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《連載》山毛欅になった人 #1

山毛欅(ブナ)の傘

 弱い雨が降っていた。酒盛りの為に焚火の前に座った時のことだった。ボソッと「ブナの傘は凄いだろう雨なんか落ちて来ないんだ」と笑顔でその人は言った。イワナの切り身を手に取りながら右手でシャリを丸め寿司を握る動作を止めずに「上を見てみろ。」と目顔で言っていた。確かに我々の上には大きなブナが枝を広げ雨を遮っていた。「これで雫が落ちて来たらおしまい、タープの下に移動だな。まあしばらくは大丈夫だ。」そう言いながらまな板にシダ葉を敷いた上にイワナ寿司を並べていく。やることなす事が珍しく真新しい新鮮な感覚を楽しんでいた私の心にその言葉が妙に染み込んで来た。けして恩着せがましくもなく驕った口調でもなく「まあこんなもんだ」といった軽い感じが余計心に響いて聞こえたのかもしれない。今そんな事の数々を考えながら当時の事を思い出している。

イワナ寿司を握る姿


 栃木県日光市と福島県南会津、檜枝岐を分けるように横たわる帝釈山(2060m)を中心とする帝釈山脈。これらの山々は栃木県では鬼怒川、福島県では伊南川の源流を作り上げている。渓流釣りを始めた当初の私は通称「奥鬼怒」と呼ばれるこの鬼怒川源流部で釣竿を振っていた。
私が暮らしていた街からこれらの釣り場までクルマで大体2時間ほどのドライブ。日光街道を北上して今市から会津西街道へと進み鬼怒川温泉を抜ける頃になると道路の左側を流れる鬼怒川を窓越しに見下ろしソワソワと落ち着かない運転になったものだった。川治温泉の手前で栗山村へと続く道路に入ると周りは一気に山奥を感じさせる風景で鬼怒川も流れを絞り始めて渓流と呼ぶにふさわしい風景に衣替えをした。黒部ダム上流の橋を渡り土呂部から川俣湖東岸へ回り込む道を分けると一気に標高も上がり川の流れも眼下遥かに深くなり新緑や紅葉が見事な景勝地「瀬戸合峡」へと入る。今では瀬戸合峡をパスするトンネルが抜けてしまいわざわざ旧道を回らないと見られない景観になってしまったが私が釣りに通っていた頃はまだトンネルは存在せず山間の狭い道路を恐々とクルマを走らせたものだった。

 川俣湖に辿り着けばもうそこは桃源郷「今日の釣り場をどこにしようか?」とイワナを夢見て心躍る様子を描きたいところだが現実は違う。到着した彼の地は関東近県でも手頃な渓流釣り場であり残念なことに入渓点の争奪戦という味気無いところから始まる。しかし私を何より魅了したのは釣れる魚ではなく釣りをするために訪ねる先の大自然だった。いや今から思い返せば大自然と言うには大袈裟過ぎる奥鬼怒川の景色だったが当時は原始の時代に入り込んだ様な気分でその景色を楽しんでいた。ひと跨ぎ程の沢を右に左に上流へと向かって歩く。イワナが居そうな場所を選んで釣竿を振る。運が良ければイワナが釣れる。自慢する相手も無く気が付けば風にざわつく木々に囲まれているだけの自分がそこに居る。楽しい様な寂しい様な何とも言えない遊びが何故か気に入っていた。

子供達との時間

 とある土曜の夜、明日は日光の渓流へでもイワナ釣りに行こうと道具を揃えながら、まだ小学生の次女可奈子に「明日一緒に釣りに行くか?」と聞いてみた。ウキウキと釣り道具を準備している父を見て何を勘違いしたのかは知らないが「うん、行く!」と軽快な返事が帰って来た。誘った方がびっくりするくらい乗り気の返事に「可奈にもイワナ釣らせてやるからな!」と一端のセリフを吐いた私だった。ところが翌日の釣りは2尾という貧果に終わり娘はボウズ。娘の竿にはアタリさえも無かった。さぞつまらなかったかと思えばそこは子供で川歩きの途中で石を拾ったり流木を拾っては「あれに似てる。」「これに似てる。」と子供ならではの視点で結構楽しそうにしていた。色々な初体験の連続を素直に楽しんでいる様子だった。夜の食卓で収穫したイワナを前に目を輝かせて今日一日の出来事を話す娘の姿はとても印象的だった。

ポイントに竿を出すも、、、

 たぶん可奈が「川は面白い。」とでも吹き込んでいたのか長女美和子や長男紳太郎に「今度一緒に行くか?」と問い掛けると満更でもない返事が帰って来た。楽しいとはいっても魚が釣れない釣りに父と2人きりよりも姉と弟も川に誘い出そうという可奈の作戦らしい。最初に口説き落とされたのはやはり弟の紳太郎なのだが、こいつは釣りよりは途中で買うお弁当とジュースやお菓子が目的のような奴である。ところが彼はクルマに酔いやすい体質で渓流到着までの山道でダウン。川風に吹かれているうちにクルマ酔いは消えたものの釣果は芳しくなく子供たちでは可奈の竿にアタリがあったのみだった。しかし河原でインスタントラーメンを食べた時は気温の低さも手伝って「家で食べるより美味しいね。」とまたまた新発見に満足げな様子だった。ガレ場では落石を間近で見た紳太郎がびっくりしてまん丸の目をしていたのが可笑しかった。可奈とはもう3度目の釣りだが未だにイワナを釣らせられない父だった。

 「明日はお姉ちゃんも行くって!」と嬉しそうに可奈が飛んで来た。可奈と私は4度目の釣りに行こうとしていたのだ。部屋でお姉ちゃんを口説き落として明日の釣りに一緒に行くことに成功したらしい。お姉ちゃんに釣りの服装をアドバイスする可奈の偉そうな態度がとても可笑しかった。
 翌朝まだ暗い内に家を出る。寝ボケまなこでクルマに乗り込んだ娘達は時をおかずに寝息を立て始める。目的地の林道入り口にクルマを駐車するまでグッスリ寝入っていた2人だった。クルマを止め林道の散歩。入渓点まで大体40分くらいの歩きだ。うっすらと明け始めた空の下、林道を歩く私の前を子犬のようにじゃれ合いながら前に後ろに走り回る2人を見て「今日こそは釣れると良いなぁ・・」と思った。

 沢音が近づきいよいよ釣り場に到着。ザックから竿や餌を取り出し準備万端で沢に降り立つ。折り良く小雨が降りだした。「雨の時は釣れるんだよ。」と言いながら竿の出し方、ポイント、イワナのアタリなど説明する。まずは釣りの先輩の可奈が竿を出す。いきなり「あっ、来た来た!」と叫びイワナを釣り上げる。「何だ小さいや!」と生意気なことを言いながらも嬉しそうにしばらくイワナを眺めていた。「私はもう釣ったから今度はお姉ちゃんの番だね。」と先輩面しながら姉に竿を渡す。妹が目の前でイワナを釣り上げたことで俄然ヤル気を出した姉。「お姉ちゃん、あそこの水が落ちて白く泡が出てる所に居ると思うよ!」と生意気にもポイントのアドバイスをする可奈。「え?え?」と言いながら思うように仕掛けを落とせない姉に竿の出し方までアドバイスしている。美和にすれば初めての釣りであり上手く出来る訳もない。ただ見ているとアタリが来ている様子なので釣り上げるのも時間の問題だろうと黙って2人を眺めていた。とうとう美和の竿にイワナが掛かった。とても満足そうに振り返る二人の姿を見て私は感動に近い喜びを感じていたと記憶している。魚影が無くなるあたりまで遡った3人は竿をたたみ帰路につく。結構厳しい滝や岩壁などがあり2人は終始「わぁ~!」「きゃあ~!」と叫びながらの沢歩きとなった。3mほどの滝を下る岩壁の中段を行く可奈が「あっ!」と声を上げで瞬く間に釜に落ちてズブ濡れになり滝壺で大笑いする一場面も有った。怪我が無く無事に帰れたからこその思い出である。

イワナを釣り笑顔

 娘たちと釣りを楽しんでいた一方で私の釣りは年々過激になっていた。夜の明けない時間帯から目的の入渓点にクルマを着けて車中で待機。しかしそこに運悪く同じ沢筋に入る釣り人がいたら一切が無駄となる。そんな先を争う精神的な焦燥感と夜中から動き出し一日中釣りをして帰る体力的なキツさから足が遠くなり「渓泊まり釣行を始めようか」という頃に一冊の雑誌に出会ったのである。

運命の遡行図

朝日連峰登山口の車止メには既に2台のワゴンと一張りのテント「さすがに源流釣りの有名処なのだなぁ。」と変に納得してしまう。今回は渓流で一夜を明かすべくやって来た釣行だ。普段の釣りとは比べものにならないほどの重いザックを肩に黙々と歩く。期待とは裏腹に口から出る青息吐息。未知の渓へと案内してくれるのは渓流雑誌からコピーした2枚の遡行図だけである。

当時持って行った遡行図

 歩くこと3時間。平坦な沢から一変して落ち込みや小滝の連続に変わる。沢の水が一歩一歩と進むにつれて細くなっていく。遡行図片手に二又の沢の流れをいくつか通り抜けて登って来た。やっと辿り着いた尾根で息が整うまでの間、樹間から眺める景色に見とれる。登山ルートもない沢を登る。見晴らしの良い山頂に立ったわけでもなく痩せた尾根に立って思う。ここに降った雨。右足と左足に落ちた雨は文字通り右と左に分かれ別々の流れとなる。それぞれ名の違う沢となりイワナを育てていく事になる出発点に今自分はいる。

 小休止の後、周囲を探りながら5分ほど下ると足元がジメジメして来た。下るほどにはっきりと一筋の流れが現れる。沢の始まりだ。ひと山越えて下るべき沢を見つけて気分も楽になる。後はテン場まで一目散に下るだけだ。しっかりとした沢の流れを下りながら落ち込みや淵の連続に2人とも忘れていた釣り心が復活する。
  テン場に到着して汗だくになった服を着替え日溜まりに干せば気分は爽快。山越えして来た達成感を味わう。ただイワナを釣るのではなく釣りに至るまでの過程がこの釣りの楽しさを倍増する。重いザックから解放されて身軽になり上流へ向かう。本流とは言え源流部の川幅は5mほど。ポイント続きの渓相に期待感倍増だ。一発目は九寸「デカイ!」。 そして次々に掛かるイワナたちはどれも七・八寸の良い型をしている。注意して歩いているのに思いがけない所から飛び出してくる。それだけ魚影が濃いという事か。 この時の釣行は渓中一泊の予定がイワナが釣れ過ぎて連泊してしまった。初めての渓泊りを託して雑誌から落とした遡行図、それがその後の自分を大きく変えて行くとは思いもしなかった。

出会いから始まる事

イワナ釣りを始めた傍でそれを題材にホームページを立ち上げた。もちろん渓流釣りの初心者が立ち上げた内容は拙い内容でしかなかったが栃木県内でこのテーマは初の試みだったらしく予想以上の反響があった。釣りに行った状況を写真と共に釣行記としてまとめて掲載する。県内の河川の釣り情報なども出来る限り情報を仕入れて発信した。合わせて読者との交流を期待して備え付けた掲示板に訪れる閲覧者の数も増え常連とのやり取りが深まって行った。そんな時期に掲載したのが初渓泊りの釣行記だった。

当時のホームページ

 掲示板に訪れる常連を相手に一つの思いが浮んで来た。「何とか同じ趣味で繋がれないものか。」釣り好きという一塊の中で渓流のイワナ・ヤマメ釣りを対象とした仲間作りを思いついた。釣りと言うのは閉鎖的な趣味でもある。釣れる場所を公にしないのは暗黙の了解だった当時にあってみんなで釣り自慢をしながら情報の共有をしようという思いだった。餌、ルアー、毛鉤など釣法は問わない事で予想以上の参加希望を得て交流が始まった。それは掲示板だけに留まらず居酒屋に場所を変えて更には共に釣り糸を垂れる仲へと発展して行った。そんな彼らの中の1人が私の初渓泊まりの釣行記に反応した。彼の名は田辺哲と言う。田辺は彼の地元の渓流釣り同好会に所属していて彼らの釣行は彼らのホームページ上で随時更新されて私も楽しく読ませて貰っていた。その同好会の顧問をしていたのが初渓泊まりの参考に持って行った遡行図を描いた川上健次氏だった。

《山毛欅になった人#2 へ続く》

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