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いいデザインとは?

一昨日、開催中の世界デザイン会議の関連イベント「人新世のデザイン  Exhibition&Talk」で、デザイン評論家/編集者の藤崎圭一郎さん、デザインジャーナリストの土田貴宏さんと議論した。この企画は連続トークイベントで、わたし以外のセッションもとても有意義な議論があり、いろいろ考えさせられたので(今後自分の考えも変わるかもしれないが)記憶が鮮明なうちに振り返っておきたいと思う。

オルタナティブなものさし

わたしの登壇したセッションでは、はじめに藤崎さんから、最近取材されたという環境DNATNFDについての話題提供があり、ちょうどその日の昼間にTakramの社内勉強会でB Corpの話をしていたこともあって、指標や評価のものさしをつくる話になった。

資本主義市場経済の中で、あらゆる物事がお金という巨大で強力な単一のものさしだけで測られていいんだろうか?という問いは、いまや多くの人が持っている問いなのではないかと思う。

では、それに対するオルタナティブなものさしはありえるのだろうか。いや、そもそも多様性の時代に定量的なものさしで測ること、同じ一つの価値基準で評価すること自体が間違っているのではないか。環境DNAのようなテクノロジーが可能にするものさしから、フレームワークにもとづく多角的な評価のものさしまで、多様なものさしが必要なのではないか。

とはいえ、みんながみんなそれぞれ違うものさしを持っているとなかなか分かり合えないしコミュニケーションがものすごく大変になる。宇野重規さん(と聞き手の若林恵さん)による『実験の民主主義』でも語られているが、「民主化」や「平等化」や「多様化」は、実は分かり合えなさによる孤立や孤独を生む方向へ向かうことでもあるのだ。

唯一絶対でもなく千差万別でもなく、その間のグラデーションの中で、例えば自分にとってのものさしを分かり合える仲間を見つけて少しずつ輪を広げていくことも、一方でグローバルで絶対的な資本主義のものさしに対抗しうる、もしくはそこからゆるやかに移行できるようなオルタナティブなものさしも、テクノロジーも使いながらその両方を模索することが必要なのではないだろうか。

わたしの登壇したトークセッションではそんな話をした。


いいデザインとは?

冒頭に述べたように、この企画は連続トークイベントで、わたしの後のセッションでは、藤崎さん、土田さんと、AXIS徳山弘基さん、PRINT AND BUILD浅子佳英さん、DESIGN AND PEOPLE吉田知哉さんという、それぞれデザイン誌に関わる方々によるデザインジャーナリズムをテーマにした議論があった。ちょうど今週大賞審査会が行われたグッドデザイン賞の話題から、デザインの評価や批評、デザイン誌の役割を巡ってかなり突っ込んだ議論になったのだが、特にグッドデザイン賞については自分もここ数年審査に関わった身としていろいろと考えさせられる議論だった。

言ってみれば、グッドデザイン賞は「いいデザイン」のものさしである。審査委員が参照する審査の視点としてのチュートリアルブックはあるものの、定量的なスコアをつけて評価をする訳ではなく、ユニット毎に審査委員が議論をしながら合否を審査し、各ユニットリーダーが集まりさらに議論を尽くしてBEST100などの特別賞を決めていく。

そうした審査を経たうえで、グッドデザイン大賞は、大賞候補5点から授賞式を兼ねた大賞審査会での投票で選ばれ、今年は「52間の縁側」というデイサービスセンターが受賞した。

プレゼンテーションで語られたのは「ケアを必要とする高齢者が生産性がないとされ社会から断絶された施設で過ごす現状は間違っている。」「ここはそうではなく、老若男女、地域の誰もが集える場になっていて、お互いに与え合う関係性がある。」「特徴的な長い縁側がそうした関係性を生んでいる。」といった内容で、デザインが生み出したアウトカムとして素晴らしいものだった。

ただ、そのアウトカムがどんなデザインから生まれたのか、ただ縁側を長くすればいいわけではないはずで、デザインの審査としてはそのあたりをもう少し聞きたかったし、(これは今年に限った話ではないが)感情に訴えるプレゼンテーションによる会場の盛り上がりが投票結果に影響してしまう部分も少なからずあるとも感じた。

このトークセッションでも、大賞選出プロセスについてこうした疑問を呈する意見が挙がっていて、共感する部分も多々あったのだが、一晩経って少し冷静になってみると、担当ユニットでの審査やユニットリーダーが集まる特別賞審査を経て大賞候補に選ばれている時点で、どれが選ばれてもそれはすでに大賞に値するデザインであるはずで、関連する記事いくつか読んでみると、そのデザインプロセスからさまざまなディテールまで、なるほど大賞に値すると納得させられるものがあった。(建築は専門分野ではないので、当然さまざまな意見はあるかもしれないが。)

そもそも、一つのものさしでは価値を測れない時代に、審査の過程では多様な視点やものさしで審査された末に、最後の最後で大賞を一つだけ選ぶ、ということ自体に無理があるのかもしれないが、もし改善できるところがあるとすれば、大賞候補に選出した理由を審査の視点からもう少し伝えられてもいいのかもしれないとは思った。

デザインコンピテンシー

そして昨夜の「人新世のデザイン 」では、グッドデザイン賞の審査委員長でもあり、世界デザイン会議にも参加されていた齋藤精一さんが登壇されていて、そこでの議論もたいへん示唆に富むものだった。

トークセッションのテーマは「変容する人新世の都市・テクノロジー・デザイン」ではありつつ、前日の議論の流れからグッドデザイン賞の話題にもなったが、共通するキーワードとして挙がっていたのは「コンピテンシー」という言葉だ。

コンピテンシーとは、「実行する能力/行動する能力」といった意味で、台湾のデジタル大臣オードリー・タンが、コロナ禍にあって必要なのは「リテラシー(読み書きする能力/理解する能力)ではなくコンピテンシーだ」と掲げ、シビックテックと連携していち早く(例えばマスクを買える場所が探せるなど)コロナ対策関連アプリを開発したことで注目されるようになった言葉である。

先がわからない時代には、決められたルールを理解して従うのではなく、わからない中でも、いやむしろわかないからこそ、誰もがコンピテンシーを発揮し、能力を出し合って「つくる」プロセスに関われるようなデザインが大事なのだ。

その視点にたつと、生活者にとって都市はあまりにも多くのことが与えられていて共につくる余白がないし、今年大賞に選ばれた「52間の縁側」はまさにそこに関わる人たちがコンピテンシーを発揮できるデザインになっていると。さらに言えば、グッドデザイン賞のプロセスに対して改善すべきところがあるのならそれこそコンピテンシーを発揮して一緒に議論し共につくって欲しいとも、齋藤さんは語っていた。

デザインの芯にあるもの

グッドデザイン賞についての一連の議論を聞きながら、自分が担当したユニットの審査はどうだったかと改めて振り返っていた。今年担当したのはシステム・サービスを扱うユニットで、審査の議論の中で、どうしてもまだリリースされていなかったり、始まったばかりのサービスやプロダクトは評価しにくかった。(ユニットは違うが大賞の投票で2位となった「神山まるごと高専」も、まだ出来たばかりで教育機関としての評価は未知数ではないかという議論があったようだ。)

BtoBからBtoCまで多岐に渡る業種業界のサービスやプロダクトを限られた時間で審査するためには、サービスデザインやUIデザインやプロダクトデザインの視点だけでなく、実際にユーザーに受け入れられているのかといった実績や、具体的な成果が上がっているのかといった点ももちろん考慮すべき情報の一つにはなるが、ややそこに比重を置きすぎてはいなかったか。

グッドデザイン賞の今年のテーマは「アウトカムがあるデザイン」だった。それがモノであれコトであれ、そのデザインが生むものに重きを置くというメッセージだ。ただ「進むべき北極星をアウトカムとして」とあるように、必ずしも既に目に見える「アウトカム=成果」があるものだけを評価するということではなかったが、少し「アウトカム」という言葉に引きづられるところはなかったか。

それこそ、わからないからわかるまで待って目に見えるアウトカムを評価するのならAIにも出来てしまうだろう。そうではなく、もしかしたら間違ってしまうかもしれないとしても、審査委員を託された自分の「審デザイン眼」を信じて、勇気と覚悟をもって、いまこの時点で目の前にあるデザインそのものにもっと目を凝らすことが必要なのかもしれない。


デザインの領域が広がっている、と言われるが、デザインが社会にもたらす影響や効果に目を奪われて、それを生み出すデザインそのものを見失ってしまっていないか。そこにもう一度目を向けないとグッドデザイン賞はもはや単なるグッド賞になってしまうのではないか。

音楽の評価や批評の芯に音楽そのものがあるように、アートの評価や批評の芯にアートそのものがあるように、デザインの評価や批評の芯にある「デザインそのもの」とは何だろうか。

有限のリソースの中で現実的な落としどころを考えると、いずれも簡単に答えが出る問いではないが、是非コンピテンシーを発揮して議論してみたいと思う。


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