世界じゃそれを愛と呼ばないんだぜ
独りになって、今までは全く思い出さなかった昔のことをふと思い出すことが多くなった。
『これとこれのどっちにしようと迷っとるげんけど、もう今日は決められんからまた今度にするわ』
高校生の僕はCDを2枚手にとって散々悩んだ末、母に告げた。そう言えば、2つが手に入ることを僕は知っていた。
『何回も来るのも面倒やし、2つとも買うから早よ持ってきまし』
母がそういう。
ここで安心してはいけない。
『でもそんなん悪いわ。』
『こっちはお母さんも聴きたいからいいわ。早よしまし。』
すまないね。とわたしは2枚のCDを手に入れた。
買ったばかりのエルレガーデンのベストアルバムを聴きながら、家路を急ぐ母はうっかりシートベルトを締め忘れてしまい、駐車場を出たところで呼び止められてゴールド免許の連続記録が潰えた。
『いつもはこんなことないんですけどね。』と謎に警察にいつもの勤勉さをアピールしながら謝りつつ書類を書いていた。
すまないね。僕は心の中でまた呟いた。
高校卒業して僕は愛知の大学へと進み一人暮らしをすることが決まった。
『人に迷惑をかけんようにしなさいよ』
母からの送る言葉に対して
『人に迷惑かけずに生きれる人なんかおらんよ』
哲学的に問いかけ直す僕。
『あほ。悪いことせんようにって意味や』
『そんなことはせん。』
旅立つ我が子に母が持たせたおにぎりの包み紙の中に、そっと一万円を忍ばせてあるのを見つけた息子が涙した話は何で見たやつだっけ?
そんなことを思いながら、僕も母から渡された朝ごはんのおにぎりを長距離バスに乗りながら食べた。
間違って捨ててはいけないから一万円が入っていないかはしっかり確認しておいた。
郷ひろみと藤井フミヤが好きな母。
『これが1番うまいからいいげん』
毎朝、昨日の冷やご飯になめ茸を乗せて、そう言って食べていた母。
サスペンスドラマが大好きな母。犯人が当たったときは満足そうにしていた。長いCMの時間帯を把握していて、その間にお風呂をさっと済ます技術を習得していた母。
にんにくは休み前まで食べるのを控えていた母。
僕は三人兄弟の末っ子次男だ。上には兄と姉がいる。
実家から通える大学はないから高校卒業と同時に子どもたちは家を出ていく。
母が58歳の時にもう子どもたちも自立したから、仕事を早期退職してあとは子どもや孫たちとの時間に充てたいといって父を説得してついに仕事を辞めた。
それが2019年
それからは新型コロナウイルスが猛威を振るい、各地で感染者が続出したり、緊急事態宣言が発令され外出などが制限された。
なんで今なん?
本当だったら母が1番そう思っていたと思う。
テレビでは公然と『県外の人は来ないでください!』と知事クラスの人が発言したりしていた。
特に僕の暮らす愛知県は「おれコロナおじさん」などがテレビで取り上げられていた。そんな名古屋ナンバーの車で田舎に帰りでもしたら何をされるかわからない(実際には何かされることはないだろうけど)。
母はとにかく基本ルールを守って行動していた。買い物も最小限の回数にとどめ、家とスーパーぐらいしか行っていなかった。父が福祉施設の所長でクラスターでも出たらおしまいだから、週2回の抗原検査までしていた。
兄や姉から送られてくる孫たちの成長が何よりも励みだったと思う。
そんな中、父と母がデルタ株の新型コロナに感染した。今でこそ新型コロナは感染力が強いが重症化の率は低い。でも当時のデルタ株は重症化する可能性が高いものだった。
病院には家族でも入れない。もし万が一そのまま亡くなっても会えない。遺体に触れることすら許されない。
もしかしたらこれが最後になるかもと遠く離れた地で不安を感じていたが、幸い父は軽症だった。
60歳以上だったためすぐに入院になった。テレビでは病床が空いていないと騒いでいたが病室もすぐに確保できて当時最新の治療法だった抗体カクテル療法も父は受けることができた。
母はほとんど無症状だった。
父と母が離れた病室で電話でお互いの近況を確認し合っていたらしい。
『父は平熱で症状もほとんどないらしい。今のところアルコールの禁断症状もないとのこと。笑』
『ご飯3食しっかり食べてるけど間食とビールがないから差し引きゼロだと信じてるんだけど、ジィジはちょっとスマートになったというので焦ってます。』
母はそんなことを言っていた。元理学療法士でリハビリの先生だった母は長年の経験を生かして入院生活でもできる足踏み体操やスクワットをせっせと行っていたそうだ。
こんな母の素直なところを真似すればよかったと今もずっと思っている。
父の朝は早い。
朝5時ぐらいに起きて海の近くと山の上にある畑の手入れをした後、点在する田んぼの具合を確認しにいく。
戻ってきたら朝ごはんを済ませて7時過ぎには仕事に向かっていく。
職場は家から1時間車を走らせていく。
1時間ぐらい普通だよと思うあなたに言っておく。
田舎の車が1時間で走る距離は60キロメートルだ。
夜は7時過ぎに帰ってきて、夜ご飯と一緒にビール、ウイスキー、日本酒、焼酎などをチャンポンしてフラフラしている。
田舎の大人はスーツを着て仕事に行く人はほといない。
僕は地元の大人でスーツを着て仕事に行く人を自分の父親以外見たことがない気がする。
だけど、僕は父の仕事をほとんど知らなかった。福祉の施設長をしているというぐらいの認識だった。
兼業農家でゴールデンウィークは大体田植えで終わる。なので僕はゴールデンウィークが嫌いだった。
田んぼのことはいろいろ手伝いに駆り出されたが、あまり説明はなかった。自分で考えるように言われた。
父との思い出は日常ではないものが多い。
小学生の頃に骨折をした時、定期通院の後お昼ご飯を食べに回転寿司に連れていってもらった。そこで人生初の大トロを食べさせてもらった。黒いお皿に金の模様が入っていてそのお皿に震えている自分がいた。
おそるおそる食べた大トロの味はうまかったかどうかは正直覚えていない。でも僕の記憶が定かなら、今僕の口に入っているものは僕の人生においては未だ経験したことがないもので、これが美味しいかどうかはわからないと思っていた気がする。
小学生の僕にとって美味しいものといえばツナマヨやサーモン、母が作った油揚げの煮物とかの情報しかなかった。
ステーキも同様で、美味しいお肉といえばハンバーグか唐揚げ、もしくは焼肉だったからステーキを本当に美味しいと思えるまで時間がかかった気がする。
焼肉は食事時間が長時間に及ぶから肉を焼いて食べると言うことに苦手意識があったかもしれない。
何者かになりたくて東京にある演劇か何かのレッスンスクールに応募して俳優を目指したいと手紙を書いたり、携帯電話を買ってもらうためにその必要性をプレゼンさせられたりした。
僕と父の距離感はそんな感じで、記憶に残っているコミュニケーションは目的達成のためのやり取りが多かった気がする。
そんな父との思い出で1番記憶に残っている言葉がある。正直な話をすると思い出ではなく言葉しか残っていない。
しかも直接的なやり取りではなく中学校の福祉教育みたいな時間で父が講義をした時の言葉だ。
そのシーンは思い出せなくて、アンケートに自分が書いたこととか、その言葉を聞いて感じたことや考えたことが事実としてだけ残っていると言う感じ。
そんな父親が学校に授業しに来ることあるの?と思うかもしれないけど、僕の生まれた町は信号もない町で中学校の全校生徒は30人ぐらいしかいない。
伝統工芸の体験の授業の時はこうちゃんのお父さんがやって来たから結構普通だ。
中学校は家から1分ぐらいのところにあって、自宅への宅配物が中学校に届いたり(なぜなら配達員も知り合いだから)、冬場は昼休みに毎日祖母のために石油ストーブの3時間延長ボタンを押しに帰っていた。
話を戻すと、そんな近い距離の授業は恥ずかしくって仕方なかった。こうちゃんも自分の親が授業できて、つかみでボケてすべってるの見てる時はこんな気持ちだったのかなとか思ったりもした。
そんないたたまれない空気の中で行われた授業の内容はほとんど覚えてないけど一つだけ今も覚えている言葉がある。
『福祉は100円を3人で分ける方法を延々と考え続けるような仕事』
どういうこと?と思った。
それに対しての説明はなかった気がする。
僕が忘れているだけかもしれないけど。
後々になって
『そういうことか!100円は3人じゃ割り切れないからぴったり同じ金額ずつ分けることはできないってことか!』と気づいた。
記憶が確かならその後に
『あなたならどんなふうに分ける?』という設問がアンケートにあった気がする。
僕は悩んだ挙句
『3人で分けられるお菓子を買って、同じ数ずつ分ける』
と書いた気がする。自信はないけどそうだった気がする。多分パイの実を想像しながら書いてた気がする。ちょっと高級感があるから。
そして家に帰ってから33円ずつ分けて1円は募金っていう作戦した方がクールだったかもなと思ったりしていた。
ちなみにそれについては家でも話はしていない気がする。だけど今もその言葉は記憶に残っていて、何の因果か僕は福祉の仕事を始めて10年が経った。
10年経った今、働いている会社が求人広告を出すために社員のインタビューをすることになり僕はこの話を思い出した。
あの頃の僕は3人で分ける方法と言われて、同じ数ずつもらえるようにという発想しかなかったんだなと気づいた。
それはつまり『平等』ってことだと思う。でも福祉の仕事を10年続けてきて見えたのは、必要な支援やサポートって人によって違うってこと。ごはんやトイレのサポートが必要な人もいれば、依存症に悩む人もいる。今必要な人もいれば、今は必要じゃない人もいる。
33円分の支援を押し付けて、これでみんなハッピーだねと終わらせるほど僕たち人間は簡単じゃなかった。なんなら僕はいいからあの人にあげてっていう人だっている。そんな支援もらったらおれが弱いみたいじゃねえかと思う人もいる。
全員に同じ支援が届かない。それは『平等』ではない。でも計る物差しが一人一人違うからそこには必ず差が生まれる。
もらってもらわないとみんなが幸せになれないんですよと『平等』を最初の頃は押し付けていたような気がする。
3人じゃなくてA君にBさんにC君に分けるならというふうにより輪郭がはっきりしてきている。
それは世界が具体的に見えるとともに僕の世界は狭くなったんだとも思う。
何が言いたいかっていうと、正解なんてないけど自分の中のものを形にしていくしかないんだなということ。
エーリッヒ・フロムさんの著書『愛するということ』には端々に染み渡る名言が散りばめられていた。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。
私たちは自分の中に、ひとつの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。どんなに境遇が変わろうとも、また意見や感情が多少変わろうとも、その芯は生涯を通じて消えることなく、変わることもない。この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。自分の中に自己がしっかりあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私」だという確信が得られるかどうかは、その他人に褒められるかどうかに左右されることになる。
愛は信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人はわずかしか愛せない。
このままいくと本一冊引用することになりそう。
僕の信念はなんだろうか?と考える。
思い返せば、僕は小中学生の時は何もない田舎で自分には何もかもがあると思っていた。高校生になって人数が15倍くらいになると世界から取り残された気分になって、大学生になるともっと人数は増えてさらに僕の存在は小さくなっていった。
その中で僕は常に安心安全を求めていた。見つかったかと思えばそれが揺らぎ始めるのが分かりまた不安に怯えていた。
大人になって人を愛し、結婚してそれがずっと続くと思っていた。
ありふれた田舎で生まれた僕は今も何者にならなければという不安に追いかけられながら安全基地の中で日々をダラダラと過ごしている。
僕には愛がないのかもと思ったことがある。
ロボットみたいとか、ほんとは好きじゃないよね?とか、あたしばっかりって言われることばかりだったから。
でも別れた妻にハッキリと言われて気づいた。
僕は相手のことを大切に思っていた。そこに嘘はない。
でも僕は自分から一歩踏み出す勇気を持てなかった。誰もが僕に対してしてくれたように、相手が返してくれるかわからない愛するという行為を自分から行うことに対して怯えていたんだ。
そして打ちのめされた僕は、遡れる所まで遡って母と父の愛に逃げ込もうとしている。
ギリギリのところで気づき自分を引きずりだした。
離婚の話をした日、僕の父と母は何も言わずに受け入れてくれた。田舎だから体裁がとか、顔向けできないとか言われるかとおもったがそんなことはなかった。
ちょうどその日ワールドカップの熱狂に日本は包まれていた。
父が酔っ払う前に離婚届の証人欄にサインを求めた。
『明日日本がスペインに勝ったらサインするよ』
何やねんそれ。結局納得できとらんのかい。とか思っていたら、まさかの日本が世界7位の無敵艦隊スペインを撃破した。スペイン全土を震撼させたVAR判定の結果を各局のテレビが報道する中、父は少しうつむきながらも力強い字でサインをしてくれた。
街の熱狂とは正反対に、我が家は静かに再出発した。
深々と2人に頭を下げて僕は地元を後にした。
すまないね。とまた心の中でつぶやいた。
そして2人にはっきりと『ありがとう』と伝えた。
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