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【短編小説】いつもの病気


 呆れたような、憐れんでいるようなそんな声が聞こえる。今日も誰かがミスをして怒られているらしい。新入社員の坂巻か越智だろう。あの二人は新入社員だから仕方ないと思える範疇を軽く超えたミスをする。最近だと、印刷用紙の発注をミスして用紙が無くなる。予約を帳簿に記入せず、当日になって顧客が「予約したのにどうして泊まれないんだ」と怒り狂うなんてこともあった。こんなことが頻繁にあるから、今日も二人のどちらかが何かしたのだろう。ちらりと見ると、坂巻の申し訳なさそうな顔が見えた。まだ若く長くここにいる吉沢と比べて肌や髪の艶が良く、目も大きくて子供のようだ。慰めたくなるのか、彼女に気があるのか、越智は笑いながら彼女に話しかけていた。
 そんな光景から目を離し、河野はパソコンに数字を打ちこんだ。いつもと同じように何も考えずに与えらえた仕事を淡々とこなす。楽しくもなければ億劫でもない。仕事を始めて十年ほど経ったけれど、自分が会社員として、一人の人間として成長しているのかわからない。将来、人工知能に奪われそうな仕事をして、お金と贅肉を蓄えるだけのつまらない日々が過ぎていく。一年前に同窓会に参加した時に再会した小学生の頃の同級生たちはどんどんと結婚しており「マジ大変だよ」なんて愚痴を言うもののどこか幸せそうにしていた。「一人で生きていた方が楽だよ」なんてことも言われたけれど、それが皮肉に聞こえてしまい、心の中で靄が溢れたのがつい最近のことのように思い出せる。彼らは河野とは違い、一日を充実して過ごしているに違いない。少なくとも、一日中座ってパソコンと向かい合っていることは無いだろう。
 気が付けばそろそろ退勤の時間が近づいていた。今日も何もなかった。新入社員の坂巻がミスをして怒られ、越智が下品な考えのもと慰めに行く。そんなことがあったくらいだ。誰とも会話をしなければ笑うこともない。ただ、指と目を動かしただけ。そろそろ声帯が退化するのではないか。

「お先に失礼します。お疲れさまでした」

 退化しかけているのか、かすれた弱弱しい小鳥の囀りのような声しか出なかった。他の社員たちは聞こえなかったのか誰も返事をしてくれなかった。その代わりに閉めた扉の向こうから「あの人はなんなんだ」という声が聞こえた気がした。


 家に帰るとすぐにシャワーを浴びてパソコンをつけた。コンビニで買ってきたキムチ鍋を温めて、冷ましながらyoutubeを見る。最近の河野にはこれくらいしか楽しみがない。頭の悪い若者のどうでもいい話しを聞いていると不思議と心が落ち着く。彼らが社会的に受け入れられておらず、失言や失態を繰り返して、すぐに批判の的になるからかもしれない。自分よりも社会のいわゆる底辺を見て自尊心を保つのがいつからか癖になっていた。

「重大発表があるんですけど、僕、結婚しましたー!」

 動画の中の若い金髪の見るからに頭の悪そうな男がそう言った。この男はいつも批判を浴びるような過激なことをして悪い意味で話題になっている人間だ。こんな人間でも結婚できるらしい。どうせ相手はろくな女じゃないだろう。

『こんな人間でも結婚できるのか。すごいな。すぐ別れそう。というか犯罪起こしそう』

 コメント欄にそう書きこんだ。祝福しているコメントが多数の中、河野が書いたコメントは浮いている。数分すると「そういうの誹謗中傷で訴えられますよ」と憎たらしいくらい丁寧な口調で知らないアカウントから返信が来ていた。河野はそれを見て不機嫌になって動画を消した。

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 昨日はあまり眠れなかった。自分のコメントに対する反応が気になり、動画をつけたところ、河野に対しての批判の返信が多数あった。読めばどれも頭の悪い反論ばかりで、自分の意見を書いただけなのに、なぜか誹謗中傷だというわけのわからないコメントもかなりあった。腹が立ち、一つ一つに反論しているうちに陽は昇り、気が付けばいつも起きる時間になっていた。
 頭が痛い。体にも違和感がある。起きてテレビを見ていても内容が入ってこない。十代や二十代前半の頃は、寝なくても体に何も変化はなかったのに、三十歳を過ぎると、寝不足というだけで何もできないようだ。
 寝不足だけではない。ここ数年、運動や自炊なんてほとんどしていないからか、体が重い。三食コンビニ弁当で、面倒なときは食べることすらない。運動なんて駅から会社まで歩く程度だ。休日は歩きもしない時もある。そんな生活をしているというのもあるのだろう。寝不足と併せて今日はとにかく体が重かった。

 あぁ、お腹空いたな。

 頭が痛くても、体が重くてもお腹が減る。気が付けばもう正午近くになっていた。寝たらそのまま起きられなくなってしまうのではないかと考えた河野は足を引きずるようにして近くのスーパーへ向かった。
 久しぶりに来るスーパーは思った以上に賑やかだった。休日だというのもあるのだろうが、小さい子供の声が聞こえ、若い夫婦らしき男女や老人などまさしく老若男女の人々がいる。寝不足だからか、うるさい声が腹立たしい。若い男女の笑い声も品が無くなった主婦の話し声も気に障る。

「あ、すみません」

 痛む頭に悩まされながら精肉コーナーを見ていると後ろから誰かの体が当たった。振り向くと、同い年くらいのいかにも社会の歯車として気持ちを押し殺して働いていそうな特徴のない男が立っていた。その男は河野の目をまっすぐ見ると再び頭を下げて足早に去ろうとする。横にはこれまた何の特徴もない可愛くもなければ不細工でもない女性と子供がいて、不思議そうにこちらを見ていた。

「痛ぇな。なんなんだよ」

 ついそう呟いてしまった。思わず男をじっと見ていると、男は何を思ったのか、無言でまた頭を下げて隣にいる女性と子供と一緒に、河野から距離を取るように離れて行った。
 寝不足だからだろうか。それとも頭が痛むからだろうか。普段は絶対に他人に対して悪態をつくことなんてないのに、今日は悪態をついてしまった。しかも、自分が悪いのに、逆方向に歩いて行ったあの夫婦と子供を見てさらにイライラして睨みつけてしまった。

「こわ。あんな大人になりたくないわ」
「独身だから幸せそうな家族を妬んでるんだよ。人生の敗北者だね」

 どこからかそんな声が聞こえた。若い男女の声だった。しかし、周りを見ても若い男女はどこにもいない。もう仕事すらしてなさそうなおばあさんとおじいさん、人生に疲れていそうなおじさんくらいしか見当たらなかった。
 頭が痛い。体も怠い。幻聴でも聞こえてきたのではないか。このままでは誰かと問題を起こして警察沙汰になってしまう。河野は目についたバナナとリンゴを買ってスーパーを出た。こんなものでは腹は膨れないけれど仕方ない。少しは体を労わらないと。
 帰り道もできるだけ人と距離を置いて、すれ違う時は必要以上に離れて歩いた。家に着いた頃には必要以上に疲弊していて、休日なのに仕事が終わった時のような達成感があった。こんな日には酒でも飲んでぐっすり寝たい気分だ。しかし、そんなことも我慢して河野はバナナとリンゴを食べた。美味しいけれど、そっけない。檻の中にいる動物になった気分。健康にはなれるのかもしれないけれど、これなら不健康でも美味しい弁当を食べた方がいいかもしれない。
 ぶつぶつと一人で文句を言いながら食べていると、あの親子のことを思い出した。世の中に敵などいないとわかりきっているかのような表情。河野が声を出した途端に警戒心を丸出しにして去って行った後ろ姿。河野には絶対に出せない空気感だ。イライラする。バナナもリンゴも急に不味くなった。何が人生の敗北者だ。体をぶつけられて怒るのが何が悪いんだ。あの親子が裏で悪口を言っているかもしれないだろう。なんでこっちが悪者みたいに扱われなきゃいけないんだ。
 食べかけのバナナとリンゴを捨て、SNSを開いた。先月登録したアカウントはまったく動かしていなかったけれど、なぜかフォロワーが五人ほどいる。それらを無視して河野は有名人のアカウントを調べた。適当に探していると、最近有名なお笑い芸人が目についた。顔が可愛いというだけでテレビに出ている面白くもない芸人だ。

『全く面白くないのにテレビ出れていいですね。給料泥棒の気持ちを知りたいのですが、教えていただけますか』

 アカウントにそう書いて送った。もちろん反応などないだろうと思っていると、やはりと言うべきか、反応などなく、代わりにファンであろう有象無象から返信が来た。内容など見なくてもわかる。どうせ批判的なことだろう。見てみると案の定、頭の悪そうな批判が何件も来ていた。それら一つ一つに反論していく。何も言えなくなった奴らはそのままブロックするか、無反応になっていった。
 気持ちが良い。こういう奴らを相手にしていると自分がまともな人間であると実感できる。奴らは常に不安定で何かしらに不満を抱えているから、少しでも突けばシャボン玉のようにはじけて消える。それを見るのが良いストレス解消になっているような気がした。

「こういう人はどうせ友達もいなくて人生つまらない奴だから無視しましょう。アカウント見てみればわかりますが、悪口しか書いてないです。寂しい人です。関わらないのが正解です」

 有象無象の頭悪いコメントの中にそんなコメントがあった。敬語で書かれているのが腹が立つ。丁寧に書いているつもりかもしれないが、どうせお前も他と同じ頭の悪い奴だろ。何を私は違いますよみたいな雰囲気だしてんだよ。

「なんだお前、寂しいのはお前だろ。偉そうなことを言うな。どうせニートだろ。俺はお前と違って普通に働いていて金を稼いでるんだよ。それに、おまえに話しかけたんじゃない。俺はこの芸能人に質問してるだけだ。消えろ」
「全く面白くない。給料泥棒。こういうコメントをするのが悪いという自覚はないんですか?私たちファンが気分悪くなると思わないんですか?もうちょっと想像力働かせた方がいいですよ。友達います?生きていて大変じゃないですか?」

 イライラする。なんだこいつ。とにかく敬語を辞めろ。紳士ぶりやがって。
 
「なんだお前。ファンならこいつを何とかしろよ。つまんねーし、テレビに出るだけ無駄だろ。給料泥棒じゃねーか。何が間違ってんだよ」
「確かにつまらないです。でも、それを好きで見ている人もいるんです。こっちは人を不愉快にさせるのは駄目ですよねっていう話しをしているんです。それと、友達います?生きていて大変じゃないですか?ここには答えないんですね。ということは笑」
「友達くらいいるわ。お前じゃないんだから」

 そう返したら、どこから湧いてきたのか、蛆虫のような奴らが「ぜってーいないだろこいつ」「お前は友達だと思っててもあっちは友達じゃないと思ってるよ」「休日の昼間からこんなことやってる時点で終わってる」などと書きこんでいた。
 うるせぇ。お前らだって同じだろ。そう考えてやめた。怒りで忘れていたけれど、寝ていないのだった。目も頭も痛い。気が付けば少し陽が傾きかけている。このままでは今日もこのまま寝ないで明日を迎えてしまう。こんなことは忘れてシャワーでも浴びて寝よう。

「こいつぜってーじじいだよ。妻もいないし、彼女もいたことない。童貞の無職で趣味はネット。肌は浅黒くて禿げてて髭が伸びてる汚らしい容姿してんだろうな。そんな奴が誹謗中傷して日頃の鬱憤を晴らしてんだろ。そんなことしてる暇あるなら仕事探せよ」

 SNSを閉じる前にそんな文章が書き込まれていた。うるせぇ。

 シャワーを浴びていると、鏡に不細工な男が映っていた。髭もまばらに生えていてところどころ白髪が生えている。髪も薄くなってきたのかおでこが広くなってきた。肌の色もくすんでいる。何より目が濁り、潤んでいるのが妙に気持ち悪かった。
 あいつらのせいだ。あいつらが馬鹿でむかつくからこんな顔になっているに違いない。シャワーを済ませたらまた言ってやろう。
 鼻息を荒くして浴室から出て、またSNSを開くと、私のアカウントにフォローが増えており、先ほどの呟きにいいねがたくさんついていた。

 やっぱりみんなそう思ってるんじゃないか。間違っていないじゃないか。

 心が軽くなる。俺は正しい。間違っているのは奴ら。友達がいないニートたちが間違っているに決まっている。
 軽く笑って布団に入る。今日はいい夢を見ることができそうだ。

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 今日も坂巻がミスをしたのか暗い顔をして歩いている。越智は自分もミスをしていたはずなのに、そんなことを気にすることもなく坂巻を慰めていた。
 会社に長くいる吉沢が二人を見て眉間に皺を寄せている。子供の世話や新人教育などで大変なのか、最近、煙草を吸う本数が増えたらしい。消臭剤で消しているつもりだろうが、すれ違うたびに嫌な臭いがふんわりと漂ってくる。気のせいだろうが、前よりも肌がくすんでいるような気もする。

「あのさぁ。越智君。君もミスしてるんだからさぁ。人のこと構っている暇があるなら少しは仕事頑張ってよ。ミスした分だけ作業増えてるんだからね」
「すみません。反省はしてます。でも、やらかしたものはしかたないので、切り替えも大事ですね」
「それはこっちが言うことなんだけど」

 少しだけ吉沢の顔が緩む。しょうがないと諦めたようなそんな顔と口調になった。それを越智は見逃さず「では」と坂巻と一緒に歩いていく。吉沢はその後ろ姿に「まったく」とため息交じりに呟いていたけれど、どこか楽しそうな表情のままだった。
 腹が立つ。誰にでも厳しくしている吉沢が越智にだけは甘い。越智もそれを知っている。だからミスをしても反省していないし、繰り返しているのではないか。

「ちゃんとやれよ。へらへらするな」

 二人が後ろを通った時、聞こえるように言った。二人は止まったのか、歩く音が無くなった。

「すみまっせーん」

 軽い言葉が後ろから返ってきた。どんな顔をしているのかわからないけれど、声だけ聞いたら何も響いていないような、まるで通行人にぶつかった時に軽く謝罪をするような、そんな声だった。
 なめやがって。ミスをして怒られているのになんだその態度は。ここは学校じゃない。お前は学生じゃない。ここは職場でお前は社会人だ。そんな態度でいいと思っているのか。
 苛立ちながら後ろを向くと、越智は何事もなかったかのように坂巻を慰めながらデスクへと戻っていくのが見えた。私は舐められているのだろうか。イライラする。

 昼休み、坂巻を呼び出した。普段は話しかけることもないから、大きな目を見開いて驚いている。近くで見るとやはり若いからか肌が艶々していてきめが細かい。吉沢とは大違いだ。きっと丁寧な暮らしをしているのだろう。かすかに甘い柔軟剤の匂いがする。

「あのさぁ。最近ミスしすぎじゃない?集中してんの?いつもいつもミスしてるけどさ、君がミスをするから職場の空気が悪くなるんだよね」
「すみません」

 坂巻が綺麗なつむじを見せて言った。お辞儀だけは綺麗だ。

「すみませんじゃなくてさ。どうしたらミスをしなくなるのか考えようよ。君のすみませんはもう信用できないからさ」
「はい。考えます」

 目が潤んでいるように見える。唇も震えている。それを見て気分が高揚してくる。気分が良い。こんな気持ちは初めてだ。

「じゃあ、考えておいてね。今度はもうミスしないでね」

 そう言って戻ると越智が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。相変わらず不愉快な顔をしているが今は気にならない。気持ちが高揚していてそれどころではなくなっていた。
 今度ミスをしたらもっときつく怒ってやろう。そうしたら泣くかもしれない。その顔を見たい。その顔を見ればどんなストレスも溶けて消えていくのえはないだろうか。
 昼休みが終わり、坂巻の方を見ると、何やら越智と話している。せいぜい慰めていればいい。何も悪いことはしていない。ミスをした坂巻が悪いのだ。作業に戻り、パソコンにデータを入力していると、どこからか視線を感じた気がした。それを無視して河野は上機嫌でキーボードを叩いた。

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 坂巻は相変わらずミスをした。どれも小さなミスだが、ミスはミスだ。河野はそのたびに、坂巻を呼び、反省を促した。坂巻は反省しているのかしていないのか、すみませんと言うばかりだった。
 坂巻を怒ることで得る優越感と高揚感は最初だけだった。何度言っても直らないから、本当にイライラして最近ではかなりの声量で怒ってしまうこともある。もう彼女を怒ることで得られるものはストレスだけになっていた。
 それに加えて越智も河野を苛立たせた。ミスをしても落ち込むこともなく、すみませんと軽い口調で謝り、数秒後には忘れたように仕事に戻る。吉沢も怒るが、コミュニケーションの一種のような口調で注意するだけだ。

「坂巻さんさぁ、ふざけてる?わざとミスして怒らせようとしてるの?こっちだって怒るの疲れるんだからね」
「すみません」
「いつもいつもそう言ってるけど、全然直らないじゃん。わざとやってるんでしょ。ねぇ」
「そんなことないです」
「じゃあなんで直らないの?今日だってあの書類お願いねって言われてやってなかったじゃん。なんで?」
「忘れてました。その…忙しくて」
「それ、言い訳って言うんだよ。皆も忙しいんだしさ、坂巻さんだけ忙しいわけじゃないでしょ。ちゃんとやってよ」
「すみません」
「それもういいって。じゃあ、午後もちゃんとやってね」
 
 坂巻の綺麗なつむじにそう言って、後ろにあるドアの方を向いた。もう説教をするのはやめよう。ストレスが溜まるだけだ。もう誰がミスをしようが、以前と同じく説教は吉沢に任せて、傍観していよう。ストレス発散はSNSでやればいいだけだ。頭の悪い奴なんてそこら中にいる。そいつらで遊んでストレス発散しよう。

「あ、そうだ。もうかばいきれないから、今度ミスしたら上に報告させてもらうからね」

 振り返ると、坂巻はびっくりしたような顔をしていた。そしてすぐに目線を落とし、悲しそうな表情をした。どうやら上に報告されるのは困るらしい。それならミスをしなければいいだけだ。

「わかりました」

 ドアを開けて、デスクに戻る。静かな事務所にどこからか笑い声が聞こえたような気がして、河野はさらに不愉快な気分になった。

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 頭が痛い。昨日もSNSで女性アイドルに「可愛くもなければ歌もダンスもできないのになんでアイドルやってるのか」と質問したところ、蛆虫のように湧いて出てきた頭の悪い連中の相手をしていたら寝るのが遅くなってしまった。おかげで体は重いし、頭も痛む。朝、顔を洗う時に鏡に映っている自分は醜く、不健康なミイラのような顔だった。
 ただ、顔なんてどうでもいい。寝不足だろうが、なんだろうが、坂巻と越智のようにミスをするわけにはいかない。あれだけ説教をしたし、小言もかなり言ったのだ。そんな人間がくだらないミスをしたら何を言われるかわからない。
 一応、栄養ドリンクを買って出社すると、珍しく、部長の恩田が席に座っていた。恩田は何をしているのかわからないが、パソコンを見て何やら打ち込んでいる。

「あ、河野君。おはようございます。ちょっといいかな」

 胸がざらつく。部長の顔は笑ってはいない。が、怒ってもいない。真顔だ。目の下にあるたるみがどこかの俳優みたいだと噂されるその顔は何を考えているのかわからない。

「河野君最近調子どう?頑張ってる?」
「はい。いつも通りです」
「そっかそっか。結構。ミスもないし、素晴らしいね」

 でね。と恩田は携帯を取り出した。喉の奥が痛む。話している時も恩田はにやりともしなかった。もう何年も働いた会社だ。ここから先、良いことが起きないだろうということくらいはわかる。
 少し、深く息を吸って、身構えていると、恩田は慣れない手つきで何やら携帯を捜査しているようだった。そして、何やら見つけると、それを河野に見せつけてきた。

「まあ、話すより早いと思うからこれ見てもらっていいかな」

 そこには河野が坂巻に説教している動画が流れていた。不健康そうな男と項垂れている若い女性の姿がはっきりと、発言もすべて鮮明に記録されていた。

「坂巻さんがね、ミスをしているのは知っているんだよ。それを怒りたくなる気持ちもわかる。でもね、ちょっとやりすぎかな。これね、今だとパワハラなんだよね。問題なんだよ」
「い、いや、でも、私の言っていることは正しいと思うのですが」

 声がかすれる。喉が痛い。頭も痛い。

「わかってるよ。ミスをしているのは彼女。悪いのは彼女。でもね。彼女のミスって別にどうってことないレベルなんだよね。ちょっと仕事忘れてました。っていうレベルなんだよ。私なんか昔は飲食店でアルバイトしてたんだけどね、その時に女性のお客さんの服に味噌汁こぼしちゃってねえ。それで慌てちゃって、何を考えてたんだか服を脱がせちゃってね。警察が動くことになっちゃったんだよ。当然クビ。いやぁ、あの頃は酷かったな」

 恩田が自嘲気味に笑っていても、何が面白いのかわからない。私は悪くない。注意をしていただけだ。

「そういうミスだったら怒っていいんだけどね。このレベルで怒るとね。パワハラなんだよね」
「で、でも、吉沢さんだって怒ってるじゃないですか。何が違うんですか」
「うーん。人望と関係性かな。ほら、あの人はお母さんみたいな人だから」

 そんなこと言われたら何も言い返せないじゃないか。人望があれば何を言ってもいいと言うのか。そんなのあんまりだ。

「それでね、問題はここからなんだけど、これがもうネットに上がっちゃってるみたいで、誰がやったのかわからないんだけど、拡散って言うんだっけ。もう会社も特定されちゃっててね。君には申し訳ないんだけど、自分を守るためにも辞めてもらった方がいいかなって思って。とりあえず今日はもう帰っていいよ。せっかく来てもらったのにごめんね。また後で詳しく話すから」

 恩田は申し訳なさそうな表情を全くせずに自分の席に座った。私はそのまま事務所のドアを出た。帰るとき、坂巻と越智とすれ違った。二人とも私を見るなり元気よく「お疲れ様です」と挨拶をしてきた。私はそんな二人に小さく頭を下げて、会社を出た。



 

 
 
 
 

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