その質問、必要ですか?
東日本大震災というターニングポイント
2011年に起きた東日本大震災は、戦後の日本においてターニングポイントになった災害として記憶されるだろう。
1995年にも阪神・淡路大震災という大災害が起きている。被害規模などを見れば、阪神・淡路大震災も災害史に残るものといえるが、東日本大震災はそれを上回る。
なぜなら、東日本大震災では地震そのものの倒壊被害、倒壊に伴う火災といった被害をはるかに上回る津波被害があり、さらに福島原発が事故を起こすという、未曽有の災害になったからだ。
イデオロギーの差異もあるだろうが、昭和期の日本では原発は大きな関心事であり、反対も根強かった。平成の30年間で、原発への反対は薄れていく。原発は危険だとされていたのに、事故らしい事故は起きていない。なんだ安全じゃないか、という拍子抜けした思いが国民の間には醸成されつつあった。
とはいえ、1999年には茨城県東海村で東海村JOC臨界事故が起きているから、まったく原発が安全だったとは言い難い。しかし、原発は安全であるという意識がしだいに共有化されてきた。というよりも、原発が危険であるという意識が希薄化されてきた。
原発が危険でないなら、大量生産が可能で、石油や石炭のように空気を汚さないクリーンエネルギーの原発に、電力会社が傾斜するのは自然な流れなのかもしれない。
火力発電の主力を担う石油火力は石油を必要とし、その石油は海外からの輸入に依存している。火力にはガス火力や石炭火力といった発電方法もあるが、いずれにしてもそれらの原材料は海外依存度が高く、なによりも地域的な偏在が強い。しかも、多くの地域が政情不安を抱える。
一方、原発の原料となるウランは、幅広く世界各地で採掘されている。政情不安には左右されにくい。また、価格も安定している――そんな理由から、火力よりも原子力が推進されてきた。
ここでは、電力の原料を輸入に頼るエネルギー安全保障の観点が入り込んでいる。しかし、本音では原子力の平和利用の名のもとにウランの輸入を継続し、核の研究を続けたいという気持ちがにじみ出ている。核兵器を保有することはできないが、解禁されたら即時に核兵器製造に着手できる態勢を整えておく――そんな意図が透けて見える。
権力を握る政治家から「まともな記者」と評されることは、名誉なことなのか?
3.11が、日本にとってターニングポイントになった災害であることは論を待たない。地震だけではなく、津波による被害、そして未曽有の原発事故によって福島の人々は故郷を追われた。
誰もが経験したことがない危機において、原発を所管する規制庁は、環境省の外局でもある。環境大臣は、いわば原発行政のトップだ。その環境大臣に就任したのが細野豪志議員だった。
細野議員は後継の野田内閣でも、原子力行政を担当する特命大臣に任命されている。細野議員がどれだけ原子力に詳しいのかは判別できないが、菅直人内閣から野田佳彦内閣に政権が移っても、環境大臣からの重要案件を引き続き担当したことが窺える。
環境大臣時代、まだ混乱がつづく中で細野大臣は東電にたびたび足を運んだ。状況の経過報告を聞きに行っていたということもあるだろうし、原発事故の収拾に向けて指示を出していたこともあるだろう。
東電に足しげくかよう大臣の手間・時間の都合から、環境大臣会見が東電の一室で実施されることもあった。
東電の会見は、記者クラブ加盟社のみならずインターネットや雑誌などのフリーランス記者も参加できた。私も東電で実施された細野大臣会見の場にいた一人だ。
東電本店内で会見する細野大臣
私はカメラ記者として写真を撮ることに集中していたので、特に大臣に質問することはなかった。とにかく最前列でシャッターを押しまくった。東電の会見場は学校の体育館のようになっており、舞台袖から大臣などは出入する。そこに、記者が殺到することはできない。
大臣会見が終わり、細野大臣が会見室から退出しようとした。その瞬間、会見室後方から「人殺し!」という声が飛んだ。ほかにも、似たような意味の罵声が飛んだ。一人ではなく、複数人の声だった。
その声に、細野大臣は足を止めた。そして踵を返してきた。そして、声を荒らげて、『「人殺し」という言葉は撤回してもらいたい』と怒りに震えた。
細野大臣は、誰も経験したことがない原発事故の処理に疲労困憊していただろうし、なによりも自分が原因で起こした事故ではない。あくまで事後処理を託された立場にある。細野大臣の気持ちを斟酌すれば、事故の解決に向けて全力投球しているのに、「なぜ、人殺し」とまで言われなければならないのか? 憤懣やるかたない気持ちから、つい感情的になってしまったのかもしれない。
東電会見の様子。中央の背の高い人物が細野環境大臣
しかし、そうした体験が、細野大臣の気持ちを硬直化させたことは容易に想像できる。先日、大臣時代を振り返って、細野議員はこんなツイートをしている。
細野議員のツイートには「フリーの記者にはまともな人もいたが、ひどいのもいた」とある。
細野議員の主観的な意見であるから、細野議員がフリーランスの記者に対してどんな感想を抱こうがそれは自由だろう。しかし、「まともな記者もいたが、ひどいのもいた」という発言は、ちょっと解せない。記者の質に、フリーか非フリーかは関係ない。
細野議員は民主党代表選に出馬した際、当時はまだ理解の深まっていなかったLGBTの人々の苦しみに言及し、「LGBTの権利を確保できるような社会を目指す!」と主張していた。つまり、細野議員は誰よりもLGBTへの理解を示していたことになる。
民主党代表選を取材していた当時、私はLGBTへの理解がまったくなかった。理解がなかったというよりも、LGBTなる概念があることも、それが政治課題であることもわかっていなかった。LGBTの人たちが生きやすい社会をつくる! そう主張する細野議員に対して、「まともなLGBTの人もいるが、ひどいのもいた」と大臣や知事といった立場の人たちから言われたら、どう思うだろうか?
民主党代表選で政見を述べる細野豪志議員
ここで私が言いたいのは、「フリーランス記者はまともだ」ということではない。「記者クラブに加盟している記者はダメだ」と言いたいわけでもない。
細野議員の大臣時代の体験は、衝撃的だったのだろう。だからと言って、大臣職という強い権限を有する者が口にしていい言葉とダメな言葉というボーダーラインは明確にある。
記者の質が、実態的にどうなっているのかは言及しない。そもそも、私に記者の良し悪しを判断できる材料がない。それは、大臣も同じだ。大臣一人の価値観で、「あの記者はダメ」「この記者はいい」と線引きしてしまう怖さ、排除の論理を広めることは危険な思想にほかならない。
LGBTが生きやすい社会を推進する、いわば多様性のある社会を目指そうと細野議員は訴えていた。記者会見んい新聞社やテレビ局、雑誌、ネットメディア、そしてフリーランスの記者が参加する。多様な意見や質問が飛ぶよう人あるだろう。記者会見にフリーランスが参加することは、いわば言論の多様性ということでもある。
多様性を重要視するために、LGBTを推進しようと訴える細野議員が多様性を潰しにかかる。これは、自身が掲げていたLGBTを根本から崩す話でもある。
それでは、細野大臣が考える「まともな記者」とはどんな記者なのか? 政権や政治家に好都合の話を書く記者なのか? 「ひどい記者」とはどんな記者なのか? その線引きは、言うならば「オレ様の価値観に適合した記者がまともな記者である」という排除の論理になってしまう。
仮に、本当に「ひどい」記者がいたとして、それを指摘したいのなら為政者としての座を降りてから言うべきなのだ。為政者の発言と立場は、それほど重い。重責を担う立場として、政治家は抑制的でなければならない。特に、大臣たる権力者ならば。
繰り返すが、細野発言で私が問うているのは、記者の質の問題ではない。個人の、しかも大臣という絶対的な権力を持ち得る為政者が一人の価値観で多様性を線引きしてしまう点にある。
もしかしたら、細野議員のツイートは環境副大臣として原発浄化水を引水した園田康博副大臣ををねぎらう意味があったのかもしれない。しかし、園田副大臣をねぎらうことと、フリーの記者の質を問うことは別問題だ。
フリーの記者のひどさを強調することで、排除の論理につながることに気が回らなかったのか?
「この地震の名称は?」という質問の真意
3.11が発生した直後の総理大臣官邸記者会見で、ある記者がこんな質問をした。
「今回起きた地震の名称は何でしょうか?」
地震の名前なんて、どうだっていいじゃないかと思われるかもしれない。私もその場にいたのだが、記者から質問が出たときにポカンとしてしまった。
当時、東日本大震災という名称だけが新聞・テレビで使われていたわけではない。報道各社が思い思いの名称を使っていた。東日本三陸沖地震とか、東北・関東大震災といった具合だ。だから、そうした不統一の名称を統一しようという思いがあったのだろう。
そのときは、「そんなの自由に書けばいいじゃないか!」思えたのだが、後から考えてみると、これは非常に重要な質問のように思えてくる。
発生から8年しか経ていない今なら、どんな名称を使っても2011年3月11日に起きた地震のことだと誰もが判断できる。しかし、50年後だったらどうだろう?100年後は? 300年後は?
未来の人たちが、2011年に起きた東日本大震災について調べたとする。その際、名称が不統一だと、未来の人たちは「2011年は地殻変動が活発になっており、日本列島ではたびたび大きな地震が起きていた」という見解を出してしまうかもしれない。
古代の文書を私たちが容易に読めないように、未来の日本人が現代社会の日本語をすんなり読めるとは限らない。辞書に載っている言葉も時代によって変わる。「草生える」が爆笑と酷似した意味として定着したのは、ここ5年の話だ。500年後の日本人が、「草生える」を見て、当時の日本人は緑化に熱心だったのだなぁと間違った感想を抱くことは十分にあり得るのだ。
報道機関の第一義は、伝えることにある。そして、その役割には現代にだけではなく、後世にという意味も含んでいる。後世にきちんと伝えるためには、「この地震の名称はなんですか?」といった名称の不統一を正そうとする質問は非常に重要な意味を帯びてくる。
最近では、記者会見の生中継は当たり前になっている。コメント欄もしくはツイッターなどで同時中継するユーザーもいる。その際、「この記者の質問、意味ある?」「変な質問するなよ」みたいなコメントがつくことは少なくない。
そうした視聴者の目に晒されることで、記者の質問力が鍛えられるという面は確実にある。しかし、視聴者が「?」になってしまうような質問の奥底には、計り知れない考えが存在する可能性だってある。
細野大臣が「ひどい記者」と断じた記者の発言や行動にも、大臣が計り知れない深慮遠謀があったのかもしれない。大臣と言えども記者の心情をすべて知り尽くしているわけでない。記者の生い立ちが異なれば、当然ながら記者一人ひとりの原発への思いは異なる。
もしかしたら、記者の親が原発事故死しているのかもしれない。その場合、原発事故対策に歯切れの悪い大臣に対して苛立ち、つい「人殺し」と口にしてしまうかもしれない。
浄化水だから安心して畑に散水し、それが自分の家の作物を枯らしてしまったらどうだろう? 一家の収入は途絶え、家族は離散してしまう可能性すらある。故郷を追われ、家族離散にまで追い込む。政治は、それほどの強い力を有している。
もちろん、「人殺し!」などと口にすることは決して行儀のいい行為ではないだろう。それは浄化水を飲めと迫った記者も同じかもしれない。しかし、安全だと政府が宣言したことで浄化水を口にしてしまった国民がゼロではない限り、「安全と言うなら、飲んでみせろ」と迫る行為は決して不自然ではない。
実行に移すか否かは別として、そうした被災者の気持ちを汲めない、寄り添えない大臣に、原発処理を任せられるか?という疑問を抱くのは当然のことなのだ。