HACSで考えるコンヴィヴィアルなデザイン
『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を書いたことがきっかけとなって、技術哲学に関わる方々と議論する機会ができたのだが、その中で基礎情報学のHACSと呼ばれる概念モデルに出会った。とても興味深く、ビジネスやデザインなど幅広い分野で「使える」考え方だと思っていて、最近、講演や取材やインタビューなど、ことあるごとに紹介しようと試みているのだが、これがなかなかうまく伝わらず、毎回もどかしく感じている。
そこで今回は、できるだけ専門用語を使わず、自分なりに『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の観点からHACSの何がそんなに面白いと思っているのか、「推しポイント」について書いてみたい。
どう「使える」のか?
まずそもそも、何の話をしようとしているのか。すでにそこから難しいのだが、ここではまず「社会と個人の関係を考える上で役にたつ考え方」である、としておく。(ここでいう「社会」とは、「家族」「学校」「会社」「国家」のような共同体、「法」「経済」「学問」といったルールやシステム、言ってしまえば「人と人が共に生きるときにおのずから生まれるものすべて」というくらいの広い意味で使っている。)
もっと言うと、「社会と個人のコンヴィヴィアルな関係を考える上で役にたつ考え方」なのである。
(ここで、コンヴィヴィアルとは?となった方にはぜひ拙著をお読みいただきたいのだが、要するに言いたいことは、コンヴィヴィアルとは「共に生きる」ことであり、テクノロジーは、これからもわたしたちが「共に生きる」ために、人間を依存させたり思考停止させたりせず、独占や格差を生まない、行き過ぎない「ちょうどいい道具」であるべきだ、ということである。)
さて、ではどうしたら「ちょうどいい道具」はつくれるのか?コンヴィヴィアルなデザインのための方法論は?コンヴィヴィアルかどうかをはかる「ものさし」はあるのか?
実はこうした問いに本の中で明確に答えられていない(のでよくそういう質問をされる)。一応、「第6章 コンヴィヴィアル・テクノロジーへ」で、自分なりの回答として、「ちょうどいい道具」のための6つの問い、使えるだけでなく「つくれる道具」、人間を依存させない「手放せる道具」、「自律と他律のバランス」、といったいくつかの手がかりを示しはしたものの、自分の中でもまだ手探りの状態だったのだ。
その後も日々何かをつくる仕事に関わりながら、自分が書いたこと、つまり「コンヴィヴィアルなデザイン」を実践しようと模索しているのだが、そんな中でこのHACSは大事なヒントになりそうな気がしているのである。
どうだろう、少し興味を持っていただけただろうか。
HACSとは?
さて、HACSとは何か。HACSとは「階層的自律コミュニケーション・システム」の略である。…もうこの時点で難しい。最近よく議論させていただくIAMASの小林茂さんが公開されている『テクノロジーの<解釈学>』の草稿でもHACSが紹介されているので、その説明も引用してみる。
やっぱり難しい。難しいが、自分なりに大事なところを言い換えると、「下位システム=個人」、「上位システム=社会」が階層構造をもつことで「コミュニケーション」が成り立つ、と言っている(と思う)。
ふたたび小林茂さんの図を引用すると下のような構造になる。「上位システム」が自律的にぐるぐる回っていて、その下にいくつかの「下位システム」が自律的にぐるぐる回っていて、「上位システム」と「下位システム」が「メディア」を介して繋がっている。
それで?と思うかもしれない。「人があつまって社会ができる」と言っているだけにも聞こえる。それはそうなのだが、これがとても面白いと思った理由は、このモデルで「あらゆるコミュニケーション、社会と個人の関係が説明できる(かもしれない)」というところである。
人と人は直接コミュニケーションしない
さて、ここからHACSの「推しポイント」を説明してみたい。まず、上の図で気づくのは、下位システム同士の間には矢印がないことである。
HACSによれば、「個人と個人の間の直接のコミュニケーションは成立しない」のである。いやいや、それは直感に反すると思うかもしれない。でもこれこそがHACSの推しポイントその1なのである。
さきほど「下位システム=個人」と書いたが、HACS的に正しい言い方は「下位システム=心的システム」である。つまり「心」は外から覗けないので、「心」と「心」の間で直接のコミュニケーションはできないということになる。直接コミュニケーションしているようでも、実は「共通の言語」とか「同じ家族」といった、必ずなんらかの共通の「上位システム」を介して人はコミュニケーションしているというのである。
デザインの観点で、これのどこが面白いのか。例えば「人と人の関係をデザインする」といったテーマを考えてみよう。人と人を直接矢印で繋げた関係として捉えると、どう手をつけていいかわからない感じがしないだろうか。そうではなく、HACS的に、人と人とが何らかの「上位システム」を介して繋がっていると捉えると、そのときの「上位システム」は何で、人はその「上位システム」とどう関わるのかを考えることができ、デザインすべき対象が見えてくるような気がするのだ。
自律と他律のバランス
HACSの推しポイントその2は、「自律と他律のバランス」が説明できるところである。これはどういうことか。
まず、HACSにおいて、「システム=自律システム」である。そして、ここでいう「自律」とは「意味や価値を他から与えられていない」と言い換えることができる。
その意味で、まず生命(である人間)は根源的に生きる意味や価値を他から与えられて生きているわけではなく、みずから生きることでおのずから意味や価値が生まれる「自律システム」である。(※1)
ただ、そんな根源的な「自律システム」である人間も、一方では例えば「法」や「経済」や「家族」といった、いろいろな「上位システム」(にによって与えられた意味や価値)に従って他律的にふるまっているようにも見える。
これが「自律と他律の両義性」である。これをHACSは「観察記述の視点移動によって説明する」のである。(上の図の左側の部分。)
まず「上位システム」の視点から見てみると、「下位システム」は「上位システム」に従って他律的にふるまっているだけに見える。具体的に考えてみよう。例えば「交通」という上位システムから見ると、人間も無人の自動運転車もどちらも「交通ルールに従う(もしくは従わない)」存在である。ただ、視点移動によって、これを「下位システム」の視点から見ると、移動の意味や価値を他から与えられている自動運転車と、そうではない本当の意味で自ら移動している人間は全く違う存在だということになる。
「人間も与えられた交通ルールを疑わないのがふつうじゃないの?」という疑問が浮かぶかもしれない。日常生活においてはその通りだろう。しかしまさにここに「上位システム」と「下位システム」のコンヴィヴィアルな関係を紐解く鍵がある。
もし「交通ルール」が絶対に変えられないシステムだとしたら、確かに人間もそれに従う(もしくは従わない)だけの存在である。しかし、その「交通ルール」も実は元をたどれば「人と人が共に移動しようとしておのずから生まれたもの」、つまり人が自律的に移動しようとふるまう中で、(人が死なないとかスムーズに移動できるといった)意味や価値がおのずからが生まれてきた「自律システム」なのである。
本来「上位システム=社会」は「下位システム=人」によっておのずから生まれ、つくり変えられる。でも「法」や「資本主義経済」のように「上位システム」が強固になるほど、それが変えられない従うしかないものだと錯覚してしまう。ただ従っているのはラクなのだ。
そうではなく、この「上位システム」と「下位システム」の間に「自律と他律の両義性」があることこそが、コンヴィヴィアルなバランスと言えるのではないだろうか。
自律システムには価値観がおのずから生まれる
HACSの推しポイントその3は「それぞれの自律システムにはそれぞれの価値観がおのずから生まれる」というところである。
これも具体的に考えたほうがわかりやすいだろう。
例えば、「法」というシステムには合法か違法かという価値観が生まれ、「科学」というシステムには真か偽かという価値観が生まれ、「経済」というシステムには得か損かという価値観が生まれる、といった具合である。それぞれの自律システムにはこうした価値観、すなわち価値判断ができるものさしが、(他から与えられるのではなく)おのずから生まれるのである。
「下位システム=人」にも、おのずから生まれる価値観がある。生命としての人間の根源的な価値観は突き詰めれば「生きられるか」ということになるだろう。しかし、人間にとっての生きることの意味や価値は生命が維持されているか否かだけでなく(ウェルビーイングという概念が示すように)もう少し多層的で、まさにそれぞれの価値観がそれぞれが自律的に生きていく中でおのずから生まれてくると言える。
逆に言えば、おのずから価値判断ができるものさしがなければ「自律システム」とは言えない、と言うこともできるだろう。
テクノロジーは自律システムではない
HACSの推しポイントその4は「テクノロジーは自律システムではない」というところである。これも、そうなの?と思うポイントである。
前述したように、HACSにおけるシステムとは、他から意味や価値を与えられていない「自律システム」のことである。それはつまり、AIやロボットが、いくらまるで人間のように振る舞っても、突き詰めると人間から意味や価値を与えられている限り「自律システム」ではないということを意味する。
ということは、上の図でいえば、AIやロボットを、人間と並列の「下位システム」の一つとは見なすことはできないということになる。そうではなく、テクノロジーはあくまで「下位システム」と「上位システム」を媒介する「メディア」であると考えるのだ。(※2)
(この部分については、拙著の副題を「人間とテクノロジーが共に生きる社会へ」としたように、どちらかと言えば、これまではAIのようなテクノロジーが他者のような存在になりうる(HACSでいえば「下位システム」になりうる)と考えていたところもあったが、そこはHACSを知って考えが変わったと言える部分である。もちろん、相手が人間かAIか見分けがつかないような状況は起こりうる(というかすでに起こっている)が、デザインする立場としては、あくまでテクノロジーはメディアであり道具でありインターフェイスである、と考えるべきだと今は考えている。)
コンヴィヴィアルなデザインに向けて
ここまでのポイントを踏まえて、コンヴィヴィアルなデザインに向けて、次のような問いを立てることができるのではないだろうか。
そのテクノロジーによって「下位システム」がつながる先の「上位システム」とはなんだろうか?
その「上位システム」でおのずから生まれる価値観とはどんなものか?
そのテクノロジーは、その「上位システム」が「下位システム」によっておのずから生まれ、つくり変えられるように機能しているか?
もう少し言い換えてみよう。
そのプロダクトやサービスによって「人」がつながる先の「社会」とはなんだろうか?
その「社会」でおのずから生まれる価値観とはどんなものか?
そのプロダクトやサービスは、その「社会」が「人」によっておのずから生まれ、つくり変えられるようにデザインされているか?
繰り返すが、ここでいう「社会」とは「人と人が共に生きるときにおのずから生まれるものすべて」である。
コンヴィヴィアルなデザインはいかにして可能か、少し道筋が見えてきたように感じるのは気のせいだろうか。
おわりに
この内容は、技術哲学研究会での原島大輔さんらとの議論をふまえて、HACSと拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』との接続を試みた試論であり、できるだけ難しい用語を使わずに伝えようと努力したが、わたし自身は基礎情報学やHACSの専門家ではなく、不正確な表現や独自の解釈をしてしまっている可能性があるのでその点には注意されたい。特に、これはあくまで人間社会をHACSモデルで考えた話で、基礎情報学やHACSは(まだまだ理解が追いつかないが)もっと射程の広い概念であるようだし、関連領域においてはいろいろな異論反論もあるのかもしれない。
また、今回は取り上げなかったが「人間と自然」の関係をHACSでどう扱うことができるのかも課題として残されていると思う。HACSでは多様な「下位システム」と多様な「上位システム」が存在しうるが、地球というプラネタリーシステムは一つであり、いまや何をするにもプラネタリーシステムとの関係を無視できなくなっていることが、プロダクトやサービスをデザインすることをより複雑に難しくしているようにも思う。
ちなみに、実は今年に入ってもう少し気軽に日々の文章を書き綴ろうと、あえてnoteではなく個人ブログを始めたのだが、最近いろんな場面でHACSのことを伝えようとしてなかなかうまく伝えられないので、久しぶりに気合いを入れてnoteを書いてみた。(それにしても専門用語は難しすぎるし、正直「上位システム」「下位システム」という言い方ももっといい言葉があるような気もする、、)
とにかく、わたし自身も日々模索中の「コンヴィヴィアルなデザインの実践」に向けて、忌憚のないコメントやフィードバックをいただければ幸いである。(できればHACS自体のアカデミックな議論というより、この視点を日々の仕事や活動にどう「使える」か、を議論したいと思う。)
(※1)基礎情報学やHACSのベースには、ウィーナーにはじまる「サイバネティクス」やルーマンの「社会システム理論」などがあり、この「自律」の定義は、生物哲学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによるオートポイエーシス理論が背景にあり、「自律システム」は、より正確には「オートポイエティック・システム(APS)」と呼ばれるようである。
(※2)HACSにおいて、人間だけで構成されるシステムではなく、AIのような人間—機械複合系をどう扱うについては複数のアプローチが提唱されており、機械を擬似的な情報的閉鎖系や下位HACSとみなす「エージェント・ アプローチ」、機械を情報的閉鎖系や上位HACSとカップリングした暫定的閉鎖系とみなす「ハイブリッド・アプローチ」などもあるが、ここでは原島大輔さんが提唱する「メディア・アプローチ」に基づいている。このあたりは「アクターネットワーク理論(ANT)」などと考え方が異なる部分と思われる(があまり深入りしないでおく)。