オレンジの旅路
(この文章は、2019年10月にメルマガに掲載された記事を再編集したものです。)
空っぽの私が行くあてもなく電車に揺られていた。20歳の夏の終わり。鹿児島の阿久根市で映画を撮った。たくさんの無茶をして、迷惑をかけて、想いばかりが先走り転がりまわった20歳。映画を撮り終わって、私はすっかり空っぽだった。東京行きの飛行機をキャンセルし、肥薩おれんじ鉄道にひとり飛び乗った。
あれは傷心旅行であった。映画づくりの日々が嵐のように過ぎ去ったあとの虚無感、そしてクランクインの直前に喰らった失恋を、旅で一掃してしまおうと思っていた。宿も帰りの飛行機も決まっていなかったが、やはり想いだけが先走って熊本に向かっていた。車窓から見えるヤシの木と、オレンジ色の海がやさしかった。
「次はー、日奈久温泉、日奈久温泉ー」1時間半ほど経ったころだろうか。温泉、という単語に心が振り向いて、気づけば電車を降りていた。駅は無人で、あたりはもう暗かった。駅前に「ちくわ」と大きく書かれた看板を掲げた店がポツンとあった。駅構内のガイドブックを手に取ると、そこが温泉とちくわの町であることがわかった。人っ子ひとりいない温泉街のプラットホームで、神隠しにでもあったかのような心地だった。
ひとまず宿を探さねばと思い、ガイドブック片手に片っ端から電話をかけた。5件ほどかけてやっと取れたのが、素泊まり4000円ほどの古い温泉旅館だった。暗い夜道にぽっかり浮かぶ看板を見つけると、腰の曲がった女将さんが迎え入れてくれた。もしも私が純文学の主人公だったら、確実に死ぬためにここへ来たんだろうなというような、ただならぬ空気が漂っていた。案内された畳の部屋で腰を下ろすと、お腹が鳴った。
旅館の自転車を借りて外へ出た。真っ暗な田舎道を、またあてもなく走る。宿を出る直前にさっと温泉に浸かったので、晩夏の夜の空気が気持ちよかった。それにしても、まだ夜9時過ぎだというのに人の気配がない。コンビニもなければスーパーも閉まっている。これは明日の朝まで耐えるしかないかと思った矢先、たった 一軒ほんのり灯のついた店が遠くに見えた。これを逃せばもう今日は何も食べられないだろうと思い、自転車の速度を上げた。
「ごめんください、何か食べるものはありますか…」どこの馬の骨ともわからぬ20歳の女が突然こんな風に訪ねてきて、さぞ驚いたに違いない。しかし、驚かされたのはこちらも同様であった。私がたまたま戸を叩いた店で行われていたのは、なんと動物愛護団体のおばちゃんたちの会合であった。突然の来客に顔を見合わせる4人のおばちゃんたちのTシャツには、それぞれ猫のイラストがあしらわれている。聞けば、彼女たちは団体の中でも「猫部」なんだという。他に犬部、鳥部、魚部、蛇部、ハムスター部でもあるのだろうか…。
とにもかくにも、既に酔いのまわったおばちゃんたちは陽気に私を受け入れてくれた。カンパ制だったので2000円を箱に入れて、残っていた大皿料理を少しずついただいた。名物のちくわもあった。おばちゃんたちはかなり独特だったが、美味しい料理と特産物にまでありつけて、旅の食事としてはこの上なかった。幸いにも私は実家で昔から保護猫と暮らしていたので、おばちゃんたちの会話にも適当に乗ることができた。「もともと拾い猫だったんです」と伝えた時なんか、たいそう感心した様子であった。最終的には「人間は嘘をつく!猫は嘘をつかない!」と叫ぶ彼女たちを横目に、「猫だって嘘をつくぞ」と思いつつ静かにちくわをかじっていた。
翌朝、旅館の小さな畳の部屋で目を覚ますと、枕元にはパックに入ったいなり寿司と梨が置かれていた。昨晩のおばちゃんたちが朝ごはんにと言って渡してくれたものだ。それを見て、あれは夢ではなかったのだと確かめた。やや色は強いが、優しいおばちゃんたちであった。一生会うことはないが、一生忘れることもないだろう。
宿を出て朝の温泉街をふらふら行くと、宿や喫茶店に少しずつ人の姿が見えた。町の至るところに足湯スポットがあり、商店街ではちくわの試食が配られていた。種田山頭火ゆかりの地でもあるようで、町中の壁や看板に山頭火の自由律俳句が散りばめられていた。「どうしようもないわたしがあるいてゐる」「ひとりで蚊にくはれてゐる」「ころり寝ころべば青空」なんだか、とてもちょうどよかった。あの時ほど山頭火に共感したことはない。
東京行きの飛行機を予約して、鹿児島方面へ戻った。鹿児島の友達と遊んですっかり元気を取り戻すと、やっと東京へと発った。飛行機の窓から見える空はオレンジ色に染まっていた。空っぽの心も、傷ついた記憶も、すべてがどうでもよくなって夕日の向こうに消えた。
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