伊助くんのこたえ探し4 (誰がために山はある 前編)
「おーい。それじゃくまさん行ってくるよ。」
伊助くんが玄関で猫のくまさんに向かって呼びかけます。動きやすい服装に着替えて大きなリュックを担いでいます。くまさんはしぶしぶ玄関までやってきて伊助くんを見送ります。
「行ってらっしゃい。ぼくがお腹空く前に帰ってくるんだよ。」
遡ること昨夜のことです。いつものように部屋の真ん中に置かれたベンチに座っていた伊助くんは腕を組んで云々考え事をしていたかと思うとパッと立ち上がり
「決めた!明日ぼくは登山をしてくる!」
そう言って大きなリュックを取り出して着替えなどをクローゼットから引っ張り出し始めました。
「どうして急に?」
「そこに山があるからさ。」
伊助くんがうんうんと頷きながら答えます。
手に持ったお煎餅を眺め、このお煎餅を頂上で食べたらもっと美味しいだろうなと伊助くんは夢を膨らませているようです。
「でもきみ登山なんてしたことあるの?」
くまさんが少し心配そうに尋ねます。
「小さい頃にね。少年野球クラブのみんなでとっても高い山に登って日の出を見たんだよ。」
「そうなんだ。でも君は今は三十四歳で一人で登るんだということを忘れないでね。」
「そう思うと悲しいね。」
ぐすんと伊助くんが泣き始めます。
「伊助くん。山は伊助くんのためにあるわけじゃない。君がどれだけ泣いてもそれは変わらないんだよ。だから準備から手を抜いちゃいけないんだよ。」
伊助くんはグッと涙を堪えます。
「そうだね。今できることを全部やるよ。」
そう言って下山後の温泉の用意からカバンに詰め始めた伊助くんをくまさんは前足でビシッとはたきます。いや最後に使うものだからと伊助くんはたたかれた頭をさすりながら説明します。
朝六時。くまさんに別れを告げて家を出た伊助くん。今日の行き先は初心者にも行きやすい低山とはいえ万全を期すため早めに出発します。あたりは朝の空気が流れ始めていますが今日は曇り空です。少し薄暗い道を伊助くんは駅に向かい歩き始めました。伊助くんのお家は電車の振動が伝わってくるぐらい駅の近くにあるのであっという間に駅が見えてきました。踏切を渡り無人の改札をくぐります。十五分に一本しかない電車をベンチに座り待ちます。あたりには一人二人他に電車を待っている人がいます。心の中で挨拶をして昨日調べた登山道入り口までのルートを伊助くんは確認します。
地下鉄と違い路面電車は流れて行く景色が楽しいなぁとしばらくは外を眺めていましたが、やがて飽きてきたのか伊助くんは本を読み始めます。
本に夢中になっていたら危うく最初の乗り換えを乗り過ごすところでした。危ない危ないと急い電車を降ります。しかしハプニングは続きます。時計を見ると乗ってきた電車の到着が少し遅れていたようで次の電車への発射時刻が迫っています。階段を登り反対側まで行かなければいけないので伊助くんは走ります。意外と人も多く思うように進めません。
なんとか滑り込んだ伊助くんは「これは気が抜けないぞ」と、気合を入れて本を閉じてリュックにしまいます。しかし、何もしないでいると気が抜けたのか少しうとうとしてきたようです。仕方がないので立ち上がり窓の外を見やりながら考えます。
「人生とは乗り換え一つとっても予定通りいかないものなんだなぁ」
そうしみじみ思った伊助くんは昨日のくまさんの言葉を思い出します。山は僕のためにあるわけじゃない。もちろん電車だって僕のためにあるわけじゃないか。それでも無事に乗り換えができた。それでいいじゃないか。そう思えた伊助くんはどこか満足気です。この時はまだ自分の準備の甘さを感じられていないようでした。
電車を降りた伊助くんはバス停に向かいます。乗り換えにしばらく時間が空くのは分かっていましたがあらかじめ乗り場を知っておくことは重要です。
場所の確認を終えた伊助くんは、バスが来るまであと四〇分ぐらいあるので、朝ごはんを食べるために近くのカフェに入りました。コーヒーとサンドイッチを食べながらのんびりしています。降りるバス停は頭に入っているので伊助くんは余裕顔です。ポッドキャストを聴きながら釣られて笑いそうになってしまい、マスクを持ってくればよかったなぁなんて顔を押さえています。時刻は7時半を回りあたりには通勤や通学の人が忙しく歩いています。がんばれと駅に吸い込まれて行くみんなを見送り伊助くんもバス停へと向かい始めます。
バス停に着いて伊助くんはぎょっとしました。乗り場にはかなりの人が並んでいます。伊助くんはもしかして座れないかもと不安になりました。しかしその心配をよそに、一つ前に到着した別の行き先のバスに、ほとんどの人が乗り込んで行きました。登山口へと進むバスはガラガラで、伊助くんは平日バンザイとほっと胸を撫で下ろします。
席に座った伊助くんはカバンを隣に下ろし、ここまできたらあとは登山口がある神社のバス停で降りるだけでいいなと安心した様子です。山道を走るバスはガタガタと激しく揺れています。伊助くんは本を読んでいましたが、あまりの揺れで読むのが大変なので本を閉じて外を眺めます。バスはガタガタと鳴り響いて進んで行きますが車内は静けさに包まれていて、伊助くんは流れて行く景色をぼうっと眺めていました。到着前に降りるバス停の確認と登山口までのルートを確認します。
次の行き先が電光掲示板に表示され、間違いないことを確認して伊助くんはボタンを押します。
「次止まります」
しばらくしてバスが停まり、伊助くんは立ち上がります。バスの運転手さんにお礼を言いスマートに運賃を支払います。
走り去るバスを背に伊助くんは約束の地へと降り立ちました。その顔は自然と上を向いています。
――続く――
※アイキャッチの画像とても素敵で使わせていただきました。