【No.6】水の声 水泳部員をぶっち抜く帰宅部員の奇跡の物語
時間と空間を超えた世界
どのくらいの時間だっだろうか?
俺は意識の中で、まるで水の中にいるような感じだった。
静寂の中に、俺は女性の姿を見た。
白のワンピースのような服を着た女性が泳いでいる。
その脇には小さな子供が二人、楽しそうに泳いでいた。
女性はイルカのように自由自在に泳ぎ、手は使わず足のみで水の中をずっと泳いでいるのだ。
長い髪を水の中になびかせ、こっちを見ては、少しはにかんだ笑顔で俺を見ていた。
声を掛けても俺の口から言葉は出なかった。
彼女と子供達は綺麗に泳ぎながら俺から離れていった。
俺『待ってくれ』
俺は出ない言葉を投げかけた。
その時聞こえた。
『大丈夫 私はあなたから離れないから』
あの声だった。
次の瞬間、俺は目を覚ました。
シミがかった汚い天井が俺の目の前に表れた。
周りは白いカーテンに覆われていた。
何処からか楽器の音が聞こえてくる。
吹奏楽の音だろうか?
ここは学校の保健室だと思った。
今のは一体?
あれは水の声の主?
次の瞬間、保健の先生がカーテンを開け俺が目を覚ました事を確認した。
腕には点滴の針が刺さっていた。
先生『あなた、お昼ご飯食べてなかったでしょう?』
茂野一派が俺を取り囲んだ時、そう、あれは昼飯時だった。
飯など食える状況じゃなかった。
俺『そうだったかも』
先生『それと、一日何本?』
俺『…何が?』
先生『タバコ』
俺『吸ってねぇ』
先生『歯の裏がヤニだらけよ』
俺『…昨日やめたよ』
先生『どうだか… あと吸わないように』
俺『へいへい』
先生『その点滴が終わったら帰りなさい』
俺『すんません』
先生『それと、運んでくれた鈴木君にお礼を言うように』
俺『へい』
先生『ゆっくり寝ていなさい』
点滴はまだ半分以上残っていた。
俺は目を閉じ、さっきまでの夢と鈴木との対決…そして新木の事を考えていた。
水泳大会までの出来事
点滴もおわり、着替えて帰るところだった。
『失礼します』
保健室に誰かが来た。
あれは新木の声だ。
新木『あの先生…小川君は?』
先生『ん? あ、そこにいるよ。適当にカーテン開けて良いから』
新木『はい。ありがとうございます』
新木『小川君、開けていい?』
俺『…あ、ああ』
制服に着替えた新木が顔をのぞかせた。
俺はさっきまで水泳パンツだけだったから気に掛けていたのだろう。
俺『もう服着てるよ』
新木『あ、うん。』
俺『なんだ? プールでは海水パンツ一つでも見れるのに、ここじゃダメなのか?』
新木『え…そんな事ないもん』
保健の先生はクスクス笑っていた。
それを見た新木は顔を真っ赤にして言った。
新木『小川君のいじわる』
俺もくすくす笑った。
新木『もう。やめてよね』
俺と保健の先生は二人で大笑いだった。
新木『もう…来なきゃ良かった』
俺『すまんすまん』
新木『…』
俺『…心配して来てくれたのか?』
新木『…』
俺『聞こえてたぞ。さっきのお前の言葉』
新木『え?』
俺『もう、心配要らないから』
新木は一段とほほを赤らめた。
俺『選手に選んでくれてありがとうな、感謝してる』
新木『…それ、本当に?』
俺『ああ』
新木はどことなくホッとしていたようにも見えた。
彼女自身もどこかで何かが引っかかっていたのかもしれない。
そう思った。
俺『帰るかな』
新木『そうだね』
俺と新木は保健室を出て下駄箱に向った。
ふと思った。
新木に水の声の事を話したらどういうだろうな…?
俺は意を決し新木に言った。
俺『少し、付きあわねぇか?』
新木『え?』
俺『いや、この後少し時間あるか? 聞いてもらいたいことがあるんだけど』
新木『聞いてもらいたいこと?』
俺『うん。複雑な話だけど…』
新木は少し戸惑っていたが、俺の顔を見ながら
『うん。いいよ』
今考えれば、俺はある意味ではナンパしたようなものだったのかもしれないな。
小生意気な中学生である。
学校から少し離れた場所に喫茶店があった。
見た目もお洒落な、コーヒーが一段と美味い喫茶店。
よく店内では黒人ブルースとジャズが流れていた。
俺は学校帰りに良くここに来ていた。
喫茶店に入ろうとした時、新木が言った。
新木『中学生で喫茶店は禁止だよ』
俺『ここはいいんだ』
いいという意味は何もなかった。
新木『あたしお金持ってないよ』
俺『いいから』
恐らく新木は人生初の校則違反をしたのだろう。
なんという真面目な子だ。
店に入るなりマスターが言う。
マスター『おお、純か。いらっしゃ…』
女連れだったことに驚いたのか、マスターは新木を見ていた。
俺『あんだよ?』
マスター『いや、珍しい事もあるもんだなと思って』
俺『なにが?』
マスター『いらっしゃい。可愛いお譲ちゃん』
新木『は、はじめまして』
マスターはきょとんとしていた。
そのまま立ち止まる二人。
お互いに別世界の人間同士なんだろう。
俺『めんどくせぇ二人だな』
本当に素直にそう思った(笑)
俺『ま、座るべ』
店の奥にある小さなテーブルに座った。
新木はこういうところは本当に初めてなんだろう。
店内ではMuddy WatersのHoochie Coochie Manが流れていて、他の客はいなかった。
きょどきょどしていて、落ち着きはなかった。
俺『ここ、何でも美味いんだ。好きなの頼んでいいよ』
新木『な、何があるの?』
俺『こういう所初めてか?』
新木『…うん』
俺『安心しな。俺の親父の取引先だから』
親父のハチミツが店には並んでいて、尚且つ親父とは古い間柄だった。
俺はガキの頃からここに親父に連れてこられてはブルースやジャスの話をしている親父とマスターの会話を聞きながらパフェを食べていた。
俺『マスター、コーヒーとチョコレートパフェで』
マスター『ほいよ。一番美味いやつ出してやっから』
俺『どうも』
新木『あの人男なのに髪長いよ』
俺『ブルースやってる人だからだよ』
新木『ぶるーすって?』
俺『お前、頭いいくせにブルース知らないのか?』
新木『うん。知らない』
俺『今流れてる曲がブルースだよ。音楽のジャンルの一つ』
新木『へー。こういう曲がぶるーすっていうんだ。』
少しずつこの風陰気に慣れてきたのか、新木は少し落ち着いたようにも見えてきた。
新木『小川君、話って何?』
俺『ああ。あのな…』
新木『うん』
俺『お前、泳いでる時って何聞いてる?』
新木『え? それってどういう意味?』
俺『水の中で声が聞こえるって言ったら変か?』
新木『???』
俺は新木に『水の声』の事を話した。
小学校4年の夏、検定試験の時も、さっきの鈴木との対決も、そこには全て水の声の存在があったことを話した。
そして『水の声』が導いてくれてるから自分は泳げるんだという事も、4年の時に100メートル泳いだ時から聞こえなくなった事も言った。
新木に俺が体験した水の声のことを全て話した。
新木は少し信じられない表情だったけど俺の話を聞いてくれた。
俺『な、複雑な話だろ?』
新木『・・・』
マスターがコーヒーとパフェを持ってきた。
マスター『顔に似合わず何真面目に話してんだ?』
俺『ん、内緒』
マスター『ま、ごゆっくり』
新木『それって…』
俺『ん?』
新木『小川君はその声に導かれて泳いでるってことだよね?』
俺『うん。そう…だな』
新木『…』
俺はパフェを新木に勧めて、新木はその小さな口に運んだ。
新木『ん…美味しい!!』
俺『な。美味いだろ』
少し間が開き、新木は自分の思っていることを話し始めた。
新木『きっとそれって特別だよ。本気でやったら凄いんじゃない?』
俺『だと思うんだけど』
新木『あたしにはそんな声聞こえないもん』
その後にまた無言になる新木。
俺はコーヒーをすすりながら、新木を見ていた。
新木はパフェを食べながら一生懸命に考えていてくれた。
結局のところ答えは何もなかった。
勿論、答えを求めていたわけじゃなかったし、人に話して理解してくれない事も知っていた。
ただ、俺はこの水の声のことを新木にだけは知って欲しかった。
なんとなくそう思っただけだったのかもしれない。
飲食代を親父のツケにして、喫茶店を後にした。
次の日、俺は学校で一躍有名人になってしまっていた事は言うまでもない。
噂が噂を呼び、ある事ない事、話は縦横無尽に飛び交った。
去年の全国大会4位の鈴木と同着の小川。
学校中、それは訳の分からない事になっていた。
登校時から俺を見るなり『凄い』とか『がんばれ』とか応援するやつ。
いつも以上に人目にさらされていた。
それは心地いいものかどうか、その時には分からなかった。
そして、小学校の時と同じように水泳部の顧問が俺の前に立ちはだかった事は言うまでもない。
『少し考えさせて欲しい』
その時の自分に出来る精一杯の答えを出した。
小学校時代に比べれば大人になった答えだったと思う。
でも、俺は放課後の水泳の練習には顔を出さなかった。
なんか、嫌だったのだ。
人目がどうこうではなく、また同じように鈴木と戦うことになるのかと思うと、鈴木にも申し訳なかったし、新木にも心配させたくなかった。
でも俺は鈴木に感謝していた。
あの日以来、鈴木は休み時間になるたびに俺のところに来て水泳のことを話してくれた。
鈴木にとって水泳は全てだった。
そして、鈴木にとって水の中にいる時が一番最高の時間だということも教えてくれた。
今まで、学校には親友も何もなかった。
親友の中田が不登校になって以来、俺は学校が嫌になっていた。
だが、それを鈴木が消し去ってくれたのかもしれない。
鈴木と一緒に喫茶店にも行ったり、遊んだりしてお互いにお互いを認め合っていた。
鈴木はどう思っていたか今となっては知る由もないが、俺は鈴木にだけは頭が上がらなかった。
自分を追い抜くかもしれない、ある意味では強敵を自分に素直に受け入れ、そして自分を打ち明けてくれた。
こんなにも素晴らしい男はそう簡単にはいないだろうな。
それと、俺は完全に新木が好きだという事もこの頃から感じていた。
鈴木との対決の後の倒れたあの日、新木は俺のことを気に掛けてくれ、そして心配してくれた。
ただ、俺は好きだという勇気がなかった。
それだけだった。
勿論、新木が俺を好きでいたかなどその時は知らない。
新木が俺を選手に推薦してくれた事に対して、何で答えるべきか?
答えは一つしかなかった。
水泳である。
そして、鈴木に勝つことが新木が喜ぶ事なんじゃないかって思った。
リレーでクラスを一番にする事が新木を喜ばす唯一の方法なんじゃないかとも思った。
俺は勝手に闘志を燃やす事になる。
鈴木は好きだ。
だが、あいつにだけは負けたくない。
練習は出たくない。
でも練習しなければ鈴木には勝てるはずもなかった。
俺は自問自答を繰り返した。
水泳の練習はしたい。
でも、学校で練習すれば鈴木に俺の泳ぎを読まれてしまう。見られたくない。
でも、一体どうすれば良い?
何処で練習すれば良い?
そんな時に水泳の神様は俺のこの身勝手な自問自答に光を差し込んでくれるのだった。
つづく