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ゴールデンカムイ なぜ「よそ者のウィルクとその娘アシリパが北海道アイヌ文化を伝承しようとする」設定なのか?

ゴールデンカムイの中でアイヌの文化を伝承し守る役割を担う人物はアシリパです。しかし彼女は最初からその役割担っていたわけではありません。彼女の父ウィルク(ポーランド人と樺太アイヌの血をひく)が彼女(ポーランド人と樺太アイヌと北海道アイヌの血をひく)にその役割を直接的&間接的に割り振り、紆余曲折を経て物語後半で彼女はそれを引き受ける決意を固めました。元はといえばウィルクの意志なのです。北海道アイヌから見れば「よそ者」のウィルク。北海道アイヌ文化の守り手として娘にその役目を託す人物ウィルクが「よそ者」という属性で登場したのは何故なのでしょうか?北海道アイヌの中から立ち上がる人が出る、という設定でも良かったのではないでしょうか?

この事は恐らくさんざん議論されてきた事でしょうから、∞番煎じで申し訳ないのですが、今朝以下のツイートを見て、前から感じていたことが頭の中で形になったので記しておきたいと思います。



地域おこしで成功するのは「よそ者」

昔「地域おこしで成功するのはよそ者だ」と言った人がいました。確かに地域おこしの事例でうまくいっているのは元々その地に無縁な「よそ者」か、一度外に出て広く世の中を見てから戻ってきた「後天的よそ者」が中心になっているケースが大半です。その地域の人が「こんな田舎くさい当たり前のモノが都会の人に受けるかねぇ?」と首をかしげるようなモノこそが「よそ者」である都会の人から見ると独自性があってたまらなく魅力的だったりするからです。(地域の人がそれを歓迎するか否かは別として)

つまり、その地域を客観的に見て、その地域の文化がよその文化とどう違うのか?どこに魅力があるのか?さらにそれらがかけがえのない大切なものであると気づくのは「よそ者」である事が多いのです。というのも、その地域の人にとってそれは当たり前過ぎて、価値に気づくのが難しいからです。

文化を俯瞰的に記録するのも「よそ者」

記録については国内の者はその時代その場所で皆にとって当たり前の事は記述せず、内部の比較で差異を認める事や新しく起こった事を記述しがちです。それに対して外国など異文化圏から来た人は何もかもが珍しく、当たり前な物の方が少ないので、内部の人より客観的&俯瞰的に見て記録をとることができます。(逆に内部の人にしか見いだすことができない事物もたくさんあるのでお互いに補完する関係になります。)

こういった記録で良く知られたものとしては

魏志倭人伝、イエズス会宣教師による記録、ラフカディオ・ハーンによる怪談話の収集

などなど、いくらでも挙げることができます。賛否のあるものも含まれるでしょうが彼らが記さなければ知られることなく消えてしまったものも多かったでしょう。あと、もっと代表的なのがあると思いますが…この辺でスミマセン

ゴールデンカムイにまつわるものとしては、アイヌの貴重な資料が大英博物館に多数収蔵されていること、作中でシネマトグラフを使って日本(を含む世界中の地域の文化)を動画で記録していたのは外国(フランス)の会社だったことなどです。

(なお、「よそ者」が先進国から来る場合、既に文字が発明されていたり、記述のための語彙が多かったり、記録機材が充実していたり、民族や民俗に関する学問が早くから成立していたりする事が、内部の人より有利に働くことも多々あります)

現在では、地域や時代を切り取る研究手法が発達しておりそれを学んだり、自文化の外に出かけて行ったり、外の文物に触れたりするチャンスも昔に比べて大いに増えたので、文化内部の人でもより俯瞰的な視野から自文化をことができるようになっています。それでも全くの「よそ者」視点で当たり前とされているものが、実は当たり前なんかじゃないと捉えるのはなかなか難しいのではないかと思います。

「よそ者」ウィルクと「よそ者」目線を授けられたアシリパ

ウィルクは明晰頭脳かつ高い教育レベルで広い視野を持つ人物です。自分の育った集落は大国に飲み込まれ生活や文化はすりつぶされて消滅しました。その後、青年期に各地を放浪し見聞を広め、積極的に自らを教育してきた事が描かれています。そして放浪の末たどり着いたのが北海道でした。

そこで、まだ昔のままの姿をかろうじて保っている北海道アイヌを知り、リラッテと結ばれ、その一員になりました。かつての自分の故郷のようにこの北海道アイヌの文化もやがてすりつぶされ消えてゆくかもしれない事を察知したウィルク。娘であるアシリパには自分のように故郷や文化を失う者になって欲しくない、と願ったのではないでしょうか?

アシリパは父からアイヌの文化を教え込まれ、それと共に年齢なりの理解力に合わせてウィルクの持つ「よそ者」としての広い視野の一部を伝えられます。しかし作品初期の彼女はウィルクから授けられた想いや広い視野の具体的な内容を理解する事はできていませんでした。

その後、様々な出来事を経て、キロランケに導かれ樺太を旅し、様々な少数民族の暮らしや文化、そして消滅してしまったウィルクの故郷などを見て見聞を広めます。その旅を通じて父が自分に伝え残してくれたものを再発見し、キロランケや旅で出会った人々からも学び、民族の誇りに目覚めます。その旅の果てに暗号の鍵を見いだすという実にドラマチックな場面もありました。

(尾形百之助ファンとしての余談)
樺太旅行中、過去の思い出や未来、民族や文化のあり方についての想いを熱を込めて語り、心を通い合わせるキロランケとアシリパ。それに対して、注意深く見聞きするだけで過剰な興味を示さず、一切無駄口を叩かず虎視眈々と機会をうかがっている尾形の凍り付くような緊張感が対照的です。全く違う立場で旅に参加している事が鮮やかに描き分けられていることが印象に残ります。また、176話でアシリパが(パルチザンと関わることが)「本当にアイヌのためになるのか?」と民族の行く末に当事者として責任を感じている発言をしはじめた時、尾形が非常に複雑な表情を見せている事が指摘されています。(余談終わり)

文化の守り手に設定されたのがアシリパであって、キラウシやイポプテそして実はウィルクでもなかったわけ

キラウシやイポプテは北海道アイヌの集落で育ち、その文化の中にしっかりと浸った状態で育った人物です。彼らは生まれたときから北海道アイヌの生活や文化が身の回りに存在し、ごく当たり前のものだと思っています。したがって自文化の希少性を認識しづらい立場にあります。キラウシはその中にどっぷり浸って生活しており、イポプテは日本軍に加わって戦争に行ったりしてアイヌとしてのアイデンティティを疎ましく思い和人と同化しかかっています。彼らはアシリパ(ウィルクから「よそ者」の視点を受け継いだ者)と出会う事で自文化が

・希少かつ貴重
・既に変容が始まっている
・今にも消えそうになっている
・一度失われたら二度と取り戻す事ができない

ということをはじめて認識したわけです。

ウィルクからアシリパ、そしてアシリパからキラウシやイポプテへ、「よそ者」でなければ発見しづらい文化の価値と失われつつある現状、そしてそれを守りたいという情熱が伝わっていきます。作品の中ではその様子が、言葉や行動、目の輝きなどで描写されています。

気づく人の設定として「よそ者」が選ばれているのはとてもリアルですがそれが肯定的に描かれているのかというと実はそうではなく、ウィルクが加わったことでコミュニティーや文化は変容し、血で血を洗う惨劇に繋がりました。「よそ者」による抵抗運動は一旦失敗に終わったわけです。

気づくことが困難な完全なる中の人
気づくことは簡単だけど「よそ者」である事が障害になったウィルク

アシリパはその中間だからこそ成功の芽がある、と言えるのかもしれません。

お話作りの観点から

もちろん中の人が自文化の危機に気づいて立ち上がるという設定でも良かったと思いますが、それだと

北海道アイヌの人々vs.北海道アイヌ文化を消し去ろうとする人々

という単純な対立の図式になり、多くの他者が関わることにはなりません。

遠くから少数民族の人がやってきて気づくという設定にする事で、ほとんどの日本人が知らない極東北部のアイヌ文化圏というものを示すことができるし、日露戦争、ロシアの極東政策、などとの絡みで話が何倍にも広がっているように思います。また内部の人が自文化の価値や危機に気付きにくい、ということを提示することもできています。


その民族の「内部の者」には気づくことが困難な民族文化の価値が、似た立場の「よそ者」によって見いだされ、守りたいという情熱が「内部の者」に伝播していく。その過程で極めて多くの人々が巻き込まれ関わりながら物語が進んでいく。

このことがゴールデンカムイをより魅力的にしているように思います。


追記:話の展開上はこの形が良かっただろうと思いますが、中の人から見れば自文化の中から立ち上がる人が出て欲しいという気持ちはあるかもしれません。

外から来た人が手放しで文化を礼賛する事に抵抗を感じる人もいるでしょう。自分たちの文化を剽窃されるような気持ちになるとか、ズカズカ入り込んでかき回されたくないとか、外部の者が入った瞬間にその文化は変容してしまうとか。実際にウィルクが加わったことで変容し、争いが起こった訳で、野田先生もそういう「よそ者」が見いだす形で始まる抵抗運動を是としているわけではないんだな…と気付きました。

私は島国のマジョリティーで、島の真ん中に住む者で、国外に行ってもお客としてだし、言葉もあまり通じないし、たまに嫌な顔をされたにしても「言葉が拙いからかな?」という程度で悲哀をなめた経験はありません。着物をモチーフにしたファッションが「文化の剽窃だ」と言われても「え?別に好きにしてくれて良いけど…」と思うので、センシティブな話題に立ち入るべきじゃないのかもしれません。でもそういう風に考えて口をつぐむ姿勢をとると、考える事もなくなって、それをなかったことにしてしまいそうです。難しいなぁ…

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