【No.12】水の声 水泳部員をぶっち抜く帰宅部員の奇跡の物語
スタート台に立った俺は周りのひそひそ話や茂野どもの嫌味な声援、競技の事などそっちのけで中田の姿を探した。
中田が来ているのかどうかわからないほどの人の数。
来ているのか? 来ているのなら手でも振ってくれ。
何処だ? 俺の泳ぎだけでも見たいって・・・中田、来てるよな?
『よ~い…』
ピストルを鳴らす教師が声を張り上げた。
他のやつらは前かがみになって飛び込む用意になったが、俺はその声が聞こえなかった。
それほど親友の中田を探していた。
『…小川?』
その教師が俺にいう。
それで気が付いた。
『おじけずいたのか!?』
『おめぇなんか無理なんだよ!』
茂野一派がいう。
俺『すんません…』
教師にそういうと再度仕切りなおしをした。
他のコースにいた水泳部はいい加減にしろよ的な目つきで俺を睨んでいた。
『わりぃ…』
その一言を言った後に、俺は新木を見た。
新木はこの前と同じように手を合わせ、俺を見ていてくれた。
その姿だけが、俺の唯一の救いだった。
新木が推薦してくれた事に答えなければならない…
俺は目を瞑り、一気に闘志を燃やした。
『よ~い…』
前かがみになり、目を開けた。
パーン!!
俺は水の世界に飛び込んだ。
老人プールでの練習の主は実は飛込みだった。
『水の声』の指導は泳ぎ全てに注がれていた。
そして、俺の飛び込みに欠点があることを伝えた。
俺の飛び込みは最初から真下に進み、その後にプールの最下位部に行く方式だった。
その方が速く最下位部にいけて水の声が聞こえたからだ。
しかし、その方式ではダメだという事を水の声は教えてくれた。
それに、この飛び込みは美しくないとも言われた。
新しい飛び込みはこうだ。
まず、スタート台ギリギリに立ち、足の指を水面に向ける。これだけでスタート時に蹴るのと前に突っ切る事ができる。
次に両手を羽のように広げ、その瞬間に親指を隠し両方の人差し指だけを合わせる。
両手が両刃の刀のようにピンと張るようにする。
そして頭を両腕の下になるように、隠すようにする。
最大の難関は飛び込む時に、放物線を描きながら瞬時に"ほぼ真下"に落ちる事だった。
飛んだ時の最上部で落ちる角度を変え、そのまま急降下する事により、地球上にある重力と水に入った時の水が前へ押し進める力を利用して一気にプールの半分近く、いや、それ以上に進む事が出来た。
その間、俺は体を動かす事はない。
全てが上手くいけば、後はすんなりと水が押し進めてくれるのだ。
その後に、水の声を待つのだが、この泳ぎの時は昨日言われたように声は掛けてこないだろうと思い、手のひらの角度を上にあげた。
そして、これは違反かもしれないが、水面に両手が出る間際に一回だけ腕だけ平泳ぎの手の動きをする。
スピードが落ちないようにするという違反に近いやり方だった。
その後、両手が後ろに向いた瞬間にクロールに入る。
これが老人プールで水の声が教えてくれた飛び込み。体を真っ直ぐにさえしていれば、ぐんぐん前に進む事ができる上に水の声がそれまで以上に聞き取りやすくなった。
全ては水の声と水に礼を注ぎながら。
俺は水と一体になり、水になり、水面に出た瞬間に少しだけ自己主張をさせてもらった。
水面に出た後はすんなりとクロールをすればすぐに水中ターンが待っていた。
水の声は俺の水中ターンの遅さにも指導をした。
これは何度も何度も経験を積み重ねるしかなかった。
何回水中ターンをしただろう?
最初は必ずといって良いほど耳に水が入った。
しかし、経験をつむ事により、それは一切なくなった。
ターンをした後に気が付いた事があった。
周りの声援である。
ヤバイと思った。
この声援の中、俺は水の声を聞き取れるだろうか?
水の声の一番の弱点は、声援の中では聞き取りにくい事だった。
そう思った瞬間だった。
昨夜の夢を思い出した。
あの夢に出てきた女性が声の主なのだろうか?
もしも新木が教えてくれた事が本当なら、坂本久美子という人(水の声)は一体何のために俺に声を掛けてくれるのか?
疑問に思いながら泳いでいた。
俺の泳ぎ方は正直に言ってしまえばど素人が編み出した泳ぎなのかもしれない。
それは、人類が初めて泳ぎ出した瞬間にも似ているのだろうか?
誰からも教えてもらわなかった。
水の声だけが俺の泳ぎの先生だった。
その声の主が本当にいとおしくてたまらなくなった。
無性に声が聞きたかった。
しかし、その時は昨日言われたように最後まで聞こえなかった。
俺は水泳部員など相手にしないほど、まるで赤子の手をひねるようにトップでゴールした。
水の声が言った様に、この回の泳ぎでは水の声の指示は必要ではなかった。
俺は自分でも信じられないほど速く泳げるようになっていた。
ゴールした俺は他の人たちがまだゴールしていない事を水の音と流れでわかっていた。
後ろを振り向くと、俺の次の人は最後の5メートルライン辺りにいたことを今でもはっきりと覚えている。
勘違いして欲しくないのは、俺は簡単にゴールをしていた訳ではないことである。
水泳はド素人の俺が水泳部をブッちぎってしまうのには水の声の助けもあるが、それ以上に自分の努力や研究もあるのだ。
何もしていなかったら勝てるわけがない。
当たり前の事だ。
前回の鈴木との対決後はゼーゼー言っていた肺や疲労していた体などは、その時にはもうないに等しかった。
俺はすぐに呼吸を整え、普通の状態を保つ事ができるようになるまで、水泳ができる体質に改良していた。
次々とゴールしてくる水泳部員達が俺を見たことは言うまでもない。
悔しい顔のヤツ、驚いている顔のヤツ、それぞれが俺を見ていた。
周りは鈴木のときほどではないが、歓声が上がっていた。
驚いたのは自分がいたクラスが大盛り上がりだったことだ。
皆笑顔だ。何て綺麗な光景なんだろうって思った。
皆、何かを感じていたのかもしれない。
もしかしたら、後のリレーに期待していた笑顔だったのかな…?
嫌味な担任などは俺がプールから出る際に笑顔で手を差し伸べるほどだった。
水泳部と一学年全員、そして鈴木に対し、俺は自分の存在をしらしめた。
そんな忘れられない50メートル自由形だった。
校内水泳大会(坂本久美子 前編)
クラス全員がいる場に戻った俺は、クラス全員からちやほやされた。
「凄い」だの「マジで良かった」だの、学校での悪行三昧などなかったかのように皆笑顔で俺の泳ぎを称えてくれた。
なぜか新木は後ろの方で喜んでいてくれた。
気を使っていたのだろうか?
こんな瞬間、初めてだったからかな?
最高に気持ちが良かった。
『リレーいけんじゃね?』
あるクラスメートが言った。
その言葉を聞いた次の瞬間、俺は新木との約束を思い出した。
『リレーで一番になったら…』
俺と新木は顔を見合わせていた。
きっと新木もあの約束を思っていと思う。
俺はさっきまでいた隅っこの方に戻った。
さっきの子供はまた俺を見るなり
『だっこ』
そんなに俺は心地いい抱っこをするのだろうか?
『にーちゃん速いんだね』
タオルで体を拭いた後に抱っこした子供が俺に言った。
座ったまま抱っこをし、あっぷっぷーとかそういう子供がすきそうな遊びをした。
ふと、遠くにいた鈴木が視野に入った。
俺を見ていた。
近所の子供と戯れて遊んでいる俺を見て、一体何を思っていたのだろう?
睨んでいた訳じゃない。かといって闘志が薄れたようには見えなかった。
鈴木にはそれ以上の闘志と自信を感じた。
その時、策の外から俺を呼ぶ声がした。
深く帽子をかぶった男がいた。
顔は良く見えなかったが、俺はその声で中田だとわかった。
中田『小川…来たよ』
妙に小さく、自分の存在を消すかのように俺に話しかけてきた。
彼なりに必死になって学校に来たのだ。
その後ろに中田の母親がいた。
涙を流しながら俺に言った。
中田の母『小川君、ありがとう。勇次が今日だけ学校に行くって…小川君の泳ぎを見るんだって。ありがとう、ありがとう…。』
俺『いえ、俺は何も…』
中田の母『ありがとう、ありがとう』
中田『お前の泳ぎ、最高だな』
俺『そっか? あの頃より速いべ?』
中田『ああ。それに、あの頃より神がかってるな』
俺『神…か。そうかもな』
中田は少し笑顔の顔を俺にだけ見せてくれた。
周りに気が付かれない様に。
俺『もう少し見ていってくれ。うまくいけばもう2回泳ぐから』
中田『うん。…わかった』
二人はその場から少し離れた場所に移動した。
中田の母親は俺に向って何度も何度も頭を下げていた。
その中田の母親の姿を俺は一生忘れられない。
学校で我が子が置かれた立場を、自分たちのせいだと思っていたのだろうか。
涙で崩れた化粧がやけにいとおしく見えた。
母親という存在の大きさを俺はその時に中田の母親から教えてもらった感じがした。
つづく