恋と呪い①
あらすじ
悠々自適に夏休みを満喫している大学生の私。ある日、家で最高な一日をスタートさせるべく、散歩をし、朝食を作り、いざ食べようとするところにやってきたのは、高校、大学の後輩である山吹海だった。山吹はライフワークである怪談探しに無理やり私を誘い、熊本や台湾など、様々な場所で山吹と一緒に奇妙なものに巻き込まれていく。そんな中で、私は少しづつ自分の感情に気付いていく。夏の少しおかしな物語。
猫と山吹
夏の早朝が好きだ。まだ日の出ていない空気は澄んでいる。夜中に湿った草木が放つ独特な匂いは生まれ育った田んぼばかりの田舎を思い出させるし、人も車もいないため、鳥のさえずりや木の葉の揺れる音が耳に直接届いてくる。
早朝に散歩していると、普段出会わないような人と出会うこともできる。ランニングをしているおじさんや、二人で一緒に歩いている老夫婦。犬の散歩をしている女性など。そういった人たちは朝の澄んだ空気にあてられてどことなく綺麗な空気を発している。朝の世界は美しい。この世界を散歩していることで一日が穏やかに始められるのだ。
家に戻ってきて、朝食をしっかりと食べたら尚良し。炊き立てのご飯に、大好きななめこの味噌汁。焼鮭と納豆にバナナと小松菜を使ったスムージー。目の前に並んだだけで私は笑みがこぼれるようだった。
「いただきます」
しっかりと手を合わせ、なめこのお味噌汁からいただく。なめこの独特な食感と少し薄めの味噌汁が胃に届くと、私は思わず、ほっと溜息をついた。
土鍋で炊いたご飯も粒立っていて最高だ。何もつけずに食べても甘く、思わずそのままお茶碗一杯分を食べてしまいそうなほど美味しい。そんなご飯に納豆と焼鮭もついているわけだ。匂いだけで体中の細胞が喜びで活性化していくように感じる。この数時間で私の体年齢は三歳ほど若返り、夜中に一日中映画を見ていても、勉強をしていも一切疲れや眠気に負けなかった高校生の頃に戻ったに違いなかった。
しかし、そんな最高な朝は突然終了した。携帯の振動とともに。
『もしもし。私、メリーさん。今、あなたの家の前にいるの』
『朝の六時に冗談言われても笑えないのでやめてもらえますか?』
そう言うと、すぐに電話は切られた。そしてその数秒後、またしても電話が鳴った。画面には非通知という文字が表示されている。
『もしもし。私、メリーさん。今、あなたの家の前にいるの』
耳を携帯に当てると、先ほどの電話と同じ声、同じ言葉が繰り返された。
『朝の六時に冗談言われても笑えないのでやめてもらえますか?』
私も負けじと同じ言葉で返した。すると、やはり電話はぷつっと切れた。
何がしたいのだろう。もし、これが知らない人間からの電話だったら警察に突き出してやるところだ。しかし、腹が立つことに、この電話の声もこんなことを早朝からやってくる人間も知っている。しかも、すでに家の前に来ているというではないか。全く。最高の朝が台無しだ。
私は仕方なく玄関まで向かい、ドアを開けた。すると、そこには大きく「肉」と一文字書かれた半袖のシャツと子供のような半ズボンを着た山吹海が立っていた。電話をかけてきたのはそちらだというのに、私と目が合うとびっくりしたように大きな目を見開き、口を開けていた。なんとも珍妙な顔である。
「何?なんか用?」
「私、メリーさん。今、あなたの目の前にいるの」
「もういいからそれ。それよりどうしたのこんな朝早くに。まだ六時なんだけど。まあいいや。とりあえず中に入って」
「お邪魔します。うわー。いい匂い」
山吹は高校の頃から美少女としてとてつもなく有名だった。英語部に後輩として入部してきたとき、それはまるでお人形のようで、顔が小さく目が大きい。鼻の形も口の形もすべてのパーツが綺麗に配置されていた。それに、身長の低さもあり、学校中の生徒や先生までもが我が子のように山吹を扱っていた。たとえ、宿題を忘れても怒られることはなく、「しっかりしろよ」と先生は笑い、誰かの悪口を言っていたとしても男子部員は逆に喜ぶほどだった。山吹も部員達もその暮らしに満足していたようで、時にはご飯を買ってきてもらったり、ジュースを貰ったり、重い荷物などは「持って」と声をかければ、男たちは目を輝かせていた。
だからか、山吹はかなり自由な性格をしている。こんなふうに急に私の家に押しかけてくることに何の感情も持ち合わせていない。罪悪感という感情を持ち合わせていないのだ。どうせ、用件もろくなことではないだろう。
「単刀直入に言うんですけど、今度、熊本に一緒に行ってほしいんですよね」
「熊本?なんで?」
「実は、私、怪談とか都市伝説を扱っているyoutuberでして。知ってます?」
「知らない。興味ないから」
実を言うと、山吹のyoutubeチャンネルはかなりの評判で、もちろん私の耳にも届いていた。何度か見てみたが、幽霊が出ると噂の場所に一人で出向いたり、禁足地と呼ばれるところに足を踏み入れようと試みたりと、かなり危険なことをやっているようだ。本当は「そんなことするなよ」と言いたい。でも、迷惑なことをしている様子もないし、本人は許可もしっかりと取っているようで、法律的にも問題はないらしい。何より、本人が楽しそうでそれを見ているファンがいる。簡単にはやめろなんてことは言えないのだ。たとえ、私がやめろなんて言っても聞きはしないと思うけれど。
「えー。知らないんですか?評判なのにな。まあいいですけど、で、本題なんですけど、熊本に猫が集まる山があるって知ってます?」
「何それ?聞いたこともないな。猫が集まるってどういうこと。またたびの群生地とか?」
「いや、それじゃあただの癒しスポットなんですよ。そんな所に行って猫と戯れても何も面白くないです。視聴者は可愛いよりも刺激を求めてるんですよ。キュートやビューティよりもセクシーとバイオレンスです。まあ、私が出てる限り何やってもキュートでビューティになるんですけどね。というわけで、行きませんか?」
まっすぐな目でそう言ってくる山吹の口は何やら動いていた。手元を見てみれば、私が用意した鮭が半分ほど無くなっているではないか。
「一人で行くという選択肢はないの?」
「それが、私が映っているところを見たいというコメントが殺到していまして。今回は先輩にビデオを回してもらって私は出演者として出たいんです。だからお願いします」
「友達とかに頼めばいいじゃん」
「え、私に友達とかいると思ってるんですか?」
「いやいや、友達いるでしょ。友達というか召使いというか。頼めば協力してくれるんじゃないの?」
「協力なんてしてくれませんよ。高校の同級生なんて卒業してから全く連絡も取ってませんし。大学では友達いません」
「だからここに来たのか…何というか悲しいね」
山吹が言うには、高校の頃の同級生は友達ではなく、にこにこして世話を焼いてくる気持ち悪い人たちで友達ではないからもう連絡すらしていないということだった。大学では不思議なことに友達ができないらしい。当然だ。人の朝食を勝手に食べるような人間に友達なんてできるわけないだろう。阿呆め。
「それに、もし、私が呪われたりしたらどうするんですか」
「そんなこと言われても、どうしようもできないよ。お守りとか持っていけばいいんじゃん」
「私が呪われたら先輩も呪われてください」
何を言っているのだろうか。普通は私が呪われたら先輩が助けてくださいとかだろう。もしかしたら、もう山吹は呪われているのかもしれない。こんな時間にやってくるし。無許可で鮭食べるし、ご飯も食べてるし。
「お願いします」
山吹が潤んだ大きな目でこちらを見ている。みんなこの顔にやられて山吹の召使いになっていたのだろう。しかし、私は絶対にそうはならない。山吹がいくら可愛くても、親しい友達のいない私に会いに来てくれたとしても、絶対に召使いになどなるものか。
「お願いします。先輩しかいないんです」
「まあ、勉強もたまには息抜きしないといけないしね。それに一人で行かせるのもなんか心配だから今回は一緒に行こうかな」
もしかしたら、呪われているのは私なのかもしれない。
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「昔、山のふもとを一人の若者が旅をしていた。すっかり暗くなってしまったころ、ススキ野原でどこからか人の声が聞こえてきた。若者が声の方へ歩いていくと、一見の立派なお屋敷があった。
若者はお屋敷に入り、宿を借りようとすると、女の人が現れ、布団が用意されている奥の屋敷に案内された。『ご飯の前にお風呂に入るように』と言われた若者は疲れた体で風呂場へ向かった。
風呂場へ向かうとそこにはまた別の女性がいた。女性は若者を見た途端『早く逃げてください』と言った。続けて女は『ここで風呂に入ったりご飯を食べると猫になってしまう』と言った。
若者は急いで屋敷から逃げたが、それに気づいたほかの女たちが桶や柄杓を持ってお湯をまき散らしながら追いかけてきた。何とか逃げたが、耳の後ろ辺りに飛沫がかかってしまい、若者の耳の後ろには猫の毛が生えてしまった。どうですか?面白いでしょう?」
熊本に着いてから山吹は上機嫌にパンフレットを見ながらそう語った。正直、バカバカしくて途中からあまり聞いていなかったが、そんなことを言えるわけもなく、適当に相槌を打っていると、今日泊る宿が目の前に見えてきた。豪華な旅館のようで、少し暗くなってきたからか、入り口には提灯があり、優しく灯りをともしている。映画に出てきそうな雰囲気だ。
「ほかにも猫の王がいて、一年に一度猫が集まるとかなんとかっていう話しもあるんですよ。猫がそこで修行して立派になって帰ってくるとか」
「修行って。何の修行なの?」
「わからないですけど。もしかしたら人間になる修行かもしれないですよ」
そんな冗談を言う山吹を無視して歩いていると玄関に着物を着た女性が現れた。どうやら女将さんらしく、私たちを見て恭しく頭を下げた。
「どうも、この度は当旅館にお越しくださりありがとうございます。お姫様御一行でよろしいですか?」
「はい?」
「はい。お姫様御一行です。よろしくお願いします」
女将さんは何も疑うことなく「では案内いたします」とだけ言って歩き始めた。私は思わず頭を抱えたが、山吹は満足そうだ。まるで、本当に自分がお姫様であるように自信満々に歩いている。
通された部屋はやはり豪華な作りで、畳の良い匂いと大きな窓からは緑豊かな景色が一望できた。山吹はそんな部屋に気分を良くしたのか、飛び跳ね、ベッドに倒れこんだり、窓を開けて深呼吸したりしていた。
「先輩、あの女将さん、猫っぽかったですよね。もしかしたら私たち危ない状況なのかもしれないですよ」
「失礼なことを言っちゃだめだよ。確かにどちらかと言えば猫っぽい顔をしていたけど。あと、一つ気になるんだけど、今日はこの部屋に二人で泊るの?」
「え、そうですよ。何か問題でもありますか?」
「一応、男と女だしさ。別々にした方がよかったんじゃない?ま、別にいいんだけどね」
「経費削減ですよ。一人部屋二つより、二人部屋の方が安かったんで。それだけです。じゃあ、私はお風呂入ってきますね。女将さんもご飯の用意ができるまでお風呂入ってきたらいいって言ってましたし」
「ああ、うん。そっちがいいならいいんだけどね。いってらっしゃい」
それにしても、この豪華な旅館に泊まるほどのお金が山吹のどこにあるのだろうか。アルバイトをやっているとも聞いたことはないし、実家がそこそこ裕福だったとしても、もう二十歳を迎えた人間にお金を出してくれるとは思わない。
まさか、危ない仕事でもやっているのだろうか。簡単に大金を稼げる闇バイトとか。考えてみれば、異性である私の所にも早朝に一人でやってくるし、二人で同じ部屋に泊まっている。危機管理能力があまり働いていない。知らないうちに、犯罪のようなバイトに手を染めているとしても不思議ではない。
「ふぅ。気持ちよかったです。先輩も入ってきましたか?」
しばらくして山吹は赤ちゃんのようなつやつやな状態で部屋に帰ってきた。顔はほんのり赤く、子供のような容姿にさらに拍車をかけている。
「うん。入ってきた。のぼせちゃったよ。気持ちよくてさ」
山吹が危ないバイトに手を染めているのではないかと考えていたら、のぼせそうになり、その場にいた明らかに裕福そうなロマンスグレーの髪色のおじさんに助けられたなんて口が裂けても言えない。もし、それが知られたら笑われ、今後ずっと馬鹿にされるだろう。山吹に対して隙を見せるわけにはいかないのだ。
「そういえばさ、山吹ってバイトとかしてるの?こんないい旅館を予約するとは思わなかったよ」
「バイトというか、youtubeですね。それで稼いでます」
「どれくらい?」
「うーん。平均すると大体、月に五十万くらいですかね。私、人気なんで」
「すごいね。もう最高じゃん」
「そんなことないですよ。先輩の方が羨ましいです。実家が裕福で何もしなくてもお金払ってもらえるんですから」
その時、ご飯が運ばれてきた。先ほどの女将さんともう一人の女性の従業員が手際よく料理をテーブルに置いていく。その様は一切の淀みがなく、流麗に見えた。そして、料理も美味しそうだ。色とりどりの野菜に餡がかけられたもの。赤みの綺麗なお肉。つやつやのご飯。食べただけで体中が喜ぶであろうことが見ただけでわかる。
「ごゆっくりお召し上がりください」
女将さんたちは恭しく頭を下げ出ていく。やはり見るたびに猫のようだとは思うけれど、どこにでもいる柔和な顔にも見える。
「先輩。やっぱりあの人猫っぽいですよね。山で修行してきた猫ですかね」
「しっ。失礼だろ。聞こえるからやめなさい。怒られても知らないぞ」
「すみません!じゃ、いただきますか。おててを合わせていただきまーす。あ、これ美味しい!何だろうこれ。美味しい」
「これはたぶんナスじゃないかな。黒い部分の皮がないからわかりづらいけど」
「へぇ。先輩、さすがですね。普段からいいものを食べているだけある。じゃあ、これは何ですか?」
山吹は箸で蕗のようなものをつかんだ。おそらくは蕗だろうが、食べてみると少し違う気もする。
「蕗だと思う。ちょっとわからないけど」
「もしかして、これは猫が食べている食材なのでは…!先輩、気を付けてくださいね。これを食べると猫になっちゃうかもしれませんよ」
確か、ここに来る途中も猫になるとかなんとか言っていた気がする。でも、温泉に入って猫にならなかったのだから、今更、ご飯を食べて猫になるなんてことはないだろう。そもそも、何をしても人間が猫になるなんてことはありえないのだ。
「ええい。一か八か。いただきます。お、これは。にゃーにゃーにゃー」
「何やってるの」
「にゃーにゃー。猫だにゃー」
そんな山吹を無視して美味しい料理に舌鼓を打っていると、飽きた山吹は明日の予定について話した。どうやら山に入り、カメラを回しながら散策コースを歩くということらしい。猫に会えたらそれに着いていく。会えなかったら会えなかったでそれでもいいというなんともふんわりした内容だった。
「ただのハイキングになりそうだね」
「まあ、それはそれで。今回は私が映るってことがメインなので。猫に会えたら儲けもんです」
それからお酒を飲んで酔っ払った山吹がにゃーにゃーとふざけだし、いっそのこと猫になった方が面白いのになどと冗談を言いながら、夜は更けていった。当然ながら、いつまで経っても山吹も私も猫になどならず、ただ、お酒を飲んで泥酔した大学生二人がそこにはいるだけだった。
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雲一つない空の下。私と山吹は猫がいると言われる山へとやってきた。旅館を出る際に見た女将さんの顔はやっぱり猫みたいで、山吹もずっと「あの人を観察していたらそのうち猫になるのでは」などと言っていた。けれど、そんなことができるわけもなく、山へとやってきた私たちは二日酔いで痛む頭を何とか我慢して歩いている。
「猫いないですね。うーん。人が周りにいないからチャンスなんですけどね」
平日だからか、人は周りにおらず、蝉の声と葉擦れの音が辺り一面に響いているだけだ。私としてはこれだけで満足なのだけれど、カメラに映っている山吹はとても不満そうである。
「そもそもこの時代に民家以外のこんな山に猫なんていないでしょ。いたら本当にびっくりだよ。それこそ山に修行に来た猫じゃないと」
「あーあ。やっぱりあの旅館からカメラ回しておくべきでしたね。そうすればもうちょっと撮れ高があったのに」
すでにハイキングコースは半分を過ぎた。だらだらと流れる汗と容赦ない暑さと猫がいないという現実に私も山吹も想像以上に疲れている。
「皆さんすみません。猫の王を見つけるためにやってきたのですが、見つけられず、見つかったのは私が思ったより運動不足だったということだけです。このたるんだ体。涼しい顔して歩く先輩に腹が立ちます」
視聴者に向けてなのか、山吹は時折、ぶつぶつと呟いている。それこそ、何かに憑かれたかのような状態である。目も虚ろで口も半開きだ。脱水症状や熱中症だけは避けてほしいため、なるべく日陰を歩き、水をたくさん飲ませた。昨日の元気はどこへやら。これはこれで悲しいものだ。
「あ、終わりが見えてきた。結局何もいなかったね。まあ、当然か」
山吹は返す気力もないのか、無言で汗を拭い、歩き出した。このまま旅館へと帰るつもりなのだろう。疲れと汗と気温と猫がいなかったのと、山吹は相当疲れたに違いない。カメラから見る山吹は、さながら戦を終えた武士のように勇ましいような、疲弊しきったような表情を見せていた。
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山吹とのハイキングを終えてから数日が過ぎた。あの日、日焼け止めを塗っていかなかったからか、顔は赤く焼けており、鏡を見るたびに野球部やサッカー部など、遠くからしか見てこなかった運動部になったような気がして少しだけ嬉しくなった。上半身を脱げば、ひょろっとした白く筋肉も何もない腕と薄い胸板が見えてバランスが悪いのだが、それでも少しだけ精悍な顔つきになったような気がする。
山吹はあの日以来、声をかけてこない。協力したのだからyoutubeに動画を投稿するときくらいは声をかけてほしいものだが、奴のことだ。おそらく、そんなことはしないだろう。
「にゃー。にゃー。にゃー」
私が鏡の前でにやけていると、不意に、玄関をカリカリとする音がした。やはり奴が来たのだ。私が慌ててドアを開けると、やはりそこには化粧をしていない小学生みたいな山吹がご満悦そうな顔をして立っていた。まだ朝の六時だ。相変わらず早起きな女である。
「にゃー。入れてくれにゃー」
「恥ずかしいから早く入ってくれ。近所の人に見られたらどうするんだ。あの家はおかしな人だから関わるのはやめておこうなんて思われるかもしれないんだぞ」
「猫の恩返しだにゃー」
「うるさい。早く入って」
山吹は図々しくも家に上がると、ソファに座ってパソコンとカメラを取り出した。慣れた手つきでそれらを繋ぎ、何やらソフトを立ち上げたようだった。
「今から編集と鑑賞会しますね。先輩もどうぞ。お茶と茶菓子もありますよ」
山吹は当然のように冷蔵庫の中からお茶を取り出し、コップに注ぐと私に手渡した。これは私が先日買ってきたお茶と茶菓子だ。ゆっくりしたいときに映画を見ながら食べようと思っていたものである。なぜ、山吹がさも自分が買ってきたかのようにふるまっているのかは全くわからない。
「あ、これは山に入り始める前ですね。私ってこんな顔してるんですね。やっぱり子供っぽいなぁ」
「そんなことよりも自身の奇行をもうちょっと心配した方がいいと思うよ。ほら、にゃーにゃー言っちゃって。怖い怖い。憑りつかれてるんじゃないかと思ったよ」
「え、私は山に入ってからはにゃーにゃー言ってないですよ」
おやおや。これは、暑すぎて記憶が混濁してしまったか。しょうがない。いくら、山吹が行動力があると言っても、所詮は女の子だ。私ほど体力はない。山を登っている時は自分が何をしていたのかわかっていなかったのだろう。
「まあまあ、でも可愛く撮れてるからいいんじゃない?」
「うーん。でもやっぱり猫が出てきた方がよかったですね。やっぱり猫の王に会いに行くっていうのが今回の趣旨なので。まあでも、裏の趣旨は私が映ることだから半分はクリアって感じです。あとは見てくれる方がどう反応するかですね」
「猫なんて民家以外でそうそう見れるもんじゃないから仕方ないよ」
「いや、やっぱり、あの旅館の女将さんを撮っておくべきでしたね。そうすれば、昔話と合わせて『ここは…もしかしたら…猫になってしまう旅館なのだろうか。この女将さんは猫なのだろうか』って話を広げられましたし、旅館の宣伝とかもできてよかったんですけどね」
「それは旅館側に失礼でしょ。駄目だよ。そういうことしたら迷惑系になっちゃうよ」
最近、話題になっている迷惑系の配信者。性的なことをしたり、他人やお店、企業に故意に迷惑をかけ、視聴回数や登録者数を稼ぐような人が毎日のようにネットでは批判されている。山吹は今のところは少し過激なことをしているだけの配信だが、調子に乗らせると何をするかわからない。早めに止めておいた方がいい。
「迷惑系になんてなりませんよ。私はそんなに馬鹿じゃありません。今までの廃墟巡りも、心霊スポット巡りも全部許可を取ってます。エッチなこともしませんし、あきらかに倫理観のかけたようなことなんてしませんよ。私、もう二十歳ですよ?」
にゃーにゃー言いながら家に来た女が何を言うか。二十歳だというならまず、朝六時ににゃーにゃー言うのをやめてくれ。そんな気持ちをぐっと抑えて、私は「わかってるよ」と山吹の言葉を流した。
「あ、ちょっと待ってください!今、猫いませんでした?」
「本当に?猫が自然の山にいるわけがないでしょ」
「いましたって。こっち見てました」
山吹が興奮したように映像を巻き戻すと確かに遠くの方の森の茂みに猫がいるような気がする。でもそれが猫であると断定できるものではなく、あくまで、猫のような形をしたものだ。
「えー。これじゃわからないよ。もうちょっと画像を鮮明にできないの?」
「これはそんなに高性能じゃないんですよ。無理です。それより、これに気付いてカメラを追ってほしかったですね。先輩に」
何も言い返せない。山をハイキングしている時は猫なんてまったく気にしていなかった。歩を進めるたびに疲れて元気が無くなっていく山吹を撮っていたのだ。それが面白くて、可愛くて、猫のことなんて頭には一切なかった。
「まあまあ。いいじゃないか。裏テーマは山吹を撮ることなんだから」
「まあ、そうですけど」
それから特に映像の中で何かが起きるわけもなく、ただ、疲れていく山吹の様子が映し出されていた。時折、山吹自身も「酷いなこれ」と笑っていたので、悪くはないのだろう。
映像を確認したあと、山吹は編集を始めた。それから終始無言でパソコンと向き合い、私はその間、本を読んだり、勉強をしたり、ランニングに出かけたりした。気が付けば、もう日は沈みかけている。
「やっと終わりました。動画を投稿します。投稿!」
山吹が勢いよくキーボードをたたいた。動画が投稿されたようだ。これで山吹は家に帰るのだろうか。さすがにこんなに二人でいると山吹の家族も心配するだろう。
「お疲れ。そろそろ帰った方がいいんじゃない?家族心配するでしょ」
「いや、先輩。もう二十歳ですから。子供じゃないんですから。連絡もしてるんで大丈夫ですよ」
「そっかそっか。それにしても、半日くらいカメラ回してたのに、動画編集すると十五分程度なんだね」
「猫が映ってないですからね。猫が映ってたらもうちょっと長かったと思いますよ。猫が映ってたら」
そんなことを言っているうちに、動画にコメントが付いたようだった。見てみると、山吹の熱狂的なファンなのか「可愛い!」や「見てるだけで癒される!」などといったコメントが大半だ。猫になんて興味は全くなさそうである。これなら、わざわざ熊本に行かなくても、山吹の奇妙な日常を撮っているだけでもいいのではないだろうか。
「彼氏がいるなんて知らなかった。男の声がする。めっちゃ幸せそう。これが一番の衝撃。ってコメント来てるよ」
「なるほど。勘違いされちゃいましたね。彼氏じゃないって概要欄に書いておこうかな」
その言葉に少しだけ、ショックを覚えたような気がしたが、それを全力で振り払い、私は他のコメントを見た。youtubeのコメントはセクハラや誹謗中傷が多いと聞くが、山吹の動画にはそういった類のコメントはほとんどないようだ。
「じゃあ、私は帰りますね。お疲れさまでした。このお菓子あげます」
そう言って山吹が手渡したのは熊本から帰る際に私が買ってきた銘菓と同じものだった。棚を見てみると、やはり私の銘菓はなくなっている。
「あ、うん。ありがとね」
山吹は満足そうな顔をして家を出て言った。後日、山吹から「動画が好評なんで、またどこかに行きましょうね」という連絡が来た。私はそれに「暇だったららいいよ」と返事をした。夏は長い。つまらない夏を過ごすくらいなら、山吹に振り回されていた方が楽しそうである。