【書籍・資料・文献】『カレーライスの誕生』(講談社学術文庫)小菅桂子
情報誌の取材で寄り道を繰り返す
まだ、駆け出しのライターだった頃、情報誌の取材であちこちに行かされた。行かされたと表現すると、気が進まないところを強制的にという意味合いを含んでしまうが、決してそんなことはない。むしろ、喜んで行っていたように思う。
今、出版業界では経費を出せるほどの雑誌は数少なく、地方都市までの交通費、現地での交通費、宿泊費などを負担してくれる媒体は皆無だろう。私が駆け出しだった頃は、ちょうど端境期でもあったように思う。ギリギリではあるが、遠方取材の経費を出してくれた。
東京にいても大して仕事はない。せっかく地方に行くのだから、雑誌の取材だけして帰ってくるのはもったいない。現地滞在の延長費用を自分で捻出し、その延長分で取材とは関係ない場所に行き、モノを見て、そしてついでに話まで聞いたりもした。本来なら、1日に7~8件の取材をこなさなければならないところ、1日5件程度におさめる。取材スケジュールに余裕が生まれるから、寄り道ができるようになる。
その場だけなら、単なる無駄な時間・無駄な費用を消耗したことになる。しかし、取材や経験に無駄はない。無駄と思うから無駄になるのであって、現地に足を運ぶことは、その後の糧になる。そんな思いから、どんどん寄り道した。
今、思い返せば、もっと寄り道しておけばよかったと思うことさえある。山形県に2週間ほどの取材に行ったときは、まだ山形県のことを詳しく知らず、そのために行きそびれてしまった場所もたくさんある。無知識で突き進んだがゆえに山形の偉人・三島通庸の功績をたどることもできなかった。また、仙台まで足を伸ばしながらも、今振り返ってみれば、どうしてあそこに寄らなかったんだろうという後悔もある。
どんなに取材をし尽しても、そうした後悔がなくなることはないのだが、とにかく取材は体験であり、体験がモノを書くには極めて重要であることは、取材を繰り返すことで痛感する。
食べ物を表現する難しさ
情報誌では、主に店の取材をすることになる。店と言っても、半分以上を占めるのが飲食店だ。
ある情報誌では、ラーメン特集ということもあって、1日に7軒以上のラーメン屋を巡った。この時は、カメラマンと一緒に回ったので、スケジュールに自由がきかず、難渋した。また、飲食店はランチタイムやディナータイムは取材ができなくなるなるので、午前中に3軒、午後に4軒回ったこともある。7軒も回ると感覚が麻痺してきて、どのラーメンも同じように感じてしまう。何のために取材しているのかも、途中からわからなくなるほど、意識は朦朧とする。
取材先の飲食店は、事前の情報収集の過程でピックアップされている店だから、マズい店に当たるほうが稀であり、どの店も美味しい。だから、余計に誌面化するときの記述に困る。
情報誌で「まずい」と書くことはご法度だが、だからといって「うまい」と書くこともできない。そのおいしさを、どう表現するのか? そしてどう伝えるのかが肝なのだ。「うまい」のは、当たり前。それを、どうにか文章をひねり出して表現しなければならない。
ここは、テレビと大きく違うところだろう。いや、昔はテレビ番組でも安易にタレントやレポーターのリアクションに頼るようなことはしていなかったように思う。
昔のテレビにそんなに詳しいわけではないけれど、ここ10年ぐらいのテレビ番組では、タレントやレポーターがオーバーリアクション気味に「美味しい!」と言えば成り立ってしまう世界になっている。一昔前なら、「○○は宝石箱や~」と言えば、なんとなく美味しそうに感じてしまうような魔法の言葉があった。
雑誌で、その魔法は通用しない。美味しさを伝える言葉は、実に難しい。そんなことを情報誌取材で思い知らされた。
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