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(3)笑わないミッキーマウス『サンフランシスコにもういない』

 僕は昔からミッキーマウスに親しんできた。といってもフリークではない。幼気な子供らしく彼のぬいぐるみを抱いて寝たこともなければ、クラスに必ず一人はいる女子のように手本もなく紙にサラサラと顔が描けるほど、彼のデッサンに勤しんだ経験もない。
 しかし彼がオーナーを務める夢の国――実際オーナーかは知らないが、ミーハーにはそう見える――で良い思い出はたくさんあるし、彼の特徴的な笑い方が、全国のちびっこ芸人たちにモノマネの門戸を開いていることくらい知っている。ハハッ。
 サンフランシスコには〈ウォルト・ディズニー・ファミリー・ミュージアム〉なるいかにも面白そうな場所がある。僕は休日一人でそこに行くことにした。 
 前庭に芝生を湛えた赤レンガの博物館は甚だ陽気で、いかにもミッキーマウスの邸宅といった風だった。その博物館が彼の邸というコンセプトでやっているかは不明だか、ミーハーにはそう見えた。
 館内には、まずウォルト・ディズニーによるミッキーマウスの原画があった。初期絵コンテはサラサラと、しかしハッキリとした筆致で描かれ、絵の中のミッキーはまるで生きているようだった。「生きているよう」とはありきたりな表現だけど、絵の中の彼は本当に例の声で笑い出すかと思われるほど活き活きしていた。こんな印象を受けたのはきっと小さい頃から彼に親しんできたからだと思う。それはたとえば親しい人の写真を見た時に、その人の声が聴こえてくるような感覚に似ていた。
 他にも館内には初期のミッキーの映像や夢の国の俯瞰模型、ディズニー映画の紹介等々、特別コアなファンでなくても見応えのある展示で溢れていた。
 こんなに楽しいものか! と館内を闊歩しながら次々と展示を見て周っていると、ふと足が止まった。ウォルト・ディズニーの生涯を幼少期から順に説明するパネル展示の最後に差し掛かったときのことだ。そこには彼の死後について書かれていたわけだが、涙を流す青色のミッキーとともに、リリアン・ディズニーという女性の言葉があった。

‟Whenever I see Mickey Mouse I have to cry, because he reminds me so much of Walt.‟
―― Lillian Disney
 私はミッキーマウスを見る度に泣かずにはいられない。ミッキーはウォルトのことをひどく思い出させるから。
――リリアン・ディズニー

 僕は何度もその言葉を読んだ。次第にこのリリアンという人は誰だ、という強い興味が湧いていきた。
 歩いてきた順路を足早に引き返し、もう一度館内を注意深く見て周ると、リリアンはウォルトの奥さんという説明を見つけた。
 再び僕は彼女の言葉の前に戻ってきた。
 この世にミッキーマウスを見て悲しむ人がいるなんて想像もしていなかった。あまりに価値観が揺さぶられ、とても次の展示に行く気にはなれなかった。
 この言葉の重みは一体どれほどのものだろうか。僕は当然、ディズニー夫妻に会ったこともなければ、二人の関係性や人となりも知らない。たとえ彼らのことをよく知っていたとしても、二人の関係値からその言葉を発したリリアンの心情を慮ることは、所詮想像の域を出ないし、あえてそんなことを試みてわかったような気になることも少し幼稚な気がした。そういうことは、かえって失礼になることもある。だから彼女がどれほど強い感情でこの言葉を発したかは正確にはわからなかった。
 でもリリアンのその言葉の前にいると、自然と涙が出てきた。
 その言葉にはなんの想像も妄想もいらない、強烈な感情が込められているようだった。
 リリアンの言葉は英語で書かれていたが、僕はその瞬間まで人生で一度として英語から話者の感情やニュアンスを正確に汲み取ったことはなかった。日本語ではそうしたことができても、英語ではできなかった。それは単に英語力がなかったからだ。だからリリアンの言葉を見た途端、急に英語力が伸びて、ニュアンスを汲み取れたなんてことはあるはずがない。
 それでもあんな風にまともに閉口して、涙が溢れてきたのは、その言葉には強すぎる気持ちが込められていたからだと思う。
 リリアン・ディズニーという一人の女性がこの世で最も強かな感情を込めた言葉には血が通っていた。仮にそのパネルが傷つことがあれば、血が流れ出すかもしれないという錯覚さえ起こした。文字は脈打つようだった。

 展示を見終わった後、芝生の見える博物館のテラスカフェでハンバーガーを食べた。僕はリュックからペンを取り出し、パラソルの陰で紙ナプキンにミッキーマウスを描いてみた。それまでの感動が薄れるほど下手だった。
 でも描き上げたちぐはぐの彼からは陽気な笑い声が聴こえてくるようだった。僕はリリアンにそれを見せて喜ばせたいという馬鹿な稚気に駆られた。



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