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【短編小説】にこ


 時計を見ると時刻は夜九時を過ぎている。仕事がようやく終わり、疲れた目をこすると、目の周りの皮脂が不快な感触を残して指にこびりついていた。
 今日で五日連続の残業だ。結婚をしているわけでもないから遅く帰ったとしても何も困ることはない。けれど、さすがに夕飯が遅くなるのは健康面で良くないのではないかと心配にはなる。
 周りを見てみると、人は誰もいない。定時である六時にはほとんどの人が帰り、八時には上司も帰っていった。しょうがないことだ。彼らには家庭がある。待っている家族がいる。結婚していなくても同棲している人もいるだろう。そういう人たちは早く帰るべきだ。仕事なんて他の人に任せればいい。
 会社の電気を消し、藤康太は誰もいない社内に向かって「お疲れさまでした」と一言声をかけた。当然、声が帰ってくることはなく、そのまま会社を出た。外は風が生暖かく、気持ち悪い。早く秋になってくれないかと思うけれど、どうせ、秋になったら夏が恋しくなる。人は常にないものねだりをする生き物であるとどこかのテレビで言っていたことを思い出した。
 何気なく、携帯を見ると元松さんから連絡が来ていた。どうやら近くにいるらしく、迎えに来てほしいという簡単なメッセージが一方的に送られてきていた。メッセージの上には数日前に送った藤の「今日もお疲れ」というメッセージが残っている。

『遅くなってごめんね。九時半には駅に着くから』

 社会人になってから買った軽自動車にはすでに傷がいくつもできており、まだ買ってから数年だと言うのに、すでに中古車のように見える。元松さんはこの車を見るたびに「かっこ悪いから直しなよ」と苦笑いをしているが、藤としてはそこまで気になるものではなく、しっかりと動いてくれさえすれば満足だから直すつもりはなかった。
 
『何か買っていこうか?』

 車の中でプロテインバーを食べながら、そう送ってみてもやはり返信はない。いつものことだから気にしていないけれど、普段携帯ばかり見ているのに、返事ができないのは何故なのだろうと、少しだけ不思議には思う。
 ゆっくりと車を発進させ、会社の敷地外に出る。さすがにこの時間だと車道も空いている。九時半までには余裕を持って着きそうだ。コンビニでも寄って元松さんに何か買ってあげよう。そんなことを考えて、近くのコンビニに車を止めると、元松さんから返信が来ていた。何もいらないからとにかく早く来てというそっけない文章だった。藤はそれを見て思わず笑い、お茶とお弁当を買って、またゆっくりと車を走らせた。


 駅で待つ元松さんはいつものように携帯に視線を落としていた。すらりとしたスタイルに、派手な赤の混じった髪色、メイクも流行の韓国メイクを意識しているらしく、目鼻立ちがくっきりとしている。
 
「元松さんお疲れ」

 どうせ連絡をしても気付かないだろうから、車を降りて、近くまで行き声をかけた。自分で呼んだのに、声を掛けたら驚いている。その顔が可愛らしくて思わず笑うと、恥ずかしかったのかすぐにむっとした表情に変わった。

「遅いよ。私待ちくたびれちゃった」

 赤い髪を揺らし、ヒールの音を響かせながら颯爽と車へ向かう元松さんはさながら女社長だ。藤が肩を並べて横を歩こうものなら「何?どうしたの?」と怪訝そうな顔をされるに違いない。前を歩いたなら激昂されるかもしれない。だから、使用人のように恭しく後ろを歩く。そうすれば彼女は上機嫌でいてくれる。

「まだこの車直してないの?恥ずかしいから直せばいいじゃん」

 助手席のドアを開けた途端、彼女は愚痴をこぼす。もう何度も繰り返してきた会話だ。藤が直すつもりがないことくらい知っている。だからか言葉の端にため息が漏れている。

「お金ないんだよね。今日は何してたの?仕事?」
「うーん」

 相変わらず携帯を見ている元松さんの返事はそっけない。表情を少し盗み見てみると、何やら携帯を見て目を動かしていた。

「何見てるの?」
「うーん」
「今度さ、休みの日に出かけようよ。最近二人で遊んでないし。行きたいところあるんだよね」
「うーん」
「今週の日曜日とかどう?」
「うーん」

 ほどなくして、うーん星人になってしまった元松さんの家に着いた。どこにでもあるようなマンションではなく、少しセキュリティが厳しそうな所得が多い人が住んでいそうなマンションだ。中を見たことはないが、それなりに広いのだろう。先ほど家に入っていった派手なバッグを持った女性がものがたっている。

「着いたよ。今日もお疲れ様。携帯見てると危ないから外歩くときは前向いた方がいいよ。じゃあね」
「うーん」

 最後まで元松さんは藤の顔を見ることもなく、建物の中へ消えていった。
 それから、藤は三十分ほどかけて自宅へと帰ってきた。時刻は既に十時近くなっている。家賃五万円ほどの安いアパートは薄汚れていて、少しの物音でも壁を難なくすり抜けて部屋へと届く。藤は車を慎重に閉め、できるだけ静かに階段を上った。
 鍵を回し、ドアを開けると、カビのようなすえた臭いがした。部屋は比較的綺麗にしているし、ごみもない。それでもどこからかカビのような臭いがする。最初のうちはこの臭いのもとを躍起になって探したものだが、今ではもう諦めている。どうせ誰も家になどやってこないのだ。我慢すればいい。
 簡単にシャワーを済ませて、コンビニ弁当を食べながらテレビをつけると小奇麗な女性がニュースを読み上げていた。どうやら、芸能人が結婚したらしい。画面の中では見たことあるような無いような綺麗な男女がにこやかな様子で映し出されていた。

 結婚かぁ。

 元松さんとは付き合って二年ほど経つ。フットサル仲間の野田が「面白い子がいる」とフットサルに連れてきたのが彼女だった。当時、大学四年生だった彼女は、就活なんかしない。私はやりたいことをやる。と言い放ち、ゲーム中に野田のだらしない腹に思い切りボールを蹴ってノックアウトさせていた。物怖じせず、誰にでも話しかける彼女は藤に対しても「サッカーボールに遊ばれてそうな顔してますよね」と失礼なことを言い、野田と同じく、ゲーム中に思い切り藤の顔にボールを蹴り込んで、キャハハと笑っていた。 
 学生時代から彼女などいなかった藤にとっては、そのエキセントリックな彼女の性格がとても魅力的に見えたのだ。勇気を出して交際を申し込んだとき、彼女に「いいよ」と言われたときは一人、この部屋で小躍りした。今までの冴えない生活ががらっと変わるとその時は漫画の主人公のような気分だった。
 二年経った今、彼女が何を考えているのかわからなくなる時がある。交際を承諾してくれた割にはあまり自身の話しをしてくれない。仕事をしているようだけど、どんな仕事をしているのかわからない。家賃が高そうな物件に住んでいるし、高価そうな物を身に着けているからお金には困っていないように見えるが、それでもご飯を一緒に食べるときには奢ってくれとねだってくる。それに、休日に何をしているのかもほとんどわからない。遊ぶときは一緒にスポーツ観戦をしたり、映画を見たりと楽しんでくれるのだけど、一緒にいない時は何をしているのだろうか。今日のように夜になって連絡をしてくることも多々ある。一度、野田に聞いてみたけれど「あの子は色んな噂あるからなぁ。でも悪い子じゃないよ」という曖昧な返答しか返ってこなかった。

 元松さんは僕を好きなのだろうか。

 テレビの前で結婚を発表した女性芸能人の幸せそうな顔が映し出されている。いつか彼女もこんな表情になってくれるのだろうか。そんなことを思いながら藤は食べ終わった弁当の容器をごみ箱に捨てた。

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 朝、上司の関谷が朝礼で社員二人の欠勤を苦々しい表情で伝えた。休みは女性社員で小さな子供がいる今福さんと、ベテランの女性社員である金子さんの二人だ。二人ともいなくても正直、藤にとってはあまり影響はない。いつも通り、自分の仕事を淡々とこなすだけだ。

「いや、まいったね。二人も休まれると困るよ。普段より早く動かないと終わらないね」

 知見寺はあまり影響がないのにそんなことを呟いている。普段から不摂生をしているのか立派なビール腹は妊娠しているのかと思うほど膨れていて、不健康そのものだ。スーツからも少しどころではなく加齢臭なのか、嫌な臭いがして、正直あまり得意ではない。藤は自然と彼を避けるようになっていた。

「あ、知見寺さんは違う部署から応援が来てるからそっちに行ってもらうよ」
「はい!わかりました!」

 返事だけはやたらと声が大きい知見寺が他部署へ向かう。これで業務は藤と関谷でやることになった。それでも、藤はなんとも思っていなかった。正直、知見寺がいなくても業務は終わるのだ。それに一人で仕事をしていた方が集中ができる。知見寺や今福、金子は嫌いではないが、私語が多く気が散るのだ。

「藤君は一人だけど頑張ってね。残業とかしていって構わないから」
「はい。大丈夫です」

 いつも通りの笑顔でそう答えると、さっそく、藤は仕事にとりかかった。ただひたすら黙々とデータをパソコンに打っていく。時折電話を取りながら、それを関谷に伝える。周りに雑談は一切聞こえない。藤はそんな一日に思わず笑みがこぼれていた。

「何笑ってるの。今日はミスしてないね」

 気が付くと、隣に関谷が立っていた。驚いて顔を見ると、小さな目は汚物を見るようだ。この会社に入社してから二年間も一緒に働いているけれど、いまだにこの表情に慣れることはない。嫌な人ではないのだけれど、人を見る目がとても怖いのだ。笑ったところも見たことがない。仕事をする上では何一つ気になることではないけれど、話しかけられると緊張してしまう。

「すみません」
「謝らなくていいんだよ。今日は藤さんしかいないんだから。ミスしたら全部藤さんの責任だからね。無駄に残業したくないならミスしないで終わらせてよ」
「はい。わかりました」

 わかりやすくため息をついて関谷は自分の仕事に戻った。確かに今日はミスをしていない。それが当たり前なのだけれど、藤はいつもどうでもいいようなミスをする。ちょっとした数字の打ち間違えや名前の打ち間違えなどだ。関谷はそれをチェックしてはため息をつき、直すよう言う。それでも治らないから最近ではため息すら聞かれなくなっていたが、今日はため息を聞けた。少しは前進したのだろう。
 それから、昼休憩になるまで、藤はスピードを落とし、ミスだけはしないように何とか仕事を片付けていった。室内にはパソコンを叩く音と、電話の鳴る音、関谷が誰かと話す音だけが聞こえ、それ以外の無駄な音は一切聞こえなかった。その状況に藤はまた笑みがこぼれた。
 毎日このくらい静かならいいのに。そうすれば、もっと作業量も増えるし、ミスをしなければ、もっと評価される。昇進して給料が上がればもっといい家に住めるし、もしかしたら元松さんにたくさん会えるかもしれない。
 昼休憩に入り、知見寺が戻ってきた。何をやっていたのかわからないが、何やら疲れたようで、大声で話している。またいつもの日常が戻ってきた。
 午後、やはりミスをするようになった藤は関谷にため息をつかれ、それを聞いていた知見寺に小言を言われ、定時を迎えた。まだ、仕事は残っている。結局、会社を出るのは夜の九時くらいになってしまった。

『今日は大丈夫?』

 元松さんにそう連絡してみたら珍しく「今日は大丈夫だよ。仕事お疲れ様」という返事が返ってきた。よほど機嫌がいいのかそのあとには可愛い犬のスタンプまでついている。

『元気出た。ありがとう。今日はよく眠れそうだよ』

 そのあとの返事はない。それでも藤にとっては気を遣ってくれたのが嬉しかった。お疲れ様なんて言葉を言われたのは初めてだ。
 時刻は夜十時。家に帰ると、笑い声が下品なバラエティ番組がやっていた。その笑い声も耳に心地いい。今日は良い日だ。

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 休日は温泉に行くことにしている。近くの温泉は入浴料が安く、人もあまりいないからゆっくりと見も心も休めることができるのだ。
 しかも、今日は元松さんもいる。温泉に行こうと思い切って誘ったら思いのほか乗り気で、すぐに返事がきた。今まで温泉好きというのは聞いたことがなかったが、案外、若い女の子が好きそうないわゆるSNS映えするスポットよりもこういう所が落ち着く人なのかもしれない。二年間もそんなことに気付かなかったとは、やはりもう少し会って会話をするべきだ。

「じゃあ、出てきたら休憩スペースで会おうね」
「うーん」

 相変わらずうーん星人の元松さんは携帯を見ながら暖簾の先へと消えていった。そんな彼女が温泉の中でも携帯をいじらないか心配しながらも、藤は脱衣所へ向かい、人目につかないところで服を脱いだ。
 人前で裸になるのはいつになっても慣れない。見られているようでこの貧弱な体を笑われていそうで、もちろんそんな声が聞こえないのだけれど、どうしても慣れることができない。思えば、小学校のプールの授業の時も皆がタオルで隠さず思い切り裸になって着替えている中で、藤は一人タオルに身を包み、もじもじ体を動かしながら着替えていた。その時から、人前で裸になるのがあまり好きではないのかもしれない。
 何とか裸になり、足早にかけ湯をして湯舟へと向かう。今日は休日だからそこそこおじさんと同年代の男性がいるが、そこまで気になる人数ではない。これなら落ち着いて心身を癒せそうだ。

「あ、ごめんなさいねぇ」

 サウナから出てきたおじさんが汗だくになりながら前を横切り水風呂へと入った。
 そんなおじさんたちに笑みを浮かべ、藤は大浴場へと足を入れた。少し熱い温度だ。体がしっかりと回復していくのがわかるような気がする。

「おい、危ないから走るなよ」

 そんな声がした。横を見ると、小さな子供が派手に転んだ姿が目に映った。五歳児以下なのだろうか。小さな体には毛が生えておらず、真っ白だ。転んだわりには泣きもせず大人しく父親に叱られている。父親は少し腹が出て、髪が後退している。典型的なサラリーマン男性という風貌だ。おそらく藤より五歳ほど年上の三十歳前後だろう。

「大丈夫?色んな人に迷惑だから静かに」

 すっかり大人しくなった男の子はゆっくりと藤の横に来て肩まで湯舟に浸かった。ゆらゆらと手足を動かしながらどこか落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと見ている。父親はそんな子供を気にせず、目を閉じて「あぁー」と声を出していた。
 そんな光景を見つめていると、男のこと目が合った。きらきらと水晶のように輝く瞳がこちらを不思議そうに見つめている。

「お、こんにちは」
「こんにちは」

 戸惑う男の子の代わりに父親がこちらを向いて挨拶をした。その顔には怪訝という文字がはっきりと浮かび上がっている。

「なんでしょうか」
「いえ、お子様が可愛らしかったもので…」

 そう言って笑ってみても、父親は「はぁ…」としか返事をしなかった。藤はなんとなくその場にいるのが気まずくなってその場を離れた。
 三十分ほどして温泉を出た藤は休憩スペースで場所を確保し、水を飲んで一息ついた。休憩スペースは窓が大きく、今日のような晴れの日は外の眺めも良く、一日過ごしたいくらい気持ちがいい。元松さんと一緒でなければ本を読んで三時間ほどゆっくりとした時間を過ごしたいほどだ。
 何気なく、周りを見渡してみると、休日だからか、カップルや親子連れが多い。温泉に入った後だからか、皆、幸せそうなゆったりと落ち着いた雰囲気で、向かい合って話している。

「あ、ここにいたんだ。帰ろう」

 藤が人間観察に飽きてきたころ、元松さんは戻ってきた。すっぴんの彼女はいつもより子供っぽい。バッチリメイクをした韓国アイドルのような容姿よりこちらの方が可愛らしいし、色んな人に好かれるのではないかといつも思うけれど、彼女は頑として薄化粧はしないようだ。

「ちょっとゆっくりしていこうよ。せっかく来たんだしさ」
「無理。私、予定あるから。ゆっくりしたいなら一人でどうぞ。私は帰る」
「ちょっと待ってよ。一時間くらいなら大丈夫でしょ」

 藤の声に返事することなく、元松さんは一人で会計を済ませ、出て行ってしまった。しばらく見ていると、元松さんはタクシーを呼んだらしく、やってきたタクシーに躊躇いなく乗り込みどこかへ行ってしまった。
 また元松さんと会話をすることができなかった。今日は機嫌も良さそうだったし、楽しく会話をできると思ったのだけれど、温泉に入っている間に気が変わってしまったのか、いつもの元松さんに戻ってしまっていた。

「あれ、藤君?」

 一人で休憩スペースに戻り、落ち込んでいると、やたらと気の強そうな釣り目の女性に声をかけられた。名前を知っているということは学校の同級生なのだろうが、誰だか思い出せない。

「私のこと覚えてないでしょ。そういう所だからね」
「すみません。あんまり人のこと覚えるの得意じゃなくて」
「高校の三年間ずっと同じクラスだった仁科京香です。すみませんでした。印象に残らないような顔で。もっと頑張ります。藤君は相変わらず笑顔ですね」

 その言い回しと彼女の少し拗ねたような顔を見て思い出した。確か、同じクラスでいつも誰かと言い合いをしていた正義感の強い子だ。頭が良く、違うと思ったことは先生や先輩のような年上にも堂々と意見を言う。それをかっこいいと言う人も一部いたが、大多数がめんどくさいと彼女を煙たがっていた。だからいつも一人だった子だ。

「彼女さんいるんだ。相変わらずだね」
「見てたんだ。まあ、自由な子だから。でもいい子だよ」
「え?いい子?いい子なわけなくない?だって、藤君が休もうって言ってるのに、一人で帰っちゃうような子だよ?私、藤君かどうかわからなかったから遠くから見てたけど、藤君だってわかってたら口だしてたと思う」

 大人になってからも、仁科さんの正義感は変わらないようだった。先ほどの元松さんの行動は本当に苛立ったらしく、元松さんがいない駐車場を睨みつけている。
 仁科さんは高校の頃からとても真面目だった。体調不良で休むこともなければ、遅刻をすることもない。課題の提出が遅れたこともないようで、担任が教壇で「お前らも見習えよ」と声高らかに褒めたくらいだ。おそらく学校以外の場所でもそうなのだろう。決まった時間に起きて、しっかりと朝食を食べ、決まったことをして、決まった時間に寝る。そんな生活をしているに違いない。元松さんとは根本的に性格が違う。だから見ていて嫌な感情になってしまうのだろう。

「とりあえず、なんか食べようよ。久しぶりに会ったんだし。お酒飲む?車で来たの?じゃあ、一旦家に帰ってまた夜会おうよ」

 仁科さんは高校の頃と同じようにてきぱきと話し、連絡先の交換を済ませると、帰って行ってしまった。やってることが元松さんとあまり変わらないのだけれど、それは黙っておこう。彼女は怒るから。


 夜、藤は仁科さんに指定されたお洒落なダイニングカフェのようなお店にいた。店内は暗く、落ち着いた雰囲気で騒がしいところがあまり好きではない藤にはちょうどいいお店だった。先に店内にいた仁科さんは「どう?いいところでしょ」と笑って見せた。温泉で会った時とは違い、メイクもして、髪も整えられている。当たり前だが、彼女は大人になったのだ。思わず見惚れていると、不思議そうにこちらを見つめていた。

「高校卒業して以来だけど、何してたの今まで。あ、ごめん。私から話すね。人の事を知りたいならまず自分の事を話せって言うもんね」

 ワインを飲みながら、彼女は饒舌に語った。高校を卒業してから、彼女は有名大学に進学し、そこで法律について学んだようだ。また、高校の頃とは違い、その強気な性格と正義感はとてつもなく受け入れられ、容姿も相まってか、知らない女の子から告白されたりもしたらしい。今では目標としていた弁護士事務所に就職し、美人弁護士として活躍している。というのが彼女の高校卒業してからの人生のようだ。

「すごいでしょ。この前なんか雑誌の取材とか来たんだからね」
「すごいね。忙しそう」
「でも、他の仕事がどれくらい忙しいのかわからないけど、一般的な職業と変わらないんじゃないかな。土日と祝日は休みだし」
「そうなんだ。いいね」
「それで?藤君はどうしてたの?」

 彼女の強い目がこちらに向いている。弁護士という仕事をしていると知ってから、嘘をついても見透かされてしまうような、そんな気がする。もちろん、彼女に対して嘘をつこうなんて気持ちはないのだけれど、就職活動の頃の面接官に質問をされたときのような緊張感だ。良いことを言わなければ評価が下がるのではないかと必要のないことを考えてしまう。

「僕は別に普通に大学に行って普通に就職して今に至るかな」
「で、あの女性と会って付き合ってって感じ?」
「うん。あ、元松さんから連絡きてる」

 画面を見ると、元松さんから簡潔な文章が送られてきていた。「駅に来て」とだけの文章だ。どうやら駅に迎えに来てほしい。

「なんて来てたの?」
「駅に来てだって。迎えに来てほしいんだと思う」
「ふーん。歩いて帰るように言えば?今、友達といるから無理だって」
「たぶん怒るだろうなぁ」

 そう思いながら、行けない旨を文章にして送った。送った瞬間に既読の文字が表示された。

「昼も言ったけど、良い子じゃないよね。その子」
「良い子だよ。ちょっと変わってるけど」
「送り迎えとかいつもしてるの?」
「いつもって言うか、元松さんが迎えに来てっていう時だけだよ。週に四日くらいかな。そのついでにご飯食べたりしてる」
「ご飯代は藤君が払ってるの?」
「もちろん。男だからね。そこらへんはかっこつけないと」

 そう言って笑うと、仁科さんはため息をついてワインを飲んだ。ちょうど運ばれてきた料理はエビやらブロッコリーやらがスープのようなものに浸されている料理だ。店員さんがアヒージョだと言っていた。初めて耳にする名前にどんな味なのか想像もつかないけれど、仁科さんは普段から食べているかのようにフランスパンに浸して食べている。

「笑ってるところ悪いんだけど、あのさ、それ、利用されてるだけなんじゃないの?」
「うん?」
「今の聞いてるとさ、あっちから連絡着たときに送り迎えして、ご飯食べるときはお金出してるんでしょ?」
「うん」
「好かれてると思ってんの?私、同じ女だからわかるけど、絶対にその元松さんは藤君のことを好きじゃないよ。好きだったらそんなことしないよ。別れた方がいいって。別れるっていうか、関わらない方がいい。携帯の連絡も全部無視した方がいいし、会わない方がいい。確実に藤君のほかに付き合ってる男の人いると思う。しかも、そっちが本命」

 うーんと携帯を見ながら返事をする元松さんを思い浮かべる。確かにかなり変わっていて、捉えどころのない子だけど、悪い子ではないはずだ。それに、今日初めて会った仁科さんに彼女のことがわかるわけがない。

「そんなことないと思うけどな」
「思い出してみて。高校の頃だって、藤君に願い事を頼む女子いたでしょ。今村さん。小柄でリスみたいな顔してて可愛くてクラスで人気だった子」
「思い出せるような出せないような」

 そう言うと、仁科さんは大人になった彼女の写真を見せてくれた。可愛らしい小柄の女性が集合写真の真ん中に写っている。高校生の頃から八年近く経っているし髪型も変わっているけれど、昔のままだ。写真を見ただけで当時の感情をしっかりと思い出すことができる。

「この子。藤君にやたらと雑用押し付けてた子。数学の課題を職員室に持っていくときに重いからって言って全部持ってもらったり、暑いからって言って教室から出ないでジュースを買ってきてもらったりしてた子。あの子が同窓会でなんて言ってたかわかる?藤君のこと、召使いって言ってたんだよ?」
 
 仁科さんが真ん中にいる今村さんを指差して言った。写真を見てみると、彼女のことをぼんやりと思い出してくる。でも、すべてどうでもいいことだ。そんなくらいで怒ることはなかったし、嫌でもなかったのだと思う。忘れているのだから。

「でも、覚えてないからね。どうでもいいことだよ」

 そう言って藤が笑うと、仁科さんは眉間に皺を寄せて溜め息をついた。アヒージョを食べ、ワインを飲む。少し前まで上品な女性だと思って見ていたのに、今ではこちらの命を狙う山賊のようだ。そのうち、大きな肉の塊をむしゃむしゃと食べだし、ぶははははと笑いそうな表情でこちらを見ている。

「じゃあ、この子は覚えてる?今村さんといつも一緒にいて陰に隠れて藤君を馬鹿にしてた子」

 仁科さんは今度は今村さんの隣を指差した。少し太った目の細い女性が笑っている。記憶の中をいくら探ってみてもこんな子に覚えはない。何をされていたかもわからない。

「こんな子いた?」
「いたでしょ。今村さんの後ろにくっついて藤君を馬鹿にしてたでしょ」
「覚えてないなぁ。誰だろうこの子」

 仁科さんはまたため息をついて、ワインを一気に飲み干した。グラスを勢いよくテーブルに置く姿は完全に酔っ払っている。目は潤み、声は大きくなり、このお店がお洒落なダイニングカフェだということはもう忘れているようだった。

「だいたいさぁ。藤君は笑いすぎなんだよ。なんでそんなににこにこしてんの?何が面白いの?それで女性がどう思うかわかる?この人には何をしてもいいんだ。何を言ってもいいんだって思うんだよ。だから酷い事されるんだよ。あの彼女にも、どうせ仕事でも無茶なこと言われて笑ってるんでしょ。駄目だよそんなの。怒らなくちゃ」
「別に嫌な事されたわけじゃないからなぁ」

 そう言うと仁科さんはまたこちらを睨んでワインを飲んだ。そして体中にある空気を全て吐き出すほどの長い溜息をして、息を大きく吸った。

「別に藤君が嫌じゃないならそれでいいけど。じゃあ、今日はもう帰ろう。私、明日は用事があるから。じゃあね」

 仁科さんは藤の分の会計まで済ませると、颯爽と駅へと歩いて行った。その後ろ姿は高校生の頃から変わっておらず、堂々としていて、強い女性という言葉がしっくりくる背中だった。
 
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「え、なんでいるの?」

 家に帰ると、元松さんが服を着たままソファの上で仰向けで寝ていた。綺麗に赤く染まった髪の毛は乱れ、歌舞伎の赤頭のようになっているし、スカートから覗く太ももは不健康なほど細い。テーブルの上には缶チューハイとお菓子のごみが散らかっている。どうやら仁科さんと一緒にいる間に家に上がり込んだらしい。ラインに連絡はもちろんない。藤が「今日は予定あるから行けない」と連絡をしたきり返信は来ていなかった。

「こんなところで寝てると風邪ひくよ」

 相当酔っているのか、起きる気配は微塵もない。一度大きな声で起こそうかと思ったけれど、不機嫌に起きられてぐちぐちと言われるのも面倒だ。いったんここに放置して、今日はもう寝よう。
 その時、テーブルに置いてあるスマホの画面が明るく表示されたことに気が付いた。最新の機種でカメラに特化しているらしくやたらとカメラのレンズが多い元松さんのスマホに誰かからのラインが届いている。そこには男が書いたと思われる文章で「今日は楽しかった。早く結婚したい」と綴られていた。
 
 良い子じゃないよね。

 数時間前の仁科さんの声が蘇る。良い子じゃない。そんなことは知っている。ただ、こちらが優しくしていれば、いつかは振り向いてくれる。そう思っていたかっただけだ。今までもそうやって生きてきた。高校生の頃だって、周りの女の子たちからさこき使われていたことだって覚えている。それでも、あからさまに馬鹿にされていた同じクラスの男の子よりかは好かれていると思っていた。だから、我慢していたのだ。意識して笑顔を作って、優しい人間だとアピールしてきた。大人になってからも同じだ。職場でも元松さんの前でも。

 元松さんは振り向いてくれないだろうな。

 携帯に連続して通知が届いている。同じ男からだろうか。藤には絶対に書けないような、直球で自信に溢れた愛のメッセージが綴られている。

 僕も同じようなものか。

 元松さんからの連絡を無視して仁科さんと一緒にご飯を食べたんだ。怒る資格なんてない。こういう人だとわかっていたはずだ。それでも、ここまで一緒にいたのは自分の判断で、元松さんは最初からずっと変わっていない。悪いのは元松さんではない。
 そう考えたら疲れが急に押し寄せてきた。藤は足を引きづるようにしてシャワーを浴び、すぐにベッドにもぐりこんだ。しばらくカバーを洗っていないからか、布団から少し嫌な臭いがする。それでも藤はいつの間にか眠りについていた。


 翌朝、朝の八時頃、目を覚ますとそこに元松さんの姿はなかった。メモも書いていない。まるで昨日のことが幻なのではないかと思うくらいだ。唯一、ごみが残っていることだけが彼女がいた証拠だった。
 携帯を見ると、一件の着信が届いていた。時刻は七時頃。元松さんからだ。

「あ、もしもし、昨日はありがとう。家に行ったんだけどいなかったから勝手にご飯食べて寝ちゃった。それでさ、ちょっとお願いがあるんだけど、私、財布無くしちゃってさ。十万円くらいでいいから。ちょっと貸してもらえないかな」

 その声に焦りは一切ない。元松さんのことだ。何の事故なのかはわからないが、お金さえ払えばいいと思っているのだろう。

「もしもし?聞こえる?十万円ほしいんだけど、駅まで来てくれる」
「うん。わかった。ちょっと待っててね」
「いいよ。ありがとう。大好き」

 頭を整理して、お金をおろすためにコンビニへと向かう。端の方にあるATMに早歩きで駆け寄り、カードを入れた。しかし、十万円を下ろすことができなかった。八万円しか残高がなかったのだ。

 貯めてたから五十万円はあったはずなのに。

 とりあえず、五万円だけ下ろして元松さんのもとに向かった。駅に着くと、元松さんは笑いながら近づくと、ありがとうの一言もなく、「やっと来た」と封筒を手に取り、中身を確認して「少な。十万っていったじゃん」とまた笑った。

「ごめん。なんかお金足りなくて。それで頑張って」
「まあいいや。じゃあね」

 元松さんの歩く先には車があった。彼女は免許を持っていない。おそらく先ほど電話で聞こえた男が運転するのだろう。
 助手席に乗り込み、どこかへ向かった彼女に「財布見つかるといいね」と連絡をした。しかし、すでに彼女の連絡先は消えていた。

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 夜、居酒屋で待っていると、仁科さんは昨日とは違って、白いシャツとジーンズという比較的ラフな洋服で現れた。疲れているのか少しだけ顔に覇気はない。

「昨日ぶり。どうしたの?」

 うっすらと笑う口元はすべてを見透かしているようだった。藤は「とりあえず入ろう」と何も言わずにお店に入った。
 駅前の居酒屋はスーツを着たサラリーマンや大学生が多い。そしてかなり混んでいる。あちこちから色んな声が聞こえ、藤はそれが好きだった。自分の話し声を聞かれることはないから。

「とりあえずビールで」
「お、出ました。しがないサラリーマンの言うセリフ。私もとりあえずビールで」

 店員さんが素早く去ると、あっという間にビールを持ってきた。枝豆も一緒だ。

「それで、どうしたの?なんとなくはわかってるけど」
「笑ってたらさ、人って良く思ってくれるもんだと思ってたよ。今までずっと」
「まあ、たいていの人は笑顔の人には好印象だろうね」
「笑い方わからなくなっちゃったな」

 仁科さんは「だから言ったでしょ」とビールを飲んで笑った。その顔は昨日よりも溌溂としていて、着飾った服や化粧をしているよりもずっと綺麗に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 
 
 
 


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