【連載第8回 みんなの公園】公園の萌芽は、江戸時代にアリ
庭園都市・江戸
江戸時代、幕府は全国の領地を各大名に与えて、それを経営させた。諸藩の大名が持つ領地の経営権は大きかったが、その領地経営を実質的に取り仕切っていたのは城代や家老といった重臣だった。
領地を与えられた大名たちは、江戸幕府から謀反を起こさぬよう厳しい監視体制化に置かれた。そのために、江戸から出ることができなかった。江戸定府とされた大名たちの仕事は、江戸城などに登城して領地経営の報告をすることや重臣たちに任せた領地経営について指示を出すことだった。
とはいえ、多忙というほどの仕事ではないし、人任せ的な部分が多い。大名がヒマをもてあそぶのは当然だった。こうした余暇に、何をするのか? 武芸や学問に励み、研鑽するのも武士の勤めである。鎌倉時代以降の武士は、社会の支配者層に君臨した。いわば、役人である。大名は現代で言うなら政治家・官僚ということになるだろうか。
ヒマ潰しが育てた園芸
本来なら遊んでいるヒマなどないはずだが、幕府には幕府の役人がいる。そのため、各地の大名はヒマ潰しをかねて、与えられた屋敷地の作庭に精を出すようになった。
江戸に滞在する大名の屋敷地は、江戸城に距離が近い屋敷地から上・中・下とランクづけされていた。上屋敷は藩主、中屋敷は跡継ぎもしくは引退した藩主、下屋敷は家臣の生活空間とされた。したがって、上屋敷の方が都心に近いのは必然的だが、上屋敷は人の出入りが少ないために敷地面積は広くない。むしろ、中屋敷のほうが広く、下屋敷になるとさらに広い。ちなみに、自国領から輸送されてきたコメなどを備蓄したり、なんらかの雑用のために保持していた抱屋敷などもあった。
一概には言えないが、下にいくほど江戸藩邸は面積が広くなるので、大名たちは主に手ごろな広さがある中屋敷を庭園づくりの対象とすることが多かった。中屋敷は上屋敷より江戸城から離れており、現在の位置にすると中央線・総武線の外側から山手線内側ぐらいに点在する。そのため、江戸時代に作庭された名園の多くはこのあたりに集中している。
有名どころの大名庭園は東京のあちこちにあり、現在でもその名残をとどめているのは文京区に多い。文京区後楽園に所在する小石川後楽園は、水戸藩徳川家の上屋敷。文京区本郷の東京大学の本郷キャンパスは加賀藩前田家の上屋敷(後に中屋敷)。文京区本駒込にある六義園は、大和郡山藩柳沢家の下屋敷。文京区目白台にある新江戸川公園は、熊本藩細川家の抱屋敷。といった具合だ。
江戸時代には、これ以上にたくさんの大名屋敷が存在した。そして、多くの庭園がつくられた。現在では、面影を失っている庭園も数えきれない。白河藩松平家が築地に整備した浴恩園、丸の内にあった因幡鳥取藩池田家の上屋敷も庭園として整備された。しかし、それらは都市化とともに生活空間・オフィス空間へと姿を変えている。
各大名はヒマ潰しで作庭に励んだが、そのうち「どの大名が、素晴らしい庭をつくるのか?」という競争を生み、「あの藩に負けてなるものか」という切磋琢磨につながる。そうした競争が、江戸の園芸文化を牽引する原動力になり、庶民の間にも花を愛でる文化が生まれた。
江戸のスターになった植木屋
その一方、素晴らしい花を品種改良で生み出す植木屋、人並外れた造園技術を持つ庭師・作庭家なども現れる。力のある植木屋、庭師や作庭家は大名から保護される存在になっていく。時に高禄で重用されることもあった。
そうした力のある植木屋、庭師・作庭家は弟子を多く揃え、集団で同じエリアに居住した。そのため、植木屋、庭師・作庭家のボスの住居周辺は一大庭園街となっていく。
いまだ文京区に多くの庭園が残っていることからも推測できるが、文京区本駒込一帯は植木屋集団が集まり、街を形成した。その周辺にも他派閥の植木屋集団が集まる。そして、競うように園芸技術を向上させていった。
現在は豊島区駒込となっているが、ここは江戸時代に染井村と呼ばれた。この一帯にも優れた植木屋集団が集まっており、植木屋集団は桜の品種改良によって、今や桜の代表品種となっているソメイヨシノを生み出した。
ソメイヨシノは、桜の品種の中でもかなり遅くに誕生したものだが、染井で開発されたソメイヨシノは、誕生からすぐに人気を博したわけではない。
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