宵闇亭綺譚「夢の途中」
【「夢の途中」】瑞野 詠里佳は、雑貨店のオーナー。旦那の夢だった雑貨店を共に立ち上げるが、夢半ばで旦那は亡くなってしまう。夢に縋り没頭する詠里佳は…… 桃の花咲く宵闇亭の庭園。そこに起こる小さな奇跡。
*
【宵闇亭キ譚】 宵闇亭は、黄泉夜ノ国、祇媼町。黄泉夜ノ国は忌人の国。現世での生を終えた罪人が記憶を失し暮らす。蒹垂 篤梓もまた忌人の一人。宵闇亭で今日も独り死者の生を営む。
(1)猫に連れられ夢?のお邸へ
にゃぁぁん――
鳴き声にはっとする。膝の上に猫。茶トラのウチによく遊びに来る猫で、旦那が“茶美”と名付けた。どんなセンスよと笑いあったのも懐かしくてしんみりする。その茶美が膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしている。
ウチはマンションの五階の角部屋、そのベランダに、何処をどう伝ってくるのか、ふらりと来てはちょこんと座っている。毎日ではないけども、数日に一回くらい、ちょうど仕事から帰ってくる頃に。寂しい私は、この子相手に愚痴を零しそれから寝るのが楽しみになっていた。
「よしよし、今日もよく来たねぇ」
丸まった背中を優しく撫でてやる。
その時ひゅっと風が吹いて、その冷たさにぶるり身を震わす。三月も半ばと云っても陽が暮れればまだまだ外は冷える……外? 私、今ベランダに座ってるの?……ウチのベランダにそんなスペースなんて……ベランダじゃない。寝惚けてる? 夢の中にいる? ここは……?
ああ、なんて綺麗な桃の花。その優しい香りが漂ってくる。桃の花は好きだ。私と彼の思い出の花。私の旦那さま……だった人との。
改めて見渡せば、ここはどこかお屋敷の庭園のよう。池があって石橋が架かり、樹々に囲まれた滝が流れる。その滝の脇に、桃色の花を咲かせる木。夜空に皓々と月。その清廉な光を浴びて、桃の木がきらきら輝いて見える。まるでお伽噺の世界みたい。
「やっぱり私夢を見ているのね」
茶美に語り掛ける。と――
「おや、お客さんかね」
そんな声が聞こえた。茶美……な訳がない。声は男性のもの。それも、少し年嵩の云った渋めの、それでいてどこか頼りなく柔らかな。背後でガタガタ音がする。硝子戸だった。私は、お屋敷の縁側に足をはしたなく投げ出して座っていた。え、なんで? いつの間に? 硝子戸を開けて男性が出て来ても、現なんだか実感が湧かなかった。
「何だ、猫殿のお客さんか」と男性が言った。薄灰色の作務衣を少し崩し気味に来た五十絡みの初老の男性。渋めの声だけど、少し甘えたような緩さがある。
「貴女が飼い主?」
「いえ、そうじゃないんですけど」
私はどう返したものかと思案しつつ、これって夢よねと自分に問い掛けていた。夢じゃないとしたらどうやってここに来たというのか。私はこの場所を知らない。今ここに到るまでの記憶がない。ならやっぱり夢で。でも夢にしては凄く現実的で、男性は不思議そうな、ちょっと困ったような顔をしていて……
「えっと、私、不審者とかじゃなくて」
夢の主人公ですとは言えなかった。
「まあ、茶でも飲んで落ち着きなさいな」
男性が硝子戸を引き開けて招く。茶美がぱっと身をひるがえして、ちゃぶ台に添えられた座布団を占拠し丸まるのに、
「猫殿は遠慮がない。貴女もまあ、どうぞ」
裏切られたような気がして茶美を恨めしげに睨むが、まるで相手にされず知らんぷりされる。何となく断りづらく、断ったところで縁側とてお屋敷の一部なわけで、いずれ今更かと招きを受けることにする。
出された茶は美味しかった。何と言っても香りが良い。どうしたこれだけ膨よかな香りを出せるのだろう。自分ですると、どんなに良い茶葉を買ってきてもこうはならない。食べられるならと差し出された饅頭も、うっとりする上品な甘さ。私、懐柔されてる。だからちょっと気が緩んでしまったのか、
「これって、夢ですよね」
余りに余りな、間抜けなことを聞いてしまった。
「さて」困り顔の男性。
「私は私を夢の人物とは認識していないし、ここで過ごした時間の記憶もあり、自分の意志を以て行動しているつもりではいる。とは云え、記憶も意志も、突き詰めればある時点の認識でしかない。夢というならそれすらも当人のものである必要がない。夢の主体がそう無意識下で考えれば良いだけのこと……などと言い出すと、現実と夢の区別など、目醒めでもしない限り誰にも付けようがないとなってしまう」
どうかな――と悪戯を仕掛けた子供のように問い掛けた。随分と理屈っぽいことを言う。
「私は……、気が付くと突然ここにいました。ここに来るまでの記憶がありません。仕事が終わって家に帰ったことまでは覚えています。そこでうたた寝しかけて……。アタシったら、シャワーも浴びてない」
それに気付いてげっそりとした気分になった。着ている服もそのままだ。
「だから夢だと思ったと」
「でなければ誘拐……とは思えないので、それしかないかと」
こんなまったりのんびりした誘拐があるだろうか。猫まで連れて?
「ふむ」と男性。何か考えているようだったが、ふと気付いたように、「私は蒹垂篤梓。ここの留守を預かっている者だ」と丁寧なお辞儀をした。私も慌てて、
「瑞野詠里花です」と頭を下げ返す。
「ここは宵闇亭。そう云う名前の建物でね、随分古くからあるらしい。私は本来の持ち主から預かって此処に暮らしている。さて、この邸のある場所だが、君は祇媼町の住民かね」
問われて頷く。余り個人情報を晒すのもどうかと思いつつ、夢なら関係ないし、夢でなくともこのくらいなら大丈夫だろう。
「ここも祇媼町でね」
祇媼町は古い街だ。神話の時代から続くとも謂われている。だから旧くて歴史ある大きなお屋敷はたくさんあるにはある。けど……
「黄泉夜国ノのね」
男性――蒹垂氏が、さらりと妙なことを言った。
「ヨモツヨノクニ?」
「常世の国。祇カミと死者の国」
「死者? え?……アタシ、死んだの?」
「やはり君は現世の者か。だろうね。そう云う事なら話は噛み合う。君は生きたまま来てしまったんだ。死者の国、黄泉夜ノ国へ根へね」
「それってどういう」と問う私に、蒹垂氏は視線で注意を向ける。
「茶美?」
「猫はね、特に祇媼町の猫は、特殊な能力を持っていることが多い。この猫殿は此岸と彼岸、現世と常世を行き来し、人を連れることもできるようだ」
そんなことがあるだろうか。これじゃまるで、兎に連れられて不思議の国に迷い込んだアリスのよう。やっぱりこれは夢。
「夢と思って良い。身体は現世でちゃんと生きていて、精神だけがここに在る。なら、君にとっては夢と何も変わらない。無論、この舞台を創っているは君の潜在意識ではなく、セカイの理だと云うことにはなるがね」
はあ、ちょっとこんがらがってきて。ともかく、これは夢。そう割り切ろう。
「夢なら、ちゃんと醒めるのよね?」
「そこは君次第、あるいは猫殿次第かね。いざとなれば私も出来なくはないが、あまり得手ではない。行き先の保証はしかねる」
「行き先?」
「君と猫殿が入れ替わったり?」
それは流石に厭だ。想像してげんなりしてしまった。そう云えばちょっと前に流行ったアニメ映画にそんなのがあったかしら。
「ねえ、茶美ちゃん、どうしてアナタは私をここへ連れて来たの?」
茶美は面倒臭そうににゃぁんと鳴くばかりだった。
(2)振り返れば黒歴史
鳥の鳴き声が聞こえる。桃の香りが硝子戸越しにも薫ってくる。宵闇に沈む庭はとても美しい。白い月皓りに照らされて清廉に、灯籠の明かりに揺れる影はどこか妖艶に。
蒹垂氏がお茶のお代わりを入れてくれる。その香り、所作の音、立ち昇る湯気の暖かさ、そのどれもが心地好い。ずずっと音を立ててお茶を啜る。はしたなさとかは気にならなかった。
蒹垂氏はそれ以上を語らない。私も特に尋ねない。静けさが染み入って、風景と同化したかのような錯覚に陥る。
何だか、このままずっとここにいても好いような気がしてきた。ああ、眠い。夢の中でも寝るってあるのかしら。夢の中で寝たらまた違う夢をみるのかしら。それとも、目醒める? 茶美が覗き込んできたのを朧気に見る。アナタはなぜ私を連れて来たの? なぜ……ああ、それはきっと私が望んだから。私がどこかへ連れ出して欲しいと。現実から逃れてどこか遠いところへ。そうか、アタシは、逃げたかったんだ。
私は、何を間違ったのだろう―― 意識は内に、するすると過去の思考に浸り込む。私は……
がむしゃらに頑張った。彼が突然亡くなって、私は茫然自失になりながらも、彼の残したもの。彼のお店だけは何としても続けたかった。小さな雑貨店。でもアタシ達にとっては世界でただ一つの、世界一素晴らしいお店。出来ることなら、彼の夢を叶えてお店をもっと誰もが知るような、日本中のカワイイモノ好きが憧れるような店にしたい。その為に、私は頑張った。なのに……
私は、どこかで何か間違えたのだろうか。店を開く前の企画段階から一緒にやってきた娘が辞めてしまった。もう付いていけませんと言って。どうしてだろう、あの娘も彼の志を継いで一緒に頑張ろうって、泣いて抱き合って、誓い合ったのに。あの娘は去って行った。私を置いて。私は何を間違えたのだろう。
気付けば私は外に出ていた。宵闇亭の庭。池の向こう側。滝の斜面の更に奥。深い深い森に繋がる小径の入口。なんでこんなところにいるんだろう……? 黒い影が揺らめいている。樹々の影? それとも違う何か…… 誰かが呼んでいる。誰? そこにいるアナタは……、ああアナタは……、
『貴女でなければ、彼は死ななかったのに』
知っていた。貴女が私と同じように彼のことを思っていたことを、私は知っていた。でも絶対に彼は渡せなかった。それだけは、出来なかった。それでも一緒に頑張ってくれたことには感謝してた。なのに、どうしていなくなったの? 私じゃ駄目なの? 私じゃもう、あの店を一緒にやっていけない? どうしたらいいの? 私はどうしたら……
黒い影がゆらゆら近付いてきて、ぼんやりと月皓りに照らされ、貴女のいつも私を心配げに見る表情。貴女はいつも心配してくれていた。アタシのこと、店のこと。でもやっぱり任せておけないと思っていたのね。だから見捨てた、アタシのことを見捨てた。
『貴女がいけないの。出来もしないことを無理してやろうとして。貴女に任せていたら全部無駄になってしまう』
アタシにどうしろっていうのよ。これ以上、どうしろって。
『いいのよ。貴女はお休みなさい。私が代わりにやってあげる。私に任せておけばいいの。貴女はもう、いらないの』
気付けば貴女がすぐ傍に。正面に向き合う。自信に満ちた顔。そうやって裏で私の事を馬鹿にしてたのね。私はずっと貴女に侮られてた。私は……
私は、もう、厭だ。私でいたくない。
『貴女は貴女でなくていい。貴女は私。私は貴女。貴女の身体は私が使ってあげる。貴女よりずっと上手にね』
もう私は、私でなくても良い。私は瑞野詠里花じゃない。もう頑張らなくて良い。何もかも投げ出して、彼のお墓の前で泣いて過ごせたら、それで良い……そんなことを思った。その瞬間――
手の甲に鋭い痛み。茶色い塊が目の前をよぎる。猫?茶トラの猫がシャーと牙を剥いて私を威嚇する。
「怖くないよ、おいで猫ちゃん」言うも猫の警戒は解けない。どうしてだろう。私はもう詠里花じゃない。詠里花じゃなければ、みんな受け入れてくれるんじゃないの?
からんころん――下駄の音。見れば渋めの作務衣を着た初老の男性。
「招いたか」と言う。「ここの庭にもだが、奥の森は更に様々なモノがいる。中には少々質の悪いのも混じっているのだが」
やれやれと言って膝を曲げ猫を呼ぶ仕草。私には懐かなかった猫が、男性の元へ。今気付いたけど、男性の背後に華やかな花の満開に咲く樹がある。懐かしい匂いがする。男性は、その内の花の付いた枝を一つ手折って、猫に咥えさせる。と――、したたと駆けた猫。私の目前まで来て、びょんと跳ねて空中で一回転。花の付いた枝で私の頭を強かに叩いた。びびびと何かが引き裂かれるような音がして、
「何これ、痛いんですけど」
私の抗議に対して男性が、
「ちゃんと思い出すんだ」とゆっくり後退る。そしてそこには、満開に花を咲かせる桃の木。それは、どうしてか、あの日、私とあの人が将来を誓い合ったあの公園の桃の木に似ているような気がした。そう私――瑞野 詠里佳と、彼――俊紀さんが。俊紀さんが、そこにいる。あの日と同じように、優しく微笑んでいる。
ふらふらと覚束ない足取りで斜面を降り桃の木へ、彼の方へ近付く。彼はあの頃と少しも変わらない笑顔で私を迎え、『詠里花』私の名前を呼んだ。そう、他の誰でもない私の名前を。『おいで詠里花』と。
私は泣いていた。不安で寂しくて、弱音を吐きたくても弱味を見せたくなくて。ただがむしゃらに働いて、皆に心配掛けて、どうして好いか分からなくなって……。道に迷って泣いている小さな子供のよう。
私はやっぱり、駄目なのかしら。貴方がいないと、独りでは何も出来ない。
『そんなことはない』
気が付けば私は、桃の木のすぐ側で、彼の傍らに、彼と並んで立っていて、彼の顔を見上げて、いつかのように、彼に甘えて。
そんな私に彼は優しく微笑み、私の頭を撫でてくれる。
『もう、子供じゃないんだから』
私は泣いてたことも忘れて、ぷっくり膨れる。何度も繰り返したやり取り。彼は『知ってる』と笑う。『よく頑張ったね』と。
それから、『無理はしなくても好いんだよ。僕の為とか考えなくても。君は君の為の夢に向き合えばいい。君には君のやり方があるんだから。僕の為に君を犠牲にしないで』
涙がほろり零れた。
『これでお別れなの』私の問いに彼は寂しげに微笑み、
『僕のことを忘れないで。でも君の傍に僕はいられない。だから、君は君の一歩を踏み出さないと』
分かった、うん、分かったよ。もう、無理はしない。私は私、私なりの方法で頑張ってみる。今日で私は、貴方を卒業する。ありがとう。本当にありがとう。私の旦那さんでいてくれて、ありがとう。
彼が、まるで嫁入りの日の父親のような表情で頷いたのに、少し笑ってしまった。
(3)幸せは傍にあって美しきもの
桃の花びらがはらはらと散る。白く蒼く輝く月皓り。灯籠に灯る仄かな灯りがゆらゆら揺れて幻想的な中、彼と二人抱き合っている。このままこの時間が永遠に続けば好いのに。そんなことを思いつつ、それが果たされない望みだと知っている。私は私として生きていかないといけない。私もまだまだやりたいことがある。自分を見直して、今迄やって来たことを見直して、これから未来を見据えてするべき事をする。誰かの為にじゃない。勝ち負けとかそんなのはもういらない。私は私らしく。それが彼の望みでもあるのだから。
茶美が桃色の花吹雪の中をにゃんと鳴く。すると、一際強い風が吹いて、花びらが桃色の嵐のように舞乱れて、私は目を開けていられずにぎゅっと瞼を閉じた。それか、風が収まって、厭な予感がして、そろっと眼を開ける。と、そこには、彼の――俊紀さんの姿はもうどこにもなかった。
『さようなら愛しい人』
そんな言葉が風の名残に流されて聞こえてきた。アタシも、
「さようなら」小さく呟いた。涙が一粒、ぽとりと落ちた。ぽろぽろと際限なく零れて溢れそうな私に、
「ちゃんとお別れは済んだかね」
蒹垂氏が池の側でしゃがんでいた。その姿が昔のやんちゃ坊主みたいで何だかおかしかった。
「落ち着いたら、言ってくれれば良い」
優しい声につい、
「背中、貸して貰えますか」
「私のか。まあ、こんな爺さんの背中で好いなら」と言い立ち上がって背を向けてくれる。私はその背中で泣いた。声を出して泣いたのは子供の頃以来かも知れない。声も涙も涸れそうになる頃、
「もう、大丈夫です」鼻を啜りながら声を掛けた。蒹垂氏の貸してくれた手拭いで鼻をかむ。
さて――と蒹垂氏、私を池の橋の上まで連れて行き、「咒者の真似ごとのようなのは本意ではないのだがね」と言って、橋の真ん中辺りで、ぱん――と一つ柏手を打った。
「覗いてごらん」
桃色の花弁が浮かび、水面に天空の白い月が映る。それらが揺れて霞んで、そして――
「これ、彼のお墓?」
『ゴメン、アタシじゃあの娘を止められなかった』
そこに膝を突く女性。彼女だ。どうして、そこに?
『あの娘、馬鹿みたいに働いて。箍が外れたみたいに。もう見てられなかった。生活もめちゃくちゃ。全て仕事に注ぎ込んでる感じ。あれじゃ保たないって何度も言ったけど聞かなかった。アタシが外れたら気付いてくれるかと思ったけど、無駄だったみたい』
そう言って彼女は泣き笑いの表情を浮かべた。
『アタシの存在ってそんなものだったのかなぁ』
そんな彼女の肩に手を置く男性。彼は確か……彼女の婚約者?
知ってた。そんなの知ってた。彼女は俊紀さんのことを兄のように慕っていて、そして隣にいる彼にべた惚れだった。俊紀さんのことがなければ今年にも結婚式を挙げていたはず。知っていた。知っていたんだ。知っていたのに。
結局、アタシの独り相撲ってこと? 何もかも、一人で突っ走って、一人で無理をして、一人でテンパって、周りに迷惑を掛けて、あらぬ疑いを掛けて、疑心暗鬼になって、妄想して、パニクって……、ああ、もう、ホントッ、アタシって馬鹿。
ぱん――と柏手がまた一つ。
そして私は現実に引き戻される。
瞬間、アタシは石橋の上でしゃがみ込み、うーとかあーとか、本当はもっと大声で叫びたかったけどそれはそれでまた恥ずかしさが倍増しになりそうで、私は顔を膝に埋めて唸ることしか出来なかった。
くしゅん――、安心したのか、気が緩んだのか、何だかよく分からないけど、急に寒さが見に染みて、
「中へ入ろう。風邪を引く」と蒹垂氏に勧められお邸――宵闇亭の中へ。
「さて、もう一杯茶でも飲むかね」
私は頷き、茶碗に注がれる茶の湯気を眺める。暖かい……
茶美がアタシの膝の上へ。
ずずっと茶を啜る。この家の穏やかな空気感、時間さえゆっくり流れる、さっきの怒濤の展開がなかったかのように。でもしっかりと私の胸の内に滲みている。彼の言葉、彼女の言葉、その温もり。
「私は……」
蒹垂氏が表情を伺うようにこちらを見て、
「何にしろ納得が得られたなら、ここへ来た甲斐もあったのかね」
クツクツと笑う。「好い表情になった」と。
私は何となく照れ臭くなって、無言で茶を啜る。温かい。心が和んでいく。ゆっくりゆっくり、ほぐれていく。
「そろそろかな。ゆっくり休むが好い」
茶美が、にゃんと鳴く。その声を聞いて、ほっとして身体が弛緩していく。何だかとても疲れた。とても、とても。
私は再び微睡みの中に堕ちていく……
ゆっくり、ゆらゆら、心地好い中に漂い、ふわふわと温かいものに包まれて……
ぱちりと目が開く。少し遅れて目覚ましのアラーム音。
「帰ってきた」
私は目覚めた。いつもの部屋。服を着たままソファーに座って眠りこけていた。朝の六時。昨夜帰ってから五時間。どれだけよく眠ったのだろう。疲労の極限にあったのが、すっきりとして寧ろ調子が好いくらい。きっと、夢のせい。あれは、あの宵闇亭でのことは全て……
どちらでもいい。
そう、夢であろうがなかろうが、私の記憶の中にしっかりと刻まれている。俊紀さんのことも、蒹垂氏のことも、彼らと交わした言葉も。
だから私はやっていける。私の夢に向かって、頑張れる。だから、どうか見ていて。まずは、あの娘と仲直りしないと。
大変、昨夜はシャワーも浴びずに眠り込んでしまった。何もしていない。朝の支度も何も。飛び起きて動き出す。とにかく、やるだけやってみよう。そんなことをぽかぽかする胸の中に抱きしめながら、さあと布団をめくると、そこに一匹の猫。
「茶美ッ」
どこから入ってきたのか。この子がベッドの中にまで入ってくるのは珍しい。私は茶美を抱き上げキスをする。
「アナタのお陰なのかしら」
にゃんと鳴く茶美。世話が焼けるにゃーと言っているように聞こえた。
あたしは今日も生きている。
FIN
(桃の花言葉は、「あなたの虜」)
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†・・・・・・・・・【元TweetNovel】・・・・・・・・・†
「夢の途中」
(タイトルは「言葉の添え木」さまより)