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非正規模様 ③「受付にて」

久々に会社に顔を出した私は、テレワークで社員の姿が見えない事務所の受付で呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると人事部の沢井絵美という入社十年目の女性社員が手に資料をもって現れた。細身で背が高く、艶やかなボブの黒髪が印象的だが、顔色はつねに白く決して人と目を合わせようとしないその姿は、彼女の良い印象を損ねるほどに大きな影を落としていた。
その理由は分かっていた。
入社当時はもっと溌剌としており、その美貌も手伝ってどんどん契約をとってくる優秀な営業ウーマンだった。が、オーバーワークがたたりメンタルをやられてしまった。一年ほど休職して復帰したが、その顔には感情が失われており、営業を諦めた彼女は自ら事務への異動を申し出たのである。
「井上さん、お久しぶりですね。お元気でしたか?」
受付のカウンター越しに立ったまま私に面した沢井絵美は顔を向けることなく、手持ちの資料を広げながら語りかけた。
「ああ、久しぶりだね。君も元気でやっているかい?」
その言葉に彼女からの返事はなかった。メンタルで休職経験をもつ沢井絵美に「元気か?」なんて、まずいことを言ってしまったかと一瞬おもったが、伏し目がちの彼女の表情からその思いをうかがい知ることはできなかった。
「それでは健康保険証と印鑑を出してください」
私は会社の健保組合の保険証を受付のカウンターの上に出し、返却同意書に印鑑を押した。
「井上さんは今後は国保でいいんですよね?」
「ああ」
「国保への加入はご自身でお願いします」
「うん。分かったよ」
これで用事は終わってしまった。ふつうこういう場合、何かしら言葉を交わすものだろうが、面識があったわけでもない沢井絵美が私になにかを語りかけるわけもなく、私もこれ以上、彼女に話せる話題もなかった。会社に来ることを楽しみにしていたが、その時間は一瞬にして終わってしまった。
そう思ったときだった。
「井上さん、痩せました?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。いや、なんとなく顔色もわるそうで」
そう言ってる沢井絵美の目は私を見てはいなかった。
どうして彼女がそんな疑問を持ったのか、その真意を分かりかねた。
「井上さん、たしか木村常務と同期でしたよね。お話し聞いてます?」
木村? そうだ。同期の中で一番出世したやつだ。
五十五歳で取締役に就任し、私より半年早く定年を迎え、その後、非常勤常務になっていたはずだ。
頭がよくて仕事ができて自信家で、それでいて如才なく宴会の幹事役も買ってでるようなやつだった。若い頃は徹夜仕事も厭わず、飯の代わりに酒と煙草で栄養とる、そんな噂がたつような豪放磊落な性格で、結婚、離婚を三回も繰り返し、今はたしか独りだったはずだ。
「いや、聞いてないよ。また性懲りもなく結婚でもした?」
「亡くなったんです」
「え?」
「常務でも非常勤だったので週一回の出勤でよかったんですが、その出勤の日、駅に向かう道すがら心筋梗塞になったらしく、まだ体が動けるうちに近くの小さな公園のベンチに座って一息ついたんでしょうね。そのまま立ち上がれず、ベンチに座ったまま亡くなっていたそうです」
「う、嘘だろ」
「昼過ぎになって、公園に遊びに来た母子連れに発見されたって聞きました。井上さん、同期ですよね。六十歳ですよね。井上さんも体調悪そうに見えますよ。大丈夫ですか?」
そういうと沢井絵美は初めて私の顔を見た。
白く生気のない顔から私を見詰める目は、氷のように冷たく、言葉どおり心配しているのか、その真意はやはり汲み取れなかった。
「定年まで会社でアクセク働いて、やっと会社から解放されて、自由にいろいろできる矢先に死んじゃうなんて、わたしはぜったいイヤ」
表情と似つかわない感情的な言葉が沢井絵美の口から発せられた。
なぜか、私はその言葉に棘のようなものを感じた。
改めて彼女の顔を見た。その顔はそれまでと違って不敵に微笑んでいるように見えた。
「それに定年退職した夫とずっと一緒にいるのもイヤ!」
「え? どういうことだい?」
「先日、奥さんが会社に見えました。あ、正確に言うと元奥さんですよね」
は? どういうことだ。
「健康保険証をお持ちになられたんです。離婚されたそうですね。さんざん井上さんのことをお話しになって帰られましたよ」
なぜ、なぜ、あいつが会社に来たんだ。動揺が隠せない。
「そ、それはいつのこと?」
「井上さんにメールをお出しした日です。奥さんの話を聞いて井上さんがどんだけみじめな日々を送っているのか、確かめたくてメールしてみたんです」
「さ、沢井くん」
「わたし、偉そうにしているおじさんが嫌いなんです。自分がなにをしているのか、どんだけ周囲に迷惑をかけてるかまったく分からず、それなのに自分が支配者だと思いこんでいる。でも、ある日、そうでないことを突き付けられる日が来るんです。すると、どうしてこんな目に遭わなくちゃならないのか、わけが分からず、メンタルやられちゃうんです。わたし、そんなおじさんを見るのが大好きなんです」
沢井絵美の顔は赤みを取り戻してきたように見えた。
「わ、わたしが偉そうにしていたように見えたかい?」
「いえ。皆言ってましたけど、会社じゃ気の弱い無能な人にしか見えませんでした。けど、家庭では違ってたんですよね。奥さんからそう聞きました」
なにを話してるんだ、あいつは。
「奥さん、言ってましたよ。きっと私が言った意味の百分の一も、あの人は分かってないだろうって」
なにを言ってるんだ、この女は。
わたしは妻とともにこの沢井絵美という女にも腹が立ってきた。
「あれ? 怒ってます?」
そういって沢井絵美は、ほほ笑んだ。病的に青白かった顔が営業時代の魅力的な顔に戻っているように見える。
「わたし営業のとき、いつも感じていたんです。まわりの男性を見て、そのことを。もっと世の男どもは思い知れ!って。なんで営業成績トップだったわたしがメンタルやられなきゃならないの?って。それもこれも薄汚いおやじたちの嫉妬がわたしをがんじがらめにしたからでしょ。実力もないのに、男だというだけであぐらかいて営業してたから、新人の女の私に負けたんでしょって」
そう話すと沢井絵美は鼻をすすった。泣いているのか?
「奥さんの話を聞いて井上さんが見たくなったんです。前と変わらないのか、すこしはこたえているのか? その様子だとかなりきているみたいですね」
また、彼女は微笑んだ。
「よかったです。奥さんにも報告しておきます。今日はお疲れ様でした」
丁寧に一礼すると沢井絵美は私の健康保険証と資料を手に受付から姿を消した。
会社に来れるのを楽しみにしていたのに、なんなんだ、これは。
わたしは会社で『気の弱い無能な人』と見られていたのか?
そんなバカな。どういうことだ。
放心状態になっていると、テレワークで人のいないシーンとした事務所の中から、沢井絵美のけたたましい笑い声が聞こえてきた。
なんだ、彼女はどうしてしまったんだ。恐ろしさえ感じるその笑い声を聞きながら、私は会社を後にした。

外にでると、まだ陽ざしがつよい昼前の時間だった。
ここはビジネス街で、かつては人通りも多い幹線道路沿いの歩道だったが、コロナが流行り、テレワークが当たり前になったいま、ほとんど人は歩いていない。頭の中にあるかつての賑わいがある光景と目の前に広がる荒涼とした光景の違いに、どこかうら寂しささえ覚えた。それは同期の木村の死、いま会った沢井絵美の笑い声と重なり、なにか狂気さえ感じるようなものに見えた。

そのとき、私にある考えが浮かんだ。

会社ってなんだ? 組織ってなんだ? 
会社での仕事を通じて幸せになったやつってどれだけいるんだ?
それまで疑問にも思ったこともない、いや、逆にそんなこと甘えたやつが考えることなんだと、ないがしろにしていた考えが切実な問題として、私の上に大きくのしかかってきたのである。

会社の仕事で幸せになったやつなんているのだろうか?


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