て、やっぱりいいなーあのサイバーパンク感。それほどSF好きでもないのですが、社会学を齧ってる身としてはオーウェルの1984って避けては通れない。すきな作品です。
科学が進みすぎた全体主義を今回の攻殻機動隊という物語に組み合わせているなと感じました。そういう意味では一期から続くスタンドアローンコンプレックスの臨界点みたいです。
プリンについてなんですが、最初はこの世界に合ってないなぁーと思いながら、観終わった後には欠かせない存在になってました…。多分プリンの存在がなかったら、本当に終始のっぺりして物語が終わってたんだろうなって、気がします。
観ててもう一つ思い浮かんだのが、マルクスガブリエルの「新実在論」です。まだこの思想のほとんどを理解できていないんですけど、過度な科学主義信仰による全体主義や構築主義、ニヒリズムを回避するための新しい考え方。今回の攻殻機動隊のNの世界は全体主義だけど、個人は究極的に平和で争いがないはずなんですね。現実を生きていながら理想の現実を皆生きている。新実在論はこれにどう答えるのかな…。
とは言っても元気なタチコマが見れてよかったです。経験して知りたい、共有したい。素直に亡くなった人に対して泣く。実はタチコマのような存在がいちばん人間らしいんじゃないのかって感じますね。