コーヒーから見るヤンキー進化論
薄すぎるコーヒーは麦茶の味がする。
大学のカフェでコーヒーを飲む度にそんなことを思う。そのカフェでは、お昼の弁当を買うと無料でコーヒーがついてくる。無料だからという理由でいつも飲むわけだが、いつも薄い。コーヒーはアイスかホットか自由に選べる。真夏にアイスのそれをぐいっといけば、ヤカンを持った鶴瓶が頭をよぎる。それくらい麦茶。
つまり、薄コーヒーは濃麦茶である。
コーヒーと麦茶は、素材こそ豆と麦で大きく異なるが、味そのものはグラデーションになっていると思う。嘘のような話だが、麦茶に牛乳を混ぜるとコーヒー牛乳の味になるというライフハックをテレビで見たことがある。そんな話を思い出す度に、やっぱり二つの味は一緒じゃないか、と思ってしまう。
コーヒーと麦茶は近縁種である。そんな学説が提唱できるかもしれない。ただ、ここで近縁な「種」と言ってよいものだろうか。なぜならこの味の類縁関係は、製造方法に起因していると考えられるからだ。すなわち、麦茶は大麦を焙煎して作るらしいのだが、周知の通りコーヒーもまたコーヒー豆を焙煎するわけで、結局のところ、種子か豆っぽいものを「焙煎して水に抽出する」という製造方法を取れば、あんな味に収れんすると理解できる。
するとこれは元々遠縁にあったモノ同士が、ある環境に適応した結果、似たような形になる、いわば鳥とコウモリのような関係性に当たるのではないかと思った。鳥類である鳥と哺乳類であるコウモリは近縁な「種」ではない。したがって、コーヒーと麦茶を近縁種と呼ぶことには抵抗がある。
雑に言えば、このように異なる生物同士が環境の影響を受けて同一の形態(鳥とコウモリの例では翼)を持つように進化することを、収れん進化と呼ぶ。しかし今回のコーヒーと麦茶の類縁関係に、この収れん進化の概念をそのまま当てはめるわけにはいかない。なぜなら、収れん進化では特別に「同一の」環境の影響を受けることで似たような形に進化すると定義づけられていない。しかし今回のコーヒーと麦茶は、元々コーヒー豆と大麦という遠縁にあったもの同士が、焙煎という「同一の」手段を用いることで初めて人間の味覚に適うあの類似した風味に落ち着いた。したがって、この「同一の」影響という条件を考慮して、今回のケースは収れん進化と区別したい。
そこで私は「元々異なるもの同士が、『同一手段を用いて』ある環境に適応することで、似たような形になる」というこの進化の様式を、その発見場所にちなんで、
ケチッター・カフェの定理
と名付けることにした。
ケチッター・カフェの定理は、焙煎という調理法に限らず、たとえば燻製にも適用できる。肉と魚は元々味が違うが、燻製という同一手段で人間の味覚に合うように適応した結果、いずれもあの煙たい独特の風味に収れんしたと理解できる。
ケチッター・カフェの定理は、もっと大きな話題にも転用できる。
たとえば田舎のヤンキーやギャルを思い浮かべて欲しい。彼らはどんな格好をしているだろうか。
私も田舎の出身なのでよくわかるが、頭髪は金髪か茶髪っぽい色で、なぜかPUMAかadidasの黒ジャージ、それも二重線が金色のやつを着ている。あるいは部活生のような紺のジャージ(うっすらと帯模様が入ってるやつで、オレンジかピンクの二重線入り)を身にまとっている。それから、なぜか足元は決まってサンダルである。なぜかそれらもPUMAかaddidas。ギャルならキティちゃん、クロミちゃんあたり……。なぜだか、なぜだか、日本の田舎にいるヤンキーたちは示し合わせたように同じ恰好に収れんしている。当然ヤンキーたち必読のバイブル的ファッション雑誌があるわけでもない。不思議だ。
ただこの不可解な現象も、〈ケチッター・カフェの定理〉で一面的には解釈できる。つまり、本来なんの関係も持たない全国のヤンキーたちが「手に入りやすくてデザイン性と機能性に優れた物」という同一手段によって田舎の環境に適応した結果、あんな風貌に収れんするということだ。ここで一応「田舎に適応する」という言葉の意味を明らかにしておくと、彼らはああいう恰好をして、田舎の黒い道路に擬態して遊んだり、サンダルで川原に降りて丸い石を探したりしている。これが田舎に適応するということである。
ただしこの「全国ヤンキー収れん現象」は、多面的な解釈が必要である。たとえばヤンママかヤンパパに連れられている子供たちは、もれなく同じ格好をしている。えり足を伸ばしたちびっ子ヤンキーくんは、時として髪を茶か金に染めている。黒ジャージにゴールド二重線のタトゥーを刻んだちびギャルたちは、キティちゃんサンダルを可愛く履きこなしている。ヤンキー遺伝子は脈々と受け継がれ、親ヤンキーたちは、ちびっ子ヤンキーたちに英才教育を欠かさないために、ああした風貌を好む独特のヤンキー観は醸成されると推察される。このヤンキー魂の遺伝と英才教育によるヤンキー観の発達ついては、ケチッター・カフェの定理となんの関係もない。多面的に洞察することでのみ、この全国ヤンキー収れん現象は正しく理解できそうだ。
ところで、ケチッター・カフェという言葉の成り立ちについて「その発見場所にちなんで」という説明で終わらせ流していたが、なにも件のカフェの店名が『ケチッター』だったから、そう命名したとか、そういうことではない。
単にコーヒーをケチって薄味にしているという意味の「ケチった」に由来している。
私は今、遠回しにコーヒーをもっと濃くしてくれと言っている。
ただ、薄いままでいて欲しいとも思う。……なぜか。