暗黒報道③ 第一章
軍事国家を目指す権力VS天才女性記者の知略戦
■ホテルは修羅場と化していた
ホテルエンパイヤー大阪は修羅場と化していた。
ホテル周辺の路上には警察、消防、マスコミの車が列をつくり、テレビ局の中継車が近くの空き地に陣取っていた。大神らを乗せた2台のタクシーは渋滞でホテルから100メートルほどのところで全く動かなくなった。5人はタクシーから降りて走ってホテルに向かった。道の横を流れる堂島川は水面に夕日が反射して漂い、幻想的な風景に包まれていた。残暑は厳しく、大神の額から汗が噴き出した。
ホテル正面玄関から中に入ると、ロビーのあちこちに非常線が張られていた。吉嵜とカメラマンは手持ちの小型カメラで撮影を始め、伊藤楓はネットにアップするために、混乱しているホテルの現状を原稿にし始めていた。大神と橋詰は3人と別れて、現場の宴会場に行こうとしたが、通行止めの看板やロープに遮られて入れなくなっていた。
すると、「オオガミー」と呼ぶ声が遠くから聞こえた。大神が横浜総局で勤務していた時の2年先輩の記者だった。横浜から大阪社会部に異動し、遊軍記者をしている。
「こっちだ、こっち」。先輩記者の後について、いったん外に出た後、非常階段を7階まで駆け上がった。毒物混入事件が起きた5階の2階上のフロアは、比較的小さな宴会場や会議室が並んでいた。新聞社やテレビ局の報道機関がすべて借り切って、占拠した状態になっていた。
その一番端の部屋のドアに、「朝夕デジタル新聞社」と雑な字で書かれた紙が貼られていた。前線本部だ。ドアを開けて中に入っていくと、記者がぎゅうぎゅう詰めになっていて、あちこちで怒声が飛び交っていた。
案内してくれた先輩記者が、大神と橋詰を大阪社会部の筆頭デスクに紹介した。
「ごくろうさん。人手がいくらあっても足りない状況なので助かる。それより、残念な知らせだ。うちの堂本社長もいまさっき亡くなった」。いかつい顔のデスクがいかにも残念そうに言った。
「テレビの速報で見ました。悔しくて言葉になりません」
「オールマスコミ報道協議会で設立の趣旨を謳いあげた直後だっただけに、社長本人が一番悔しかっただろう」
「料理に毒物が混入されていたということですが、一体何を食べたのですか」。大神が気になったことを聞いた。
「このホテル特製のビーフシチューだ」
「毒物が混入されたというのは間違いないのですか」
「そのようだ。府警の鑑識がビーフシチューから検出した」
「毒物の種類は?」
「発表されていない」
「いつ毒物が混入されたのですかね」
「わからん。だが、ホテルの宴会場にビーフシチューの鍋が運ばれてからでは大勢の人の目があるので難しいだろう。運ばれる前、つまり調理場で混入された可能性が高いように思う」
「そうなると、混入した人物は絞られてきますね」
その時、部屋に入って来た記者が大声を張り上げた。
「連絡です。間もなく大阪府警捜査一課長による初めての会見が始まります」
7階で一番大きい宴会場の1つが臨時の会見場になっていた。記者側の要望にホテル側が便宜をはかり、警察や消防、ホテル側による会見が断続的に開かれていた。
大阪府警の捜査一課長がマイクをとった。
「亡くなった方の体内からヒ素が検出されました。何者かがビーフシチューの鍋に混入したと考えられます。現在亡くなられた方は13人、重症者は15人です。福島署に捜査本部を設置しました」。死傷者の数が一気に増えた。記者がパソコンに速報を打ち込む音が響く。
「死者の数が増える可能性はあるのですか」。不謹慎な質問が飛んだ。
「わかりません。医師の先生方が懸命に治療にあたっています。これ以上、増えて欲しくない。助かってほしいというのが率直な気持ちです」
その後、亡くなった人の名前が1人ずつ読み上げられた。テレビ局、新聞社の社長も含まれていた。
捜査一課長の説明によると、会場にビーフシチューの鍋が運ばれたのは午後0時半。立食形式のパーティが開宴する30分前だった。司会者が開始を宣言してから20分は会長や来賓の挨拶、表彰が続き、日本記者クラブ会長の音頭で出席者全員が乾杯した。
丸テーブルを囲んで懇談が始まり、会場の横に出店形式で並んだ寿司、ローストビーフ、茶そばなどのコーナーにすぐに人の列ができた。ホテル名物の特製ビーフシチューを求める人たちも多かったという。
料理を皿に取った人たちは、自席の丸テーブルに戻り、立ったまま食事をする。乾杯が終わって10分後ぐらいに、大柄な男性が悲鳴をあげ、そのまま倒れた。「大丈夫か」「救急車を」という声が飛んだ。その後、あちこちで同様に倒れ込む参加者が相次いだ。捜査の結果、倒れた人たちは全員がビーフシチューを口にしていたという。
記者からの質問が相次いだ。
「容疑者は浮上しているのか」
「犯行予告とか犯行声明は出ているのか」
「不審人物が目撃されていないか」
「食中毒という第一報で、初動捜査が遅れたということはないか」
会見の模様は、テレビのニュース番組で生中継されていた。全国ネットでもあり、捜査一課長は緊張した表情でマイクを握り直した。
「犯行予告や犯行声明は現時点で把握しておりません。現在、ホテル関係者やパーティの参加者から事件当時の状況を聴いているところでありますが、不審人物についての有力な情報は今のところあがってきていません。集団食中毒という一報でしたが、症状を訴える人の数が多く、最初から警察も駆け付けており、初動捜査に遅れがあったということはありません」
幹事社が改めて聞いた。「答えていただいていないので繰り返しますが、容疑者は浮上しているのでしょうか。すでに身柄を押さえているということはありませんか」
「捜査の具体的な内容についてはコメントできません。最初の会見なので1点だけはっきりしておきます。現時点で、容疑者の身柄を押さえているということはありません。本日発生した事件で、捜査本部を設置したばかりです」
捜査一課長はいらついた表情を見せながら、語気を強めた。
「容疑者は浮上しているのか」などという陳腐な質問は通常、会見ではしない。捜査一課長が「はい浮上しました。今、行方を追っています」などと言うはずがないからだ。幹事社がテレビ局で事件を担当したことのない新米キャップだったことで飛び出した質問だった。
会見は終わった。
「容疑者浮上について、捜査一課長が強い口調で否定しましたね。テレビ局のキャップが質問してくれたおかげで感触がとれました。仮にめぼしい人物がいても認めないとは思いますが、『早期解決はない』というニュアンスが伝わってきましたね」。大神が横に立って聞いていた横浜総局時代の先輩に言った。
見るからに怪しげで挙動不審な人物が現場付近をうろついていて職務質問の末に逮捕されることがある。通り魔殺人事件などで時々あるケースだが、今回は違うようだった。
「逆に周到に計画された犯行だったら、解決まで相当時間がかかるかもしれない」。先輩がつぶやいた。
報道陣の数は時間がたつにつれて膨れ上がっていった。ターゲットにされたのが「オールマスコミ報道協議会」だったことで、記者の取材にも一段と力が入っているようだ。テレビのニュース番組やワイドショーでも特番が組まれ、世間の関心も高まった。言論機関を狙ったテロなのか、全く別の動機があるのか。捜査が進んでいない中でも、事件があると現れる評論家は勝手な推論を展開して視聴者の関心を集めた。
各社のホテルでの取材は熾烈を極めた。ホテルの従業員やパーティの出席者から話を聞いていく。当日の宿泊客で割り出せた人には順番にあたっていった。
大神は橋詰記者と交代で、ホテル側が用意した会議室に詰めた。ホテルの広報担当役員が記者からの質問を受けてはホテルとしての回答を作成してその場で説明した。大半は全社共通の項目についての説明だった。たまに、デスクから「他社のいないところであててくれ」という指示がくることがある。
今日も、「白い帽子をかぶった不審な男が現場から逃げ出すのをホテルの客が見たという情報をうちの記者が聞き込みでつかんだ。ホテル側もこの情報を把握しているかどうかを確認してくれ」といった指示がデスクから来た。大神は担当役員に個別取材を申し込み、時間を決めて、別の会議室に移って説明を求めた。「ホテルとしては白い帽子の男については把握していない。事件の本筋とは関係ないのではないか」といった回答だったが、大神はそのまま、デスクに伝えた。他社も同じように単独取材もしている様子だった。
大神と橋詰に与えられた最大のミッションは、ホテルが管理しているパーティ当日の「防犯カメラ」の映像の入手だった。警察はすでにすべての「防犯カメラ」のデータを押収していた。さらに、パーティ会場内部の映像についても、閲覧禁止にするようホテル側に要請し、コピーも厳禁にした。マスコミ関係者ばかりか、ホテルの幹部さえも見ることができなくなっていた。
大神と橋詰は、あの手この手で試みたが、映像を見ることはできなかった。
「この会議室に交代で詰めていてもなんにも入ってきませんね。こんな仕事は大阪の地元記者がやるべきでしょう。我々のような優秀な記者がやることじゃない。時々部屋から出て行ってもいいですよね」と交代で来た橋詰は愚痴を言った。
「橋詰君が優秀なのはわかるけどね、記者の数が足りないのだから仕方がないでしょ。担当役員のレクチャーで時々、ニュースになる内容もあるし、他社の動きもつかめるので、ここから離れるわけにはいかないよ。有力情報がもたらされた時にうちの社だけここにいなかったら『特オチ』になるじゃない」と大神が諭す。
「ホテルの宴会は数か月先まですべてキャンセル。事件がホテルの経営に響いているという記事がでているけど、経営の邪魔しているのはわれわれ報道機関じゃないですか。いったん撤収すべきじゃないですかね」
「理想論としてはそうだけど。とにかくヒ素を混入した犯人が捕まらなければ、ここで宴会とかする気にならない利用者の気持ちはわかる。犯人がどこに隠れているのかわからないんだから」
「その犯人捜しは警察に任せるべきです。今は報道機関が犯人を捜し出そうとしているかのような勢いで過熱しているのはおかしいですよ」。橋詰は社会部員でありながら事件取材は嫌いであり苦手だった。
「うん、うん、君の言うことはよくわかる。正論だね。私じゃなくて編集局長か社会部長に言ってくれる」
2人は夜になると、別々にホテルの幹部の自宅へ取材に行った。「夜回り」だ。大神が入社した当時は、夜回りには事件担当記者だけでなく遊軍記者でもタクシーを利用していたが、新聞業界の経営が厳しくなったこともあり、電車やバスを乗り継いで向かう。時間はかかるし、ようやく目的の家にたどり着いても、ほとんど、インターフォンで拒否されるか、家族が出て来ても、「泊まり込みで仕事をしているので帰宅していない」と言われる。たまに本人に会えても、「なにも話さないように通達が来ている」「警察からも言わないように念を押されている」「少しでも記者に話したことがばれたら、即ホテルをクビになる」と言われては、追い返された。
ヒ素を混入した人物についての有力な情報はホテルでの取材では何1つ得られなかったが、事件は思わぬところで新たな展開を見せ始めた。
(次回は、内紛 東京社会部VS大阪社会部)