【No.5】水の声 水泳部員をぶっち抜く帰宅部員の奇跡の物語
プールでは一気にこの勝負が広がる。
それはプールを越え校内にも広がった。
学校中のやつらが集まってくる。
俺はゼーゼー言ってるのを必死にこらえた。
少しずつ、肺が収まり、元の状態に戻ってくる。
プールサイドには部活などそっちのけで集まってきた野球部員やサッカー部員、挙句の果てには茂野や教師までもが見に来ている。
流石は有名人。全国4位になった男だ。
鈴木が泳ぐとなると皆見に来るんだろう。
しかし、今日は状況が少し違う。
そうだ。その違う状況とは鈴木の相手が俺だと言う事だ。
しかも、この勝負を申し込んだのは、鈴木であるということも重なって、それは物凄い事になってしまった。
全国で4位の地元新聞にも出て、校内でも地元でも有名人の鈴木。
対する俺はただ自分の力を試してみたくなっただけの新木の無理やりの推薦で校内水泳大会をやるハメになってしまったというだけの無記録で、学校ではクラスメートにも教師にも見放された不良学生。
ただし、俺には『水の声』と言う強力な手助けがあった事だけはこの場でも言っておこう。
プールの周りではやんややんや騒ぎ出してくる。
茂野一派は、俺が勝てるわけが無いと言わんばかりに俺に罵声を浴びさせる。
新木はどこか悲しいような顔つきで、祈るように両手を合わせて俺を見ていた。
…新木はこの時に何を思っていたのだろう。
自分のせいで…なんて思っていたんだろうか?
鈴木が俺に聞いてくる。
鈴木『そろそろ良いかな?』
その自信に満ち溢れた鈴木の顔つきには貫禄すらあった。
俺『あ?ああ…』
少し圧倒される思いだった。
初めて思った。
負けたくない…と、水泳で勝負する事など全く興味も無かった俺が自分でも不思議にそう思った。
俺は太陽の光でキラキラ輝くプールを見ながら鈴木に聞いた。
俺『相手が俺なんかで良いのか?』
鈴木『お前と勝負がしたいってずっと前から思っていた』
俺『なんで? 俺は水泳なんか興味がねぇンだぞ』
鈴木『それこそ嘘だ』
俺は鈴木の顔を睨むように横から見た。
鈴木は真正面から自信満々な顔つきで言った。
鈴木『はじめよう』
二人で無言でスタートラインに立つ。
この時の水面はまるで光の世界に感じた。
太陽の光がさっきよりも強く感じた。
熱さもあったが、その暑さが一層水面を照らしていた。
一人の生徒が首にぶら下げていた笛を口にくわえた。
笛を口でくわえながら
『よ~い…』
二人で前かがみになり、飛び込む姿勢になった。
まるで、シンクロの選手のようにそれは綺麗に同じような形をしていただろう。
『ピーーーー!!!』
スタートの笛が鳴った。
俺は思いっきり飛び込んだ。
まるで、刀が水面に入るようにすんなりと勢い良く水の中に入っていった。
俺はいつものようにプールの最下位部を泳ぎ出す。
水の声を待っていた。
鈴木は水中ドルフィンで一気に前へと突き進んでいた。
意外に思われるかもしれないが、俺はこの水中ドルフィンは未だにできない。
あの体をクネクネと動かして前へ進む方法を知らないのだ。
俺が水中で行っていた泳法は、両手を伸ばし足をばたばた動かす『バタ足泳法』なのである。
ドルフィンに比べれば確かに遅いかもしれない。
しかし、きっとドルフィンでは『水の声』は聞こえてこないだろう。
水中ドルフィンをやらないでバタ足泳法で泳ぐ意味はたった一つ。
そう。その静寂の中から水の声が聞こえるのを待つにはこのバタ足泳法が良く聞こえるからだ。
鈴木はドルフィンで水中を泳ぐ時間はそんなに長くなかった。すぐにクロールに入った。
すぐに上に上がり、1コース間を開けた俺の場所にもその水しぶきは聞こえてきた。
その瞬間だった。
『両手のひらを上に上げて』
指示が来た。
その次の瞬間…
『このままだったら負けちゃう!』
水の声が思いもしなかった言葉を言った。
それほど鈴木は早いのか?
全国4位だ。そんな事はあたり前のことだ。
俺は水面に向けて上がりだした。
両手の指先が出た。
『クロール!』
少し焦っているような水の声はその後も指示をしてくる。
『手の甲をもう少し丸めて』
『親指を離してはダメ くっつけて』
俺流の泳法の、手を90度下げた後に体から少し離して水をかく所にも指示をしてくる。
『体から離す角度をもう少しだけ広げて』
『…そう。その角度』
足の動きにまで指示をしてきた。
『真っ直ぐ伸ばすだけではダメ』
『これ以上伸びないってくらいに真っ直ぐにして』
指示はどことなく矛盾してくる。
俺に感じるくらいに水の声は焦っているように聞こえた。
俺は言う。
俺『何を焦ってるの? いつものあなたらしくない』
『…』
俺『さっきみたいに楽しませてくれよ』
『…』
『25メートルターン いくよ』
俺『うん。』
『…2…1』
『今よ!』
今迄で一番のターンだった事を今でも良く覚えている。
あれほど最高に綺麗にターンできたのは後にも先にもこの時だったと思う。
『楽しもうね』
俺『うん。』
内心どこかでホッとしている自分がいた。
そして、俺の頭の中には水の声のみで、今勝負をしているとか、相手の鈴木のことなどすっかり忘れてしまったかのように水の声と話す様に思いっきり泳いだ。
まるで、女の子と二人で楽しく話しているかのように、それは本当に楽しい残り25メートルだった。
長いようにも感じ、あっという間にも感じ、あの時の俺と水の声の間には水があるのみで時間と空間を越えた特別な場所にいるかのようだった。
時間もなにもない…あれはもしかしたら水泳の聖地という空間の世界だったのかもしれない。
今となってはあの時の、あの空間の会話は思い出せない。
現実の世界に戻ると内容までは記憶から消えてしまうのだろうか?
ただ、特別な世界だった事を今でも良く覚えている。
『もうすぐゴールだよ』
この一言で、一瞬にして現実に引き戻された。
そんな感じだった…。
俺は無事にゴールをした。
勝負を忘れてしまう楽しい泳ぎだった。。
鈴木との勝負。
勝負などすっかり忘れて水の声と素晴らしい時間を過ごせた自分は、勝負よりもその事が嬉しくてたまらなく笑みをこぼしていた。
勝負の結果、俺と鈴木は、ほぼ同着だった。
オリンピックのようにしっかりとしたタイマーがあれば勝負は付くのだろうが、中学校のプールにそんなハイテクがある訳はない。
ほぼ同着。これが限界の判断だった。
プールに集まって見ていた人たちはほぼ絶句状態だった。当たり前の事だ。全国4位の男と同着。
誰が何を言えばいいのだろうか?
しかも、その片方の不良は泳ぎ終えてにんまりしているわけである。
ある意味では理解不可能な現実をいくつも目の前に差し出されたようなものだ。
もしも俺が見ている立場だったら、全く同じように絶句する他は、その時は何もできないでいただろう。
さっきと同じように、いや、それ以上にゼーゼー言ってる俺に鈴木が近寄ってきた。
俺は一瞬にして凍てついたような表情になり、現実を思い出した。
なんか、物凄い嫌な感じがした。
そりゃそうだ。ある意味では水泳全国4位の男を『水泳で侮辱した』ようなものだったから。
間1コースを越え、隣のコースで鈴木は俺に言った。
鈴木『一緒に水泳やろうよ』
思いもしない言葉が俺の耳に入ってきた。
ゼーゼー言ってる俺はその言葉を理解するのに手間取った。
俺『え?…いや、ちょっと…』
呼吸を整えるのに必死だった。
3年ぶりの本気の泳ぎ。
ヤニで汚れた肺。
疲れもピークだった。
水の声を聞いていたときにはこんな苦しさは一切無かったのに…
俺『水から上がって、…後で…話そう。』
その時の俺にはこの一言が限界だった。
プールから出た俺は、立っていられないほど疲れていた。
水から出た後に感じる太陽光の暑さと地球の重力に耐えられず、膝がガクッっと折れ、俺はそのまま倒れてしまった。
意識はあった。
プールサイドのコンクリに当たった膝や腕を擦り剥いた痛みも感じた。
でも、体は思うように動いてくれなかった。
目もあけていると思っていたが、ぼんやりと暗くなったり明るく感じたり…
『キャー!!』
何人かの女子の声だった。
『保健室だ!』
誰かが言った。
『俺が運びます』
多分鈴木の声だ。
『小川君!!』
新木の声だけは良くわかった。
『ごめんね…無理してたの?お願いしっかりして!』
半べそかいてるような新木の声が心に突き刺さった。
あの時、選手を決めるとき、新木は勇気を出してクラス中からのブーイングを覚悟の上で、俺を推薦してくれた事を、俺はこの新木の泣きそうな声で感じた。
…と同時に、不良の俺の生き方が新木にこんなにも辛い想いをさせている事を素直に悔やんだ。
「そんなことはない 無理なんかしてねぇ 心配するな」
声にしようとしても出来ないほど、俺の意識は遠のいていった。
『小川、立てるか?』
鈴木のこの一言が、この時に聞こえた最後の声だった。
つづく