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ジャズ・バーの夜

皆さんはジャズ・バーというものに行ったことがあるだろうか。レコードではなくライブステージのあるものだ。私は幸いにもあるジャズ・バーと巡り合い、素晴らしい体験をしたのでここに記す。

もとはといえば恋人が、どこか素敵なところで生演奏を聴きながら食事をしてみたいなあ、と呟いたのがきっかけだった。彼はこのような類の願望をぽつぽつ口にするが、そのほとんどは色々の理由(時間がないとか、お金がないとか、面倒くさいとか)によって黙殺されてきた。しかしその時はなぜだか私も乗り気になって、よっしゃええとこ探したるわと30分ほどスマホと睨めっこをして探し出したのが、とある老舗ジャズ・バーであった。席のチャージ料に少し面食らいながら予約をとり、当日はいそいそとめかしこんでジャズ・バーの扉を開いた。

店内は薄暗くて賑やかだった。壁にはキング牧師の肖像とマティスの切り絵、そしてたくさんのジャズプレーヤーの写真が貼られていた。注文を済ませてしまうと、慣れない雰囲気にそわそわしながら演奏が始まるのを待った。

おもむろに演奏が始まった。まず音の大きさに驚く。マイクで拾っているにしても、とんでもない音圧だ。さっきまで普通のレストランだったのが、急にジャズの店になる。近いからプレーヤーの顔や仕草や息遣いが見える。彼らは笑い合ったり、ヤジを飛ばし合ったりしながら、実に楽しそうに演奏した。演奏が進むにつれて、こんなに何曲もぶっつづけで吹いて、弾いて、叩いて、大丈夫なのかと要らぬ心配が頭をよぎったが、力強い音の弾丸がそんな考えを跳ね除けていった。

私が感動したのは演奏だけではない。ジャズ・バーの空気感そのものが、とても新鮮だった。クラシックやオペラのコンサートとは全く違う。ステージと客席の境界は曖昧で、楽器の演奏に必要十分なスペースだけ空けてあった。ドレスコードなんてものはなく、くたびれたジーンズだろうとよれたシャツだろうと全く問題なし、という感じ。演奏中でもポテトフライの匂いがするし、誰かがヒソヒソ声で注文したり、ウエイターが料理をサーブしたりする。それでも、いいプレイの時は自然に拍手と歓声が湧き起こる。自由な雰囲気の真ん中に、プレーヤーへの、音楽への、リスペクトの精神がある。

いいな、と思った。ジャズ、いいじゃん。

美味しいものを食べると自然と笑顔になるように、素晴らしいプレイに思わず笑顔になる。ベーシストの男性と目が合うと、彼は優しく微笑み返してくれた。

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