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【舞台】ミュージカル『ファンレター』一考――日本版上演の難しさと意義について

 2024年秋、日比谷シアタークリエで韓国ミュージカル『ファンレター』が幕を開け、10月6日の兵庫公演を以って大千穐楽を迎えた。東京公演を2回ほど鑑賞したが、もとより音楽・脚本共に極めて力のある作品であり、さらに実力ある日本キャストと演出家・栗山民也の手によって非常に完成度の高い舞台に仕上がっていたように思う。
 だが、日本人として、この舞台をどう受け止めるべきなのか、そこには大きな課題がある。『ファンレター』は、日本統治下の朝鮮を舞台としており、日本がその植民地支配によって朝鮮の文化や言語を奪う、暴力的な状況の中にあって、それを奪われまいとする芸術家の抵抗を描く作品である。すなわち、日本人の観客はかつての宗主国=加害者側の人間であり、この作品をどのように受容するのか、そこには慎重な態度が要求される。

『ファンレター』日本上演の難しさ

 『ファンレター』は公演が告知された時(2024年1月)、この作品を日本人が演じることについて賛否両論があった。元ポストは失念してしまったが、記憶に残っている指摘としては以下のようなものがある。

①そもそも『ファンレター』が当時の歴史的背景を説明する作りになっていないため日本の観客には分かりづらい。
②とはいえ、栗山民也はこのような難しい演目を演出する力がある、信頼のおける演出家である(この指摘をしていた方は栗山民也が演出した別作品を例として挙げていたが、詳細は失念)。
③日本統治下の朝鮮を舞台にしており、それを日本人が演じることはWW2時のユダヤ人の物語をドイツ人が演じるようなグロテスクさがある。

 私は韓国版を知らないため、①の問題が日本上演にあたって何かしらの工夫をされたのか分からないが、同時期を扱いつつも極めて抽象的な作りになっている韓国ミュージカル『SMOKE』に比べれば遥かに具象的であり、日本統治下の朝鮮において芸術という形で抵抗した人々の物語であることは早々に了解される。
 ただ、例えば1幕冒頭のナンバー「遺稿集」では途中サイレンが鳴り、「12時だ」と歌う箇所があり、これは作中ではこれ以上の言及はないため前提知識を必要とする。このサイレンは朝鮮総督府による時報なのだが、1912年以降朝鮮の標準時は東京のそれに合わせて改定され、「朝鮮統治の象徴」であったという(李箱著、斎藤真理子訳『李箱作品集』光文社、2023年11月、69頁)。 そして、このサイレンをどのように理解するかということは、そのまま物語中で描かれる植民地としての朝鮮の状況をどのように理解できるのか、という問題に関わってくるはずだ。時刻までもが支配されている、ということを理解できるかどうかで、植民地支配という暴力の程度をどのような重さで受け止めるのか、それは変わってくる。
 したがって、①の問題は、物語理解のための必要条件は満たしたが、本作が問題化したかった日本による植民地支配を理解するための十分条件を満たしているとは言えない、というのが今回の着地点ではなかろうか。 しかし、これは無論『ファンレター』という作品が持つ内在的な課題ではなく、日本上演版のカンパニーの責任ですらない。日本人が、自らの加害の歴史に無知であること。全てはここに帰責するように思う。

 ➁については、栗山民也はこの期待と信頼に応えた、と一応は評していいのではないか、と私は考えている。一応は、という留保をつけたのは、私自身が韓国版を観ておらず、栗山民也の演出がオリジナル版が描こうとしたものにどれだけ誠実であるのか判断できないためである。ただし、台本・歌詞を担当したハン・ジェウンはパンフレットに寄せた文章の中で東宝のチームは「深く正確に作品を理解し、伝えようと多くの努力をしてくださいました」と語っており、日本のチームの姿勢が韓国側にとって一応納得のできるものであったことが窺える。
 一方で、期待と信頼に応えたと評価できる、と書いたのは、公演パンフレットに寄せられた栗山の文章と鑑賞後の実感に基づく。
 彼は公演パンフレットに寄せた文章の中で、韓国の演出家・孫桭策との交流について言及し、二人でイムジン河を眺めた経験、そして孫と「どんな時でも「もう水に流そう」と曖昧に消し去ってしまうのではなく、どこまでも熱く直裁に語り合ったあの大事な幾つもの記憶」を「私の体のどこかに深く強く刻まれている」ものとして語っている。さらに、「まず、その時代のその場所の真ん中に自分自身を立たせてみる。そこから見えてくるもの、聞こえてくるもの、目の前を通り過ぎ肌に触れるもの全てを全身で受け止める」ことを「私の演出の出発点」とし、『ファンレター』の演出にもおいても同様である、と述べている。
 私は栗山民也の演出が好きで、この1年ほどいくつか彼の手掛けた作品(『スリルミー』『ロスメルスホルム』『オーランド―』)を観ているが、彼の演出に共通しているのは、(歴史的背景に言及するかどうかは作品によって差はあるものの)その物語世界を、観客に対して絶対的な他者として立ち上げ、観客の安易な共感と消費を拒絶するものであるということである。換言すれば、栗山民也が演出する舞台に生きる登場人物は、観客が自己投影や共感という回路を用いて、それぞれの理解可能な範疇に落とし込むことができない他者として現れる。そして、そのように舞台が展開されるのは、まさに上記に引用した演出に対する姿勢に拠るのだろう。
 『ファンレター』も同様の印象を受けた。先に書いたように栗山民也の演出と韓国版の距離は私には解りかねるが、少なくともセフンやヘジンを始めとした登場人物たちそれぞれの葛藤や苦しみ、生の在りようそのものに誠実であろうとしたようには思う。そして、その演出の姿勢を可能にし、中でもセフン/ヒカル、ヘジンを、一人の人間として力強く立ち上げることに成功したのは、海宝直人、木下晴香、浦井健治それぞれの圧倒的な歌唱力と演技力に支えられてこそであったろう。

 最後に③についてであるが、たとえ日本のカンパニーや観客がいかに自らの加害者性に自覚的になろうとも、このグロテスクさは原罪的に付きまとうものであろう。だが、そのグロテスクさから逃れようとして、この作品を日本で封じることは、恐らくなおさら醜悪である。このグロテスクさに耐え、誠実に『ファンレター』という作品と、この作品が描き出そうとしたものに向き合うこと。それが、韓国がこの作品を日本に預けてくれたことに対する、現状での最も誠実な応答なのではないだろうか。
 ハン・ジェウンは、この作品が「韓国の悲しい歴史を背景」としており、そこに日本が関連しているため、日本版の準備には多くの葛藤があったとししつつ、「しかし、その部分まで考えて観てくださいましたら、作品についてもっとよく理解していただけるだけでなくまさにそこに、私たちが文化を通して交流する意味があると思います」と述べている。ここには朝鮮を植民地支配したことに関する正確な歴史的な知識と、その反省についての社会的共有が日本社会でなされていない状況が暗に示されており、日本が朝鮮に対する加害者としての歴史をいかに引き受けてこなかったかが、彼女のこの言葉には刻まれている。
 けれども、そうでありながらも、いやむしろそうであるからこそ、我々日本人はこの『ファンレター』という作品を渡されたのではないだろうか。とすれば、私たちがすることはこの作品そのものを棄却することでも、口を噤むのでも、むろん安直な消費をするのでもなく、作品が語ろうとすることに正面から向き合い、この作品を韓国から手渡されたその意味を考え、歴史を知ろうとすることであろう。そのような地平に我々日本人の観客が至った時に初めて、日本人がこの物語を演じるという事態の避けがたい醜悪さに、ようやく意味が生まれるうるのではないだろうか。

男性間の親密性のドラマとして

 『ファンレター』日本上演の難しさは、日本統治下の朝鮮を舞台にした韓国ミュージカルであるという点に基づいているが、本作が主眼とするセフンとヘジンの親密性もまたそこと関連する形で、扱うのが大変に難しいモチーフであるように思う。
 彼らの親密性は、端的に言えば、「日本占領下の朝鮮におけるホモソーシャル文学集団における、異性愛の仮面をかぶった(ホモセクシュアル的な)男性同士の親密性」と形容できよう。あえて「ホモセクシュアル」という形容をしたのは、1幕末部で歌われる「ミューズ」で七人会がホモソーシャル集団として示される一方でセフンとヘジンの親密性はそうした絆とは異なる形をとること、そして何よりも1幕前半「涙が溢れる」で、憧れの作家ヘジンと直接会ったことでセフンが「ふわりとした髪の毛 言葉を生むその手」のような言葉でヘジンの身体に注目・言及し、さらに寝ている隙に指先に触れようとし、全てを聞いたイ・ユンが「振られたってことか!」という言葉遣いをしていたためである。特にイ・ユンによるこの形容はセフンのヘジンに対する思い、振る舞いを第三者が聞き、それが恋愛的である、という判断を示している点で極めて重要である。
 加えて、1幕前半においてヒカルに会いたいと言うヘジンに対し、セフンが「もしヒカルが美人じゃなかったら?」と問い、ヘジンが「構わない」と答えるようなやり取り(もう一つ台詞の応酬があったはず)の最後に、セフンが意を決して「万が一」と切り出す点も見逃してはならない。おそらくセフンがここで聞きたかったのは、「ヒカル」と女性に仮装している以上最も致命的である事実「もし男だったら(女じゃなかったら)?」ということであり、もしこの時点でヘジンが「構わない」と言っていれば2人の行く末は随分と変わったはずである。しかし、逆に「男だったら無理だ」的な返答だったらセフンはどういう選択をしていたのだろうとも考えさせられるが。

 彼らの親密性において、より正確に言えば、セフンの文学への、そしてヘジンへの強い思いが生み出されるところには、言うまでもなく日本の朝鮮支配が関わっている。
 1幕前半、日本で勉学に励んでいたセフンは、朝鮮を馬鹿にした日本人に抗議したため、朝鮮へと送り返されている。そのことが「せっかく金をかけて内地へ送ってやったのに」と父親の逆鱗に触れて殴られ、セフンは「僕の求めているものは誰にも分からない」と孤独に苛まれる。そして、日本にいた時孤独だった自分を救ったのはヘジンの小説である、としてヘジンに向けてファンレターをヒカルの名でしたため始め(「誰も知らない」)、小説家を志して「七人会」に参加し、そこでヘジンと出会うことになる。
 こうした物語の流れは、単に文学好きの青年が憧れの作家に出会った、という単純なものでは、むろんあり得ない。「ナンバー7」、およびカーテンコールにおけるリプライズで歌われるように、「七人会」は自分たちの文化が日本によって踏み躙られていく屈辱、その暴力的状況において、自らの言語と精神とを奪わせない支配させない決死の抵抗を、芸術への情熱という形で表出させる作家たちの集まりなのである。それは、日本の植民地支配に怒り、抗う連帯にほかならない。
 セフンやヘジンが連なったのは、そういう集団であり、連帯なのである。他国の支配下に置かれ、言語を、つまり自分たちの思考や感性そのものをも剥奪されようとする時、それを、それとして残すには芸術が、そして中でも言語芸術である文学に賭けるしかない状況を強いられていたために、彼らは文学に自分の存在をあれほど賭したのである。自分の見た世界を、感じたことを、心を、自らのエスニシティに基づいた言葉=感性で形容することを禁止され、そのうちにどう形容していたのかという語彙や感性そのものが抹殺されていく。それはまさに、自分という存在が、己の魂が削り取られていくような、そういう体験ではないだろうか。
 自分たちの言語を奪われ、他の言語で思考を強制されること。それがいかに残酷なことであり、その当事者に言語的葛藤を強いるのか、ということは、イ・ユンのモデルである李箱が己の文学的言語をどのような苦闘を経て立ち上げていったのか、ということを解説した文章を参照してほしい。

 セフンがヘジンを愛することの根底には、日本に支配され、言語を奪われ、親に殴られ……そのような幾重もの抑圧のなかで自らの居場所や自尊心を削り取られた孤独の果てに、若きセフンが救いとして、あるいはもはや自らの心そのものとして、ある文学者=ヘジンの言葉にたどり着いた、という事実のはかり知れない重さが横たわっているのである。

 したがって、このセフンのヘジンに対する思い、二人の親密性もまた日本の植民地支配という苛烈な暴力がもたらしたものに他ならない。
 2幕後半「告白」においてセフンはヒカルの正体をヘジンに明かす。ここでは、二人で床に膝をつき、這いつくばりながら、セフンは「何か言ってください。罵ってくれてもいい。……僕を見てください」と懇願するが、ヘジンはずっとセフンから顔を背けており、セフンが「彼女が……」とヒカルに言及した時に初めてセフンの方を向く。ヘジンの目が探しているのは、いつだってセフンではなくヒカルであるということを、この一番自分を見てほしい状況でセフンは突きつけられる凄まじく残酷な場面である。
 この二人の関係性はどうしようもなく息苦しく、その緊張はここで頂点に達し、そして文字で建てた城は崩れ去る。この壮絶な応酬の後、彼らは再会することなくヘジンが亡くなり、約二年を経てセフンはようやくヘジンからの手紙を読み、セフンは彼との関係に心の整理をつけて「私の春を送り出す」ことができるようになる。
 確かにこの二人の関係性は、こう言ってよければ、どこまでも切ない。愛と執着が凝固し、やがて破綻に至る悲劇であり、最後にかろうじて仄かな救いがある。
 だが、重ねて言うが、彼らを見舞った悲劇の最初のトリガーを引いたのは、他ならぬ日本である。ゆえに、共感や感動という態度は諸刃の剣である。何故なら、それらはまさにその歴史性を忘却した消費に繋がりうる可能性があり、先に見たようにそれはハン・ジェウンがこの作品を日本に預けてくれたことに対する裏切りに等しい。
 しかし、もしこの舞台に涙を流せるとき、私たちはこの舞台が語る痛み、苦しみ、孤独を――勿論絶対的に不十分であり、完全に理解することはできないという限界性に対して常に自覚的である必要がある――理解することができている。それは、あの時代に私たちと同じように尊厳ある人間が生きていたのだという理解であり、その理解こそが同じ人間であるはずの朝鮮の人々を私たち日本人は恐ろしい暴力で傷つけたのだと、その加害者としての立場を引き受けることへの道を開きうるのではないか。すなわち、『ファンレター』という作品に対する感動は、人間に対する人間としての共感、そして日本の加害者としての歴史を引き受けることと揃いであるべきなのだろう。

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