卒業
小学校5年の頃、担任の先生がギタリストだった。校舎の3階にある図工準備室に自前のアコースティックギターと好物のキャラメルをこっそり持ち込んで、休み時間に煙草の煙をくゆらせながら、彼は曲を弾いていた。どういう経緯だったのかは忘れたが、私はその秘密を知ってしまい、美術の先生でもあった彼に消しゴム判子を教わる名目で、昼休みや部活のない放課後、図工準備室に入り浸っていた時期がある。
橙色の光がさす大きな窓際で消しゴムに彫刻刀で模様を刻んでいくとき、先生の指が硬い弦をはじくかすかな音とやわらかなアコースティックギターの音色が、背後で静かに混じり合う。内緒でもらったキャラメルを口で溶かしながら、小さな教室に満ちている苦手なタバコの匂いに鼻をひくつかせてしまうほど、私はその秘密の空間が好きだった。
消しゴム以外に、木版にも絵を彫った。カリカリと木を削るリズムが、たまに先生のギターとあう。手元からたちのぼる粉っぽい木の香りが、タバコと、準備室に置かれた画材の匂いと合わさって、頭が痺れた。
私は彫る、先生はギターを弾く。お互い、背中合わせに無言。違う行為にどっぷり浸りながら、心の片隅で相手の存在を"聴き"続ける。
調子が出てくると、先生は歌を歌い出す。落ち着いたテノール、少しだけ酒やけしている。彫って彫って彫って。彫刻刀を握っているとき、私の眼は修羅になる。集中し、感情の深淵に潜り、精神を擦り減らしているからだ。緊張の真っ只中にいるとき、背後から聴こえる声が、雪のように優しく肩に降る。私は真一文字に結んでいた口元を解き、微笑みをたたえて息をする。呼吸も、心臓の鼓動も、先生の曲のリズムに合いたがった。
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進級して6年になっても、私の図工準備室通いは気まぐれに続いた。先生がいないときも私はひとり、彫刻刀を握った。カリカリカリという音に、頭の中でギターの音を重ねる。すると不思議なことに、あれだけ細かくて彫れなかった模様も上手に彫れるのだった。出来た判子は、家の机の引き出しにしまっていった。ゆっくりと、確実に、引き出しはいっぱいになっていく。
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11月頃から、ミスチルの「ヨーイドン」という曲を先生は練習し始めた。はじめはタバコをくわえながら、どんどん音を作っていた。しばらくして、歌が入るようになった。
目をつぶってさ ブランコを
思い切りこぐんだ
橙色の教室に、先生のミスチルはとてもよく似合っていた。空気を入れ替えるために窓を開ければ、校庭ではしゃぐ子供の声が生ぬるい風とともに吹き込んできた。ふと振り返ったとき、彼はなにかを懐かしむような、涙をこらえているような、複雑な顔で目をつむったまま、ギターをかき鳴らしているのだった。
ヨーイドンの合図待たずして僕ら
大人になっていくよ
どこ向かっているのかなんて分かんない
でも飛び出していくよ
転がり続けていくよ
私が見ていることに気づいて、ふっと彼は微笑みでその表情を隠した。私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、あわてて顔を伏せる。手元で彫りかけた判子が目に入った。
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冬休みに入り、登校がなくなる。家では判子を彫る気になれなかった。ベッドの上でごろんとしながら、気づけば机の引き出しを見つめ、よく歌を口ずさんだ。
ぽかりと空いた心の穴埋め問題は
一人では解けない
ねえ一緒に解いてよ…
…それが、もう12年も前のことだ。
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"3月9日"というレミオロメンの曲があり、カラオケは卒業ソングで湧き立つ時期。今日はたくさんの、制服を着た少年少女を、昼間のうちから駅で見かけた。きっと卒業式の帰りだろう。
寒いのに短いスカートから素足を伸ばし、妙に若々しく見える彼らから、23歳の私はどう見えているのだろうと考えながら、ポケットに手を入れ背中を丸めてすれ違う。いろんな想いが満ちていた教室にどうやって彼らは別れを告げて、教師たちに送り出されたのだろうか。そればっかり気になった。
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小学校の卒業式、6年生だけで集まった体育館で、先生がミスチルを歌いながらギターを弾いた。他の生徒が涙ながらに聴いている中で、きっと私だけが、先生はこの日のために練習していたのだなあと、感慨深く彼を見つめていた。木とタバコと絵の具の匂いが、無性に恋しくなった。
ヨーイドンの合図待たずして僕ら
大人になっていくよ
どこ向かっているのかなんて分かんない
でも飛び出していくよ
いい手本が近くにいっぱいあんだ
幸せになってみせるよ
半ズボンもリボンも似合わないような
大人になっていくよ
転がり続けていくよ
その時、先生はどんな顔をしていたか、不思議なことにさっぱり覚えていない。卒業式を終え、校庭や校舎のあちこちで生徒が写真を撮りあったり想いを馳せているとき、私は最後に立ち寄った図工準備室で、先生を見つけた。
「先生。ギター、よかったですよ」
「何目線なんだよ」
ニヤッと笑いながら、私はポケットから消しゴム判子を取り出して、彼にあげた。机の引き出しにたまっていたもののうち、一番よく出来たやつだ。「お、すげえ」と言って先生はキャラメルをくれた。
「そういえば、ギター教えて欲しいって、昔言ったの忘れてました」
「なんとなく僕は覚えてたけど、ずっと君は彫ってばっかりいたもんだから、いいのかな、って思ってた」
「えええそんな」
「まあまあ。卒業して、まだまだこの先、時間はあるんだから。自分で初めてみたらいいよ」
あの橙色した秘密の時間に、教えて欲しかったんです。
そんなことは言えなかった。キャラメルを口に放り込んで、しばらく雑談した後、「いろいろありがとうございました」と礼をして教室を出た。
ふと振り返ったとき、先生は窓を開けて、卒業生たちのいる校庭を見下ろしていた。彼の横顔はなにかを懐かしむような、涙をこらえているような、私にはまだ分からない複雑な“大人”の顔で、いつ火をつけたのか、ゆっくりとタバコの煙をはいていた。
胸いっぱいに図工準備室の匂いを吸い込んで、先生が気づく前に、私は教室を去っていった。
これが、私の、卒業の思い出。
大人になった今、私がミスチルを歌ったら、どんな顔でいるのだろうか。
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