メコン川で「川が足りんな」と言いたい

 河原に立つ。
 水切りを極めた阿呆は、滔々と流れる川を眼前に思わずこう独りごちたくなるものだ――川が足りんな。

 水キラー(水切りをする者)は地元の川をホームグラウンドとし、水切り技術の向上に邁進しながら、様々な障壁や葛藤に腐心するものだ。そんな鍛錬のなかで最も気が高まる瞬間といえば、言わずもがな、自ら放った石が対岸に達し、カンッと小気味良い音を響かせるアノ瞬間である。
 「言わずもがな」と、なんとも断定的な物言いをしたが、対岸到達者(専門用語で対岸の石の声を聞くという意味で“リスナー”という)であれば必ずと言っていいほど、あの抑しがたい高揚に我が身も忘れ、震え上がり、そうして思わず川に飛び込むものである。太宰治の心中にはこうした背景があったらしい。

 当然、私はそれで川に飛び込んだことなどないが、少なくとも自ら投げた石が、これまで見たことないほどの回転力でもって水の粘性をふりきり、夏の川面を飛翔し初めて対岸の小岩を叩いたあの瞬間の音色を、今も耳に心地よく記憶している。

 そこで私は言った。「川が足りんな」と。
 人生最高の瞬間だった。

 ここで私の人生のわびしさを感じた読者諸賢へ断っておくと、水切りを極めているような男の人生にこれ以上の幸福などあってはならない。
 二十歳を越えて、水切りをしているような馬鹿の人生が、これ以上華やかであっていいはずがない。
 もし川に行って、水切りをしている大人を見かけたら、まずすべきことは軽蔑である。そうした大人たちを前に根拠のない腹立たしさを覚え、その人の頭めがけて石を投げつけ負傷させても、現行の法律では罰せられることはない。
 
 閑話休題。地元の川で「川が足りんな」と言ってみると、確かに気分は良かった。
 しかし同時に己の世界の狭さへの落胆も禁じ得なかった。
 私は一体、こんなところで何をしているんだ、と。
「河原で水切りなんかしてる自分……馬鹿じゃねえの?」と思ったわけでは当然ない。そうした軽蔑は、水キラーではない読者の皆様の役回りである。改めて言うが、初めてリスナーとなった当時の私を襲ったのは「なんて小さな世界で自分は生きているのだ」という自己嫌悪であった。
 私はその場でうずくまり、手近にあった石で、何度も何度も頭を殴り、目の前に流れていた清水は瞬く間に真夏の夕日から漏れ出たような鮮血に染まり……ということはないが、それほどに自分の卑しさに頭を殴られたような気分であった。
 私は思ったのだ。「もっと大きい川で水切りしないと」

 今年25歳になる大学院生の私は僥倖にも2024年5月以降の4ヶ月間、カンボジアでインターンシップをする機会を得た。
 具体的な日取りは未定だが、重要なのは、カンボジアにはメコン川という大きな川が流れているということだ。

 地元の川を制覇した私は、いつしかメコンに夢を抱いた。
 メコン川で、ひとこと、どうしてもあの言葉を言いたい。
 それだけを夢見て、私はきょうも生きている。

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