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【短編小説】水色の平凡な日常


 お昼休み、トイレから戻ると僕の席に岡田さんが座っていた。足を組み手を叩いて笑う姿はまるでここの席は私の席だといわんばかりの堂々とした態度だ。どけ。そこは僕の席だ。話すなら立って話せ。と心の中で呟いて僕はトイレへと逃げる。
 今日でもう五日目だ。最初は偶然だろうと思っていたけれど、どうやら偶然ではないらしい。岡田さんは僕が何も言ってこないことを知ったうえでわざと僕の席に座っている。三日目に近づいてみたとき、なぜかびっくりしてまさしく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。その顔をするのは僕の方だ。近づいたのだから「座りたいよ」の合図ではないか。なのになぜかどかずにそのまま女の子と話し始めた。完全に舐められている。どいてくださいも言えないのだから当たり前だけど。
 それでも別にいい。トイレも居心地がいいものだ。誰もいないし、しっかりと掃除されているから芳香剤の独特な匂いを感じながら読む本はなかなかおつなもの。どうせチャイムが鳴ったら自分の席に戻るだろうし僕にとっては席に座っていようがどうでもいいことだ。むしろ、「うえー。この席、あいつの席じゃん。きったねぇ」などと言われていないだけ良しとしよう。ポジティブポジティブ。
 チャイムが鳴って教室に戻るとやはり岡田さんは僕の席を離れていた。何食わぬ顔で自分の席に戻り後ろの女の子と楽しそうに話している。それなら最初からそこで話していればいいじゃないか。なんてことは当然言えないので、心の中で呟きながら席に座る。席はいつもどおり生温かく、ほのかに女の子特有の甘い匂いがした。僕は今日もめいっぱい深呼吸して何食わぬ顔をして読みかけの小説を開いた。

 平凡に生きられたらいいと思っている。何が平凡で何がそうじゃないのかはわからないけれど、学校に来て授業を受けて帰る。それが僕にとっての平凡だ。友達もいらないし、もちろん恋人もいらない。映画や漫画でやっているような部活動で汗を流して仲間と友情を育むなんてこともしたくない。そういうことをしていると、絶対に誰かと意見の食い違いが起きて、それが最悪の場合、いじめへと発展する。だったら極力目立たず、誰とも仲良くせず、勉強だけして帰りたい。
 それなのに、その平凡を崩そうとしてくる奴がいる。野球部の矢沢だ。彼はとんでもなく迷惑なことに、僕が一人でいるのを見ると「仲間に入れてやるよ」と素敵の笑顔でやってくる。それに対して「やめろ。一人にさせてくれ」と言えたらいいのだけど、そんなことを言えない僕は借りてきた猫のように、彼と一緒に野球部の仲間に加わってしまう。彼らは僕には到底理解できない大きな声でおおよそ女の子には聞かせられないような会話をして笑う。ご飯も信じられない量を食べるし、とんでもなく頭が悪い人もいる。本当に同じ人間なのかと疑いたくなるくらいだ。だからか、先月、先生が僕を呼び寄せ「困ってることはないか?」などと聞いてきた。そこで「矢沢君にしつこく言い寄られて困ってます」と言えばすべての問題が解決するのだろうが、さすがに、善意で声をかけてくれている彼らに悪いことはできない。だから僕は今日も矢沢と一緒に帰ることになっている。

「よお。帰ろうぜー」

 いつものように素敵な笑顔でそう言う矢沢の隣には真下さんがいた。彼女はクラスは違うけれど、学年で一番の美人と評判で目鼻立ちがはっきりとしていて色白な肌は陶器のよう。そして頭と品が良い。言葉遣いも丁寧で彼女を嫌いな人はこの世に一人もいないのではないかと思わせるような存在。そんな彼女は矢沢の彼女だ。

「いやー。もうすぐテストじゃん。俺、今回のテスト自信ないわ。マジで勉強しないと」

 自転車を押しながらこちらを向いて話す矢沢の後ろにいる真下さんはどう見ても機嫌が悪そうだ。言葉にこそ出さないけれど、なんだお前。邪魔しやがって。と顔で訴えている。もちろん、矢沢はそんなことに気が付く様子はない。僕自身も心の中で全力で謝っているけれど、じゃ、お先!なんて言う度胸は無い。僕を必要としてくれている矢沢と邪魔だと思っている真下さん。板挟みにされる僕。ジレンマ。

「香奈ちゃん一緒に勉強して教えてくれないかなぁ。今度図書室にでも行って勉強しようよ」

 矢沢が振り向いた瞬間、天使のような笑顔で「うん。いいよ」と笑う真下さん。アカデミー主演女優賞でも取れるのではないか。と思わせるような名演技だ。

「どうする?河野君も一緒に勉強する?」

 矢沢がまたこちらを向く。真下さんは天使から般若に変わり、僕は能面になる。何も気が付いていないのは矢沢だけだ。君はまず女心というものを学んだ方がいいのではないか。そう言いたいけれど、やはりそんなことは言えないので、僕は静かに「そんなに成績悪くないから勉強する必要ないかも」と答えておいた。「まじかよ」と言う矢沢の後ろで真下さんは天使のような顔をしていた。
 あぁ、平凡が壊れていく。一人がいい。一人なら何も考えなくていいのに。それなのに、矢沢が話しかけてくるから、友達がいるのはいいな。恋人がいるのはいいな。なんて思ってしまう。厄介ごとが増えるに決まっているのに。
 矢沢と途中で別れ、家に帰ると、いつも正体不明のふわふわした気持ちに押しつぶされそうになる。母親や父親が「今日学校どうだった」と聞いていても何も答えられないくらい。テレビも内容が入ってこないし、ベッドで小説を読んでいても何も情景が思い浮かばない。
 仕方ないから、今日は何もしないで大人しくベッドに潜り込んで眠くなるのを待つことにした。結局、眠くなったのは夜中の三時前だった。

ハローハロー
僕から世界へ
応答願います
僕らのコードは正しく繋がっていますか
僕の世界は正しく回転している模様
システムオールグリーン
コミュニケーションは不全

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 それは急にやってきた。いつも通り登校して席に着き小説を読もうとしたら誰かから小さな声で「キモい」と言われた。悪意のある笑い声と一緒に。
 原因は何なのだろう。あの子と話したことなんて一度もないし、そもそも女の子と話すことなんてない。人類の中で一番めんどくさい存在であろう中学生女子とは関わらない。これだけは守って生きてきたのだ。昨日のように矢沢の隣に真下さんがいるというハプニングはあるけれど、それでも極力存在感を消すようにしている。昨日だってお互いいるのを認識していたものの話してはいない。
 わからない。なんで急に僕に悪意を向けてきたのだろう。もしかして、昨日、ラジオを聞いて笑いながら散歩をしていたところを誰かに見られたか。それとも、母と買い物に行ってお菓子を買っていいかと駄々をこねていたところを見られたか。どちらにせよ、気持ち悪いなんて声に出して笑うことじゃない。酷いじゃないか。
 そんなことを考えているとチャイムが鳴った。小説を閉じて耳をすませるともう何も聞こえなかった。周りの子たちは何事もなかったかのようと話している。

 一体何なんだ。

 先生が来ていつものように怠そうに連絡事項を読み上げる。気のせいだろうが、誰かが僕を見ている気がする。くすくすと笑っている声が聞こえる気がする。
 この瞬間に僕の平凡な生活は完全に音を立てて崩れ去っていった。

 
 お昼休み、いつものように矢沢がにやにやしながらこちらへと向かってくる。その顔ですら僕を馬鹿にしているように見えて無意識に目をそらしてしまう。

「こっちにこいよ」

 目をそらされたからか、少し元気のなくいつも通り、野球部の集まりに僕を引っ張っていった。

「来たか。これから会合を始める。よく聞け」

 隣のクラスのひときわ体の大きい色黒な野球部の子が仏頂面で口を開いた。会合なんて言葉をどこで知ったのか、なぜこの会合に僕が参加させられているのか何もわからない。けれど、皆真剣な顔つきをしている。仲間がやられてかたき討ちをしてやるぞ。と言わんばかりに。

「知っての通り、今、このクラスの雰囲気は良くない。嘲笑や悪口が蔓延している。今日はその原因の追究と対策について話していこうと思う。矢沢、説明を頼む」
「はい。今日、学校に登校したところ、ある女子に『河野君ってキモくない?よく話せるよね』と話しかけられました。今までそんなことは一度もなく、どちらかと言えば、河野?誰それ?といったような雰囲気だったため、俺自身驚いたのですが、どうやら他の女子もそう思っているらしく、観察していたところ、数人の女子が河野を見て笑っていることが確認できました。確実に女子数人に河野はキモがられており、これは虐めではないかと思った次第であります」
「ふむ」

 野球部たちは顎髭などないのに顎を触り、わざとらしく頭を抱えた。

「河野君。何か心当たりはあるかね。話したまえ」

 どうやら議長らしい彼は僕の方を向いて話すよう促してきた。

「いや、わからないです。僕もびっくりしてます。すぐ飽きるんじゃないですかね」
「ふむ」

 またわざとらしく皆が頭を抱える。

「いや、それは無いな。女子というものはとてもめんどくさい。俺もこの前女子と話していて怒られた。だから『どうした?何かした?』と聞いたけど『別に』としか返さない。それが何回もある。めんどくさいから俺は彼女を沢尻と呼んでいる」
「俺は何もしてなくても立っているだけで『なんか立ってんだけど』と笑われたことがある。人間なんだからそりゃあ立つだろ。なんだあいつら」

 野球部たちがそれぞれ愚痴を言いだした。どうやらみんな鬱憤が溜まっていたようだ。少しだけ早口になってすらすらと言葉が出てきている。声も大きくなってきて、誰かに聞かれるのではないかと心配になって周囲を確認したけれど、運よく周りに女の子はいなかった。

「みんな静粛に。話が逸れているぞ。とりあえず、河野君が女子に虐められている。その原因と対策だ。誰か、意見はないかね」
「まあ、河野君の言う通り、すぐに飽きると思うからほっといていいんじゃないんですかね。問題は原因ですね。そこがわからない」
「ふむ。そうだな。河野君はここ最近、女子と話したりしたかね」
「してないですね。昨日、真下さんと矢沢君と一緒に帰りましたが何も話さなかったです。あとはいつも僕の席に座っている人がいるくらいです」
「ふむ。真下さんか。座っているのは?」
「岡田さんです」
「ふむ。真下さんと岡田さんか。そういえば、矢沢は真下さんと付き合っていると思うのだが、様子はどうだね」
「いやぁ。いつも通りですよ。特に変わったところはないです」

 本当だろうか。昨日の真下さんの表情にすら気が付かなかった男が女の子の感情の機微になど気付くわけがない。本当は真下さんはとんでもなく怒り心頭で僕と矢沢に対して怒っている可能性もある。というかその可能性の方が高い。

「岡田さんは?誰か知ってる人はいるかね」
「話したことないからなぁ。なんかあの子笑う時手を叩いて笑うじゃん。なんかチンパンジーのおもちゃに似てるよね。シンバル持ってるあれ。目も大きいし」

一人がそう言うと、皆が笑いをこらえて咳払いをした。僕も思っていたけれど言わないようにしていたのに。こんなの岡田さんが聞いたら泣くぞ。

「そうか。そろそろ時間だ。この議論は明日も続けることにしよう。というわけで、結論。女の子はめんどくさい」
「女の子はめんどくさい」

 こうして中身のない議論は幕を下ろした。矢沢と他の野球部員は何もなかったかのように最近話題の芸人のモノマネを始めた。最初からただ愚痴を言いたかっただけなのだろう。胸に広がった温かい何かが急激に冷めていく。僕が空き缶だったらへこんでしまう所だ。全く。いい加減にしてくれ。
 といっても、僕がクラスの女の子たちから悪口を言われているのは事実。彼らの言う通り、すぐには飽きないとなると早急に原因と対策を考えなくてはいけない。原因に関してはおおよそわかっている。問題は対策だ。物理的に何か攻撃を加えられるのなら避けるという選択肢があって、先生や他人がいる所だったら攻撃はされないだろう。しかし、女の子たちがするのは悪口で実態がない。どこでもバレないように攻撃できるししっかりと精神的に痛めつけることができる。防ぎようがない。

 クスクスクスクス

 教室のどこかから笑い声が聞こえる。明らかな嘲笑だとわかる声。それが僕に向けられたものなのか、それとも、他の何かに向けられたものなのか、何にもわからない。とりあえず、授業中に何かを言われることは無いだろうから、休み時間はトイレに籠ろう。そうすれば何も聞こえないはずだ。
 
「河野。こんなくらいで折れんなよ。折れない心。鋼の精神。精神は肉体から。さあ、レッツマッスル」

 議長の野球部がよくわからないポーズを決めた。僕よりもはるかに太い腕が制服の中で膨張している。僕はそんな議長に向かって「真下さんが原因だよ」と呟いた。議長は特に驚いた様子もなく「だろうね」と一言呟いた。

「あいつ、小学校の頃から知ってるけど性格悪いから」

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 議長もとい木崎君が言うには、真下さんは女の子の性格の悪い部分を煮詰めたような人ということだった。表向きは良い人で誰に対しても分け隔てなく接しているが、簡単に人を傷つけ笑うという一面もあるらしい。そのターゲットにされるのは明らかな気の弱そうな人や友達がいない人、無口な人で、そういう人を馬鹿にして笑うけど、相手が我慢したり喋らなかったりするから虐めにはならない。表向きは良い人だから先生や周りの人は「彼女が虐めなどするわけがない。お前が何かやったんだろう」といつもそんなことを言うだけということだ。
 小学生の頃、木崎君は友達の同級生がターゲットにされ、その子は不登校になり、そのまま卒業したらしい。僕はその人に雰囲気がとても似ていて、今回も不登校になるのではないかと思ったそうだ。だから今回、こういう会合を設けたということだった。

「まあ、真下さんの対処法は簡単だよ。野球部やサッカー部と一緒にいればいいんだ。それだけでいい。あの人は弱そうな人をターゲットにするから河野君が弱い人に見えなければそれでいいんだ。俺たちと一緒にいれば他の女子は何も言ってこなし、そうすれば、真下さんも何も言わなくなる。あの子は一人じゃ何もできないからね。女の子だから力ないし、思ったより頭も良くないんだよ。知ってた?」

 目の前で議長という手作りの看板を置いた木崎君は綺麗に並んだ歯を見せて笑った。

「それよりも心配なのが矢沢なんだよな。彼女じゃん。どうするんだろうね。あいつもわけわかんないくらい優しいからさ。たぶんそこを付け込まれて真下さんと一緒にいるんだと思うんだよね。あいつの容姿と正確ならもっと可愛い子と一緒になれるだろうによ」

 そういえば今日は矢沢はどこにいるのだろうか。この会合には参加していないようだけど。

「この前もさ、部活が終わったあと、一年に『手伝ってやるよ』とか言って声かけてたんだよ。意味わかんなくね。普通に一年にやらせりゃいいじゃん。まあ、そのおかげで俺たちの部活は上下関係なくてやりやすいけど」
「俺もよく悩みとか聞いてもらってるわ。なんかあいつ悩んでなくても『悩んでんのか?』とか言ってくるんだよな。なんかもう怖いわ」

 そういえば僕にも話しかけてきていたな。あの頃は僕の平凡な生活を壊そうとするデストロイヤーにしか見えなかったけど、この話を聞くと、矢沢は心優しい人間のようだ。
 僕たちが矢沢がいかにおかしいかを話して笑っていると、仏頂面で矢沢が戻ってきた。誰も何も聞かないので僕が「どうしたの?」と聞くと、そのままの顔で「別に」と答えた。

「なんだよー。俺らのことは根掘り葉掘り聞いてくるくせに自分のことは話さないのかよー。話してくれよ」
「真下さんと別れてきた。河野君のことを聞こうと思ったんだけど、あっちから『なんであんなキモいのと仲良くしてんの?』って笑ってきたからそのまま別れた」

 矢沢は仏頂面のままそう言った。木崎君と他の野球部は拍手をしてナイスプレーと声をかけた。そのころにはもう矢沢はいつものような笑顔に戻っていた。

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 いつもの帰り道、隣には矢沢がいて笑っている。あれから野球部の人たちの協力もあって僕は悪口を言われなくなり、平凡だと思っていた一人での学校生活は完全に崩壊して、友達たちと行動をするようになった。今ではこれが僕にとっての平凡な生活だ。

「いやー。秋っていいよな。暑くもなく寒くもなく。なんか気持ちいいわ」

 僕が新しい平凡な生活を手に入れた代わりに、矢沢は平穏な生活を失った。真下さんと別れてから完全に目の敵にされているらしく、ことあるごとに悪口を言われ、ゆっくりとではあるが確実に目が死んでいる。木崎君は数回会合を開いたけれど、矢沢が大丈夫だと笑って答えるからもう会合を開く気はないらしい。

「さつまいもとかも美味しいしね。良い季節だよね」
「そうだよなー。大学芋とかめっちゃ好き。あのカリカリした感じとか最高だよ。牛乳を合わせるともっと美味しいんだ。河野もやってみろよ。背が伸びるぞ」

 ここ数カ月で身長が数センチ伸びたらしい矢沢はこちらを見てまた笑った。その顔が何だか無理しているみたいで痛々しい。顔をよく見れば眠れていないのか疲れているのか、頬がこけているように見える。

「身長伸びるかな。やってみようかな」

 きっとこの先も矢沢は何かあっても大丈夫だと笑うだろう。そういう時、僕は矢沢が喜ぶような、元気が出るような気の利いたセリフを言ってやろう。矢沢の真似をしながら「こっちこいよ」って言って手を引いて会合を開いてやろう。それが僕のできる最大限の恩返しだ。

「まあ、身長なんて遺伝だから牛乳飲んでも変わらないけどな」
「じゃあ、僕の両親は身長高いからそのうち身長抜くかも」
「なん…だと…?」

 こうして僕の平凡な日常は続いていく。少なくとも身長が伸びる年齢の期間は。


 ハローハロー
 僕から新しい世界へ
 僕は君とで会えて嬉しい
 僕らのコードは正しく繋がりそうですか?
 僕の世界は正しく回転していますか?
 システムオールレッド
 コミュニケーションは良好
 
 

 

 
 


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