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【目印を見つけるノート】449. おかえりなさい

6月25日(金)
友引(甲辰)月齢14.7 満月
きのうのことを書いています📚

5時起床。
仕事は普通に終わりました。普通がいちばんですね。
20日にできた原稿の登場人物ゆかりの場所に週末行こうと思っているのですが、天候はどうでしょう。
面白いのは、原稿の応募が終わったとたんに自費出版の広告がスマホにポンポン出てくるようになったことです。どれがターゲットソースになったのかと当て推量しています。Too Muchな感じはしますね。

⚫沖縄のこと

さて、前にもどこかに書いた気がするのですが、見つけられませんでしたので、また書きます。noteでは初だと思うのですが、どうかなあ。書いていたらすみません。

1995年の今頃に取材で沖縄に行きました。戦後50年の節目ということで、たくさんの人が沖縄にいました。このときの首相は村山富市さんでしたね。いらっしゃっていました。
私が行った場所は、中部から南部にかけてです。チビチリガマ、アブチラガマ、嘉手納基地の外周り(16.5kmありました)、ひめゆり資料館、できたばかりの平和の礎(いしじ)、座喜味城なども訪問しました。移動はすべて車かバスでしたが、道路はひどく混雑していました。予定は押しまくりです。たくさん人が来ていたので自然なことですね。

このときのレポートは筑紫哲也さん(ジャーナリスト)がキャスターをつとめていた『ニュース23』で詳細にされていましたが、もうそこからもだいぶ時間が経ちました。

簡単に事実のみ書いておきます。

太平洋戦争の末期、1945年の3月、アメリカを中心とする連合国は日本への攻撃を強めていました。すでに本格的な空襲は日本全国で行われていましたが、この月に慶良間諸島に上陸するのです。一帯には日本軍が配されていますので応戦しますが、4月には沖縄に上陸し、『鉄の暴風』に例えられた2ヶ月の地上戦がはじまります。
沖縄は蹂躙されました。
日本で地上戦が行われたのは、このときの沖縄だけです。
市民の犠牲は甚大でした。
戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人とされています。双方の軍の人にも犠牲者は出ましたが、市民の犠牲はそれを上回ります。
その後沖縄は連合国(アメリカ)の占領下におかれ、1972年まではパスポートがなければ日本の各地から行けない場所でした。

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1995年に沖縄に行ったときの話に戻ります。

ホテルの朝食バイキング会場、車椅子に乗ったご高齢のアメリカ人の男性がいらっしゃいました。私はすぐに、どのような方か分かりました。前の晩のニュースで、「戦後50年の節目に沖縄戦で連合国軍として参戦した退役軍人の一行が到着した」という報を見ていたからです。

何ともいえないのですが、私は話しかけてみました。英語は拙いのでどうにもこうにも(苦笑)。
「いついらっしゃったのですか(英語)」などとお伺いして、はたと止まりました。沖縄戦にいたのですかとは、日本語でも英語でもいきなり聞けるものではありません。そして、「以前ここに来られたのですか」(それも結局同じことなのですけれど)と言おうとしましたが、言い淀みまくって、「Once」と「Past」、単語を2つ言ってまた止まってしまいました。するとその方は合点が行ったようでした。
「Yes, I'm a veteran」
単語の意味は知りませんでしたが、はっきり通じました。そして、私はさらにくるくる(アプリの停止状態)になりました。
英語がしゃべれないというより、「自分にいったい何がいえるというのだろう」という気持ちです。

ただ、言葉は自然と出てきました。
「Welcome Back」と。
「おかえりなさい」ですね。

その方と私はうなずき合って、会話らしくない会話を終えたのでした。
そして、この会話は私の中に長く残っています。おかえりなさい、のひとことに、それまで私の見てきたことのすべてが込められていました。おそらく、相手の方にもそれは通じたのだと思います。

沖縄に行ったときのひとつの記憶を書いてみました。

⚫今日の1曲

さて、その頃の曲ですね。
THE BOOM『島唄』

この曲の中で、「でいご」の花は強い意味を持っています。聴いていただければ分かると思いますが、でいごが咲き乱れると嵐が来るという言い伝えがあって、それを戦争の襲来に重ねているのです。
あのときの私には、とにかくキョウチクトウが強く印象に残りました。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

追伸 いってらっしゃい😊

























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