会話の質と出会いの質
仏教のお話ではじまるテーマですが仏教についてのお話ではありません笑
嘆異抄(たんにしょう)って知ってますか?
鎌倉時代の親鸞(しんらん)って人のお弟子さんが書いたと言われてる本で、
めちゃくちゃはしょっていうと
「お師匠様の教えってこうでしたよね」
っていうことを前半はストーリー仕立てで説明してくって本なんだけど
その中で、親鸞さんが関東で仏教を教えていた時のお弟子さん達が、京都へ戻っていた親鸞さんの教えを聞きたくてはるばる京都へ出向いて来たってストーリーがあるんだよね
結局、親鸞さんは「仏教についてわたしから教えることは特にない」って言い放っちゃうんだけど笑
で、この部分をいろいろイメージしてみるといろいろ浮かんできて、今回はその辺をお話ししてくね
嘆異抄ではこの部分で
「おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、、、」
【そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から命をかけて、この親鸞を訪ねられたお気持は、、、】
ってくだりで始まるんだけど、
【十余ヶ国の境を越えて】【身命を顧みずして】ってワードがあって、今の価値観から考えたら大袈裟じゃない?って思っちゃう人もいるよね
でも当時のことを想像してみると、当時はまだ日本は一つの国として統一されていなくて、それぞれが豪族によって支配されていて、道もきっと整備されていなかっただろうし、盗賊、山賊の類もたくさんいたと思うんだ、
それに、教えを聞きに行こうとしていた人たちはきっと田畑仕事とかそれぞれの仕事を持っていたと思うんだよね
当時はもちろん機械化もされてないから、植えるのから、収穫するのまで全て人の手、こんな時代で男手が一人欠けるなんて大変なことだと思うんだ
それを放り出してまで、親鸞さんに会うために京都へ向かった人達はどんな気持ちだったのかなって考えてみたんだ
・わざわざ、京都へ行くのだ。浅い考えでの質問なんてできない
・道中、強盗や辻斬りに遭わないだろうか
・はるばる来た私達をみてどう思うだろう
・置いてきた家族は元気にしているだろうか
・そもそも親鸞聖人に会えるだろうか
あるいは、、、、
おそらく徒歩で向かったら関東から京都まで当時は1〜2ヶ月は掛かっていたはず
いろいろな思いを巡らすには十分すぎる時間だよね
何度も聞きたいことを練り直して
話す時のことも想像していたと思う
もはやこれってもう、道中親鸞さんと会話すらしていたと思うんだよね
時は下って現代
去年、始発の新幹線に乗って東京から京都へ行く機会があったんだけど、大体3時間くらいで着いちゃうんだね
朝だから、眠いし、寝てても時間が経てば京都へ着いちゃう
もし、この感覚で僕が親鸞さんに会ってたら当時の人と比べて自分の質問の質ってどうなのかなって考えちゃうよね
「あ、おはようございます!今日朝ごはん何食べました?」
今の世の中、ちゃんと待ち合わせの時間を決めてなくても、SNSや携帯電話を使えばちゃんと待ち合わせられる時代
会わなくても、オンラインで会話ができる時代
人との交流が手軽になってきているけど、それに見合う会話の質がそこにあるのかな?
会話の質は出会いの質
待ち合わせ場所までの移動中、あるいは通話を繋ぐちょっと前
会う人、会話をする人と一緒にどういう会話を作り上げようかなって考えてみるのもいいと思うんだ
願いや思いを自分の中で創り出し
声という波に乗せてこの世界に生み出す
その瞬間に、あなたの願いはこの世界で形作られていくものじゃないかな。
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