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【短編小説】名前を教えて
人に一度でも悪い印象を与えてしまったら、それを覆すのは難しい。それからどれだけ善行をしても、自分の行動が忘れられるわけでもなく、一度できた溝は決して埋まらない。その人は業を背負ったまま生きていくことになる。だから悪いことはしてはいけないのだ。お前は一生、後悔しながら生きていけ。そのまま人生を終えろ。
いつものように悪夢から目を覚ますと、電車は目的の駅まで近づいていたようでゆっくりと速度を落としていた。前を見ると、七十代に近いおばあさんが荷物を持って立っている。
「座りますか?僕は降りるのでどうぞ」
声をかけた。おばあさんはにっこりと笑っている。三上は席を立って、窓の近くに立った。ドアから見える一月の空は写真を撮りたいほど澄んでいて、雲一つない。最近では温暖化の影響なのか、凍えるほど寒いわけでもなく、パーカーの下にヒートテックを一枚着るだけで外を歩ける気温の日も多くなっていた。外を歩くにはいい天気だ。
電車を降りて駅を出る。長閑なこの町は休日の朝になると人はほとんどいない。三上はほっと胸をなでおろして集合場所まで歩いた。
「おはようございます。三上さん、今日もありがとうございます」
「いえ、今日もよろしくお願いします」
集合場所に着くと、三郷さんがいた。二十代の主婦である三郷さんは日焼け対策なのかいつも帽子を被り、手袋をしている。同じ帽子でいいのに日替わりで違う帽子を被っているのはせめてものお洒落ということだ。
「ほんと、若いのにありがとうございます。本当はもっと寝てたいでしょ?」
「そんなことないですよ。昔から早起きは得意ですし、家にいてもやることはないですし。部活もやってないですから」
「勉強しないと駄目でしょ。今は多様性って言葉が聞かれるようになったけど、所詮、学歴社会なんだからね。勉強していい大学に入らないと。私の子供には絶対にいい大学に入ってもらうんだから」
「あれ、お子さんいましたっけ?」
「これからの話しだよ」
三郷さんは年齢が近いから話しやすい。この活動で唯一気兼ねなく話せる人物だ。声も性格も選ぶ言葉もおっとりしていて、とげが一切ない。それに、既婚者だから変に意識をすることもない。
「あ、皆さんおはようございます」
世間話しをしているとおばさんやおじさんが十人ほど集まった。今日はこの方々と朝の八時から十時まで河川沿いの清掃をする。この地域は一月に花火大会をやるようで、河川沿いにゴミが多く出る。だから三上たちボランティアが必要とされるのだ。
よく見ると何人かのおじさんが長靴と水中作業服を身に着けている。それに手には網を持っていて、明らかに眉間に皺を寄せていた。
「あれ、川の中も掃除するんですか?」
三郷さんにそう聞くと、彼女はおじさんたちの方を見て少し笑った。
「ああ、せっかくなら川の中も掃除してくれって頼まれちゃったのよ。一月だし、冷たいからなーって思ったんだけど、私なら少しくらい大丈夫かなって。でも、男の人たちからしたら、女性にやらせるわけにもいかないし、俺たちがやるよって言ってくれたの。でもやっぱり寒そうだよね」
三郷さんが見ているのを気付いたのか、おじさんたちが「三郷ちゃんどうした?」と顔を綻ばせた。おじさんたちは若い女性には甘いのだ。時々、この活動に三上と同年代の女の子が参加することがあるけれど、明らかに上機嫌で話しかけている。重いものは持たなくていいからね。疲れたら休んでいていいからね。と見ていて笑うくらい優しい。重いものを持つことなんかないし、たった二時間程度の活動で疲れることなんかほとんどないのに。
「あ、僕が変わりましょうか?」
しかめっ面をしていた男性の一人である安藤さんを見て言った。彼は明らかに嫌そうな顔をしている。
「三上君優しいね。ありがとう。実は足が悪くてね。川に入りたくないんだよ。代わってくれると助かる」
「もう安藤さん。足が悪いなら無理してやろうとしないでくださいよ。強制じゃないんですから。どうせなら、家で安静にしていてください。気を遣っちゃいます」
「ごめんね。足が悪いって言ってもそこまで大したことじゃないんだよ。それに、この歳になるとやることがなくてね。こういう活動は少し足が悪くても参加したいんだ」
「それならいいですけど。無理しないでくださいね」
「いや、無理をするつもりはないよ。二人とも優しいね」
安藤さんは三上と三郷さんを見て笑った。好々爺のような柔らかい笑顔だった。
そうしているうちに、時間になり、三上たちは清掃を始めた。三郷さんは川沿いを歩いていく。三上とおじさん数人はさっそく川に入ってゴミを集め始めた。やはり一月の川は冷たい。どんなに防水、防寒の水中作業服を着ているといっても、下半身が爪先から凍えていく。水に触れていない手の指や顔、頭まで冷やされていくようだった。
「皆さん大丈夫ですか?無理しないでくださいね。三十分したら休んでまたやりましょう」
三上は手渡された網の中にたまったゴミを袋に移しながら言った。他のおじさんたちも三上と同じく凍えているのか、顔が強張っている。相当無理しているに違いない。ただ、大人の男だから弱音を吐いちゃいけないと思っているのか、誰も何も言わなかった。
それでも、三十分経つと、皆、一目散に川から出た。川から出た皆は口々に「寒い。ありえない」と呟き、三上が買ってきたホッカイロを手渡すと、それを体中に張り付けていた。
「三上君、本当に気が利くね。ありがとう。あぁ、うちに息子もこんなできた子だったらな」
「遠藤さんの息子さんは何やられてるんですか?」
「三上君と同じ高校二年生だけどね、休日はもっぱらゲームだよ。ほら、最近、ゲーム配信とかプロゲーマーとか流行ってるでしょ?それでゲームしててもいいだろってね。私としてはもっと外に出るか勉強をしてほしいんだけどね。でも、それも時代遅れなのかな。老害ってやつか」
そう言って笑う遠藤さんは人が良さそうな笑顔を見せていた。たしか、以前にも息子さんの話しをしていた。県で一番頭の良い高校に通っている自慢の息子だということだった。その高校は名門大学に現役合格者を多数輩出しているということで、将来も楽しみだと言っていたのを覚えている。その子がゲームに夢中になり、休日はゲーム三昧というのならさぞかし心配だろう。それでも、遠藤さんのこの性格で怒ったり、注意したりしているのが想像できないけれど。
ホッカイロという便利なものを手に入れた三上たちはサクサクと掃除をしていき、気が付くと二時間があっという間に立っていた。三郷さんたちは川沿いを進み、橋を渡って、対岸からまた戻ってきた。袋にはいっぱいにゴミが詰められている。そのほとんどがプラスチックの容器や空き缶やペットボトルだった。おそらくお祭りで屋台が出ていたからそのゴミだろう。この量を見たら、川の清掃を頼む気持ちも理解できる。できれば花火大会の際に注意してほしいものだ。
「三上君今日はありがとう。これあげるよ」
安藤さんが買ってきてくれた白湯はなんだか優しい味がした。
ほっこりした気持ちで駅に着くと、ホームである女の子が目に入った。白くて小さくて柔らかそうな、薄っすらと頬が赤くなっているシマエナガみたいな女の子だった。そんな女の子がホームのベンチに座って本を読んでいる。
一目惚れだった。見た瞬間に頭が働かなくなってその子から目が離せなくなった。彼女は高校生なのだろうか。見た目は中学生に見えなくもない。でも、服装は大人びているようにも思う。大人びた中学生にも、子供っぽい大学生にも見える。
彼女を見て数分が経過したとき、ふいに彼女が持っている本を落とした。そしてそのまま、横に倒れる。近づいて見てみると、どうやら彼女は風邪をひているらしい。息遣いが荒く、顔全体が赤くなっていた。声をかけても反応が無い。三上は駅員と救急車を呼び、対応を任せて帰路に着いた。
男の子がこちらを見て笑っている。確か、同じ中学校だった子だ。背が低くて細かったから、女の子たちから馬鹿にされ、男の子たちからは虐められていた。それでも笑っているから、こいつにだったら何をやってもいいと勘違いした人たちがエスカレートして、ついに学校に来なくなった子。その子がこちらを見て笑っている。
ここはどこだろう。階段の途中だ。上の方を見ても光っていて何も見えない。下の方は真っ暗で何も見えない。でも、下の方はちょっとだけ怖い気がする。
上の方に進もうと足を踏み出した時、その子が目の前に立ちふさがった。近くで見ると、手に痣が見える。目の周りも殴られたのか青くなっていた。制服もところどころ破れ、砂が付いている。
痛い。痛い。痛い。やめてください。やめてください。
どこからかそんな声がして、その子は三上を突き落とした。勢いよく落ちていく体に階段の角が当たって痛む。だんだんとその子が見えなくなって行くと、どこからかまた悲鳴が聞こえてきた。三上は何も見えない真っ暗闇の中に立ち、どこに向かうわけでもなく歩いていく。光はどこにも見えない。自分の形すらもわからなくなっていった。
「ああ、痛てぇ」
目を覚ますと体がベッドから落ちていた。体の下に教科書が潰れている。昨日勉強しようと思ったのに、すぐに眠くなって床に置きっぱなしにしたままの教科書だ。
時計を見ると、まだ朝の五時だった。冬の朝は体の芯から凍えるほど寒い。いくら今年は暖冬だと言っても、冬は寒くないわけではない。
三上はベッドに入り直してまた目を閉じた。しかし、先ほどの夢が忘れられない。あの顔がずっと三上の頭の中にこびりついて離れなかった。いくら違うことを考えていても、彼が出てくる。まるで存在を忘れさせてくれないように。
気分転換にスマホでSNSを開いた。今日も誰かの不祥事とか芸能人の不倫とかで盛り上がっている。最近では誹謗中傷などが原因で自殺する人が目立っているのによくやるものだ。
「同じだね」
後ろの方からそんな声が聞こえた。少し高い子供のような声だった。慌てて振り返ってみても誰もいない。窓から雪が降っているのが見えるだけだった。
部屋にいるのが嫌になってリビングへ降りた。まだ誰も起きていないようで、しんと静まりかえっている。キッチンに行くと、昨日の晩御飯のシチューが残っていたからそれを温めて、炬燵に入って食べた。
今日は一週間ぶりの活動だ。場所は前回の河川と近い場所にある神社の周りの清掃だった。この神社も年末年始で人が多く訪れたため、ゴミが落ちているということだった。三上のスマホには三郷さんから「持ち帰ればいいのにね」と呆れたような文章が届いていた。
そういえば、あの子はどうなったのだろう。あれからあの駅には行っていないし、連絡も当然ない。もう容姿も忘れかけている。覚えているのは白くて柔らかそうでシマエナガみたいだと思ったことくらいだ。
今日行ったら会えるだろうか。そもそも、彼女はあの駅に何の目的で来ていたのだろう。友達に会いに来たのだろうか。だとしたら会える確率が限りなく低い。
二階から誰かが降りてくる音がした。すっかり歳を取った父が暖かそうなパジャマを着てリビングに入ってきた。
「おはよう。早いな」
「眠れなかった」
「今日もボランティアに行くのか?」
「うん。七時くらいになったら行く」
「中学三年生の冬に始めたからもう二年になるな。まだ、やるつもりか。もうそろそろ辞めてもいいんじゃないのか。もう十分だろう」
気が付けば頭は薄くなり、白髪も増えていた父はしわがれた声でそう言った。一年前まで続けていた仕事も運動も辞めた今はお腹も出てきていてすっかりだらしない中年男性だ。子供の頃は背が高くて若々しくて同級生たちから羨ましがられるような父だったのが自慢だったのに、一年でここまで老け込むとは思わなかった。ストレスなのだろうが、それも三上のせいに違いない。
「いや、一生やるつもり。楽しいからね」
気が付けば、空はすっかりと白んじて雪もやんでいた。今日も良い天気になるだろう。外を歩くにはこのくらいがちょうどいい。
三上は茶碗を洗い、歯を磨いて、顔を洗って、着替えを済ませた。ドアを開け、父に「行ってくるよ。シチュー美味しかった」と伝えると、父は少しだけ笑った。
「あ、すみません。この前、私を助けてくれた人ですか?」
活動を終え、駅で帰りの電車を待っている時、声をかけられた。振り向くと、そこにいたのはあの女の子だった。ちょっと走ったからか頬が赤く、息が弾んでいた。厚手の暖かそうな白いダウンパーカーを着ているのも相まって本当にシマエナガのように見える。
「あぁ、あの時の。大丈夫でしたか?突然倒れたので驚きました」
「はい。風邪だったんですけど、無理して外出ちゃって…ご迷惑をおかけしてすみませんでした。お詫びと言ってはなんですけど、これ、どうぞ」
その子が手に持っていたのは白い饅頭だった。彼女の握り拳ほどの饅頭が薄いラップに包まれ、中央にはお店の焼き印が押されている。
「白いものが好きなんですね」
「いや、これはたまたまですよ。別に白いものが好きとかじゃなくて、たまたまこういう服と食べ物がそろっただけで、普段はもちょっと色のあるものも着ますし、食べ物もカレーが好きですし、白が好きということではないです」
「なんでそんなに必死に否定するんですか。別に白が好きでもいいじゃないですか」
そう指摘された彼女は少し俯いて笑った。小さな白い歯が綺麗に並んでいる。子供みたいだ。
「そういえば、ここら辺の人なんですか?」
「いえいえ、ここには用があって来ているだけです。出身は千葉ですよ」
三上は一瞬真顔になった気がした。幸運なことに彼女は下を向いていたので見られてはいないようだ。見られていたら色々と勘繰られてしまうかもしれない。
「どこ出身なんですか?」
「僕は群馬出身です。水上の方ですね」
「水上ですか。いいですよね。あそこ、何回も旅行で行ってますよ。温泉街はいつ行っても素敵です。いいなぁ。行きたい放題じゃないですかー」
「いやいや、身近にあるとありがたみもなくなってくるものです。遠くにあるから行きたくなるんですよ。僕は千葉の方が行ってみたいですよ。銚子とか房総半島の方とか景色良さそうですもんね」
「房総半島は良いですよ。ご飯も美味しいですし。私は柏市の出身なんですけどね」
最悪だ。地元が一緒なんて。もしかしたら三上のことを知っているかもしれない。
彼女はそれを見逃さず「どうしたんですか?」と不思議そうに尋ねた。何と言っていいのかわからない。柏というのがどこにあるのかととぼけてみようか、それとも、柏レイソルというサッカーチームが好きだと話しを変えてみようか。そんなことを頭をフル回転させて考えてみても、何も口から出てこなかった。
「あ、えーと。ここにはどういう用で来てるんですか?何もなくないですか?」
「いや、遊びに来てるわけではなくて、この駅の近くの会場で『いじめ防止セミナー』っていうのがやってるんですよ。それに参加しているんです」
「すごいですね」
何とか頭をフル回転させて声を絞り出した。女の子は先ほどまで恥ずかしがっていたのに、今はちょっと怒っているような、強い意志を感じる目をしている。いじめという単語を心底嫌っているらしい。
「あなたはバイトとかですか?」
「いえ、僕はボランティアで清掃をしているだけですので」
「そっちの方が立派じゃないですか。本当に優しい人なんですね。尊敬します。私なんて色々と考えているだけで何も実行できずにいます。実行できる人ってすごいですよね」
優しい人。三上はそう言われて胸が痛んだ。早くこの場から立ち去ってしまいたい。彼女から見えないところに逃げたい。早く電車が来てほしい。しかし、時計を見てもまだ到着まで二分近くもある。
「今度、一緒にボランティアやってもいいですか?連絡先交換しませんか?」
「ちょっと恥ずかしいです。連絡先だけならいいですよ」
そう言うと、ちょうど電車がやってきた。三上は連絡先を交換した。彼女の名前は木崎さんというらしい。アイコンは可愛らしい何かのマスコットの画像だ。木崎さんは名前をKと登録している三上の名前を知りたがっていたけれど、三上は恥ずかしいからと断り続けた。
どうせ嫌われるなら、最初から仲良くなんてしなければいいのに、木崎さんとはもう数週間も連絡を取り合っている。無視をしても良かったのだけど、彼女は思った以上に真面目で連絡をくれるし、会話も面白い。駅で三上を見つけると楽しそうに寄ってきて、日常で起きたことを報告してくれる。おそらく、三上を好きなのだと思うし、三上自身も木崎さんを好きになっていた。
父親や三郷さんたちには最近楽しそうだと言われるようになったから顔や何気ない行動に出ているのだろう。こんなに生きていて楽しいと思うのはあれ以来初めてだ。
「今日はお母さんのことで病院に行ってくるから。何かあったら頼むよ」
良く晴れた一月中旬の朝、父親はそう言って病院へと向かった。三上はそれを見送ると、ご飯を炊いて、納豆と一緒に食べた。ニュースでは雪が積もると予報されている。外を見るとすでに薄っすらと雪は積もり始めてた。
「雪かきでもするか」
そう独り言ちたとき、二階で母親が動く音がした。リビングに降りてくるのかと身構えたが、降りてくる気配はない。ほっと胸を撫でおろして、また二階の方に意識を向けた。もう動く音はしなかった。
母親は父親が仕事を辞めたのと同時に部屋に籠りきりになった。たまに部屋を出るときはトイレに行くときくらいだ。お風呂にもほとんど入らず、ご飯もあまり食べない。心の病気だと父は言っていたが、そんなことくらい三上もわかっている。すべて三上のせいなのだから。
ご飯をよそって、お盆に乗せ、母親がいる部屋の前まで行ってお盆を置く。今日も部屋越しに何やらぶつぶつと唱える声が聞こえた。医師が言うには、母親として償いをしないと気が済まない一種の強迫観念に突き動かされているのだろうということだった。それから、母親はずっと一日ずっと何かを唱え続けている。ここに越してくる前からずっと。誰が何も言おうとやめることはない。
「ご飯置いておくからね」
声をかけても声がやむことはない。三上は階段を降りて外に出た。少し見ていなかっただけなのに、雪は地面が見えないほど積もり始めていた。このままずっと雪が降り続けたら、父親が帰ってくる頃にはもっと積もって車が入らないかもしれない。
「すごい雪だねー。今日電車止まるかもしれないからセミナー休んじゃった。K君はボランティアしてるの?」
スマホを見ると木崎さんから連絡が来ていた。さすがに真面目な彼女でもこの雪だと外に出るのは億劫らしい。そういう所も可愛い。
「さすがにやってないよ。家で雪かきしてる。父親が出かけてるから。雪が積もっちゃうと家に入れないからさ」
「えー。そっちってそんなに降ってるの?私の方は降ってるけどつもりはしてないよ。雪かき頑張ってね。近かったら手伝いに行くのに」
「ありがとう頑張る」
「ところで、名前は教えてくれる気になりましたかね」
連絡先を交換してから、木崎さんはずっと名前を聞きたがっている。三上がKとしか表示していないから余計に知りたくなったのだろう。偽名を考えて適当に流すこともできるのだけれど、真面目な彼女に嘘をつくのは少し気が引ける。それに、後でつじつまが合わなくなって嘘をついているのがバレたら彼女を失望させてしまうだろう。といっても、すでに出身地に関しては嘘をついているのだけれど。だから常に「恥ずかしいから」の一点張りだ。名前を言うのが恥ずかしいなんて我ながら意味がわからない。
「きみまろとか?」
三上が恥ずかしいというものだから、彼女はとにかく恥ずかしそうな名前を列挙してくる。今までに彼女が予想したのは兼継、キオスク、クジラ、コッコなどとバラエティに富んでいた。きみまろはまだいい方だ。
「違うよ」
「教えてよ。そんな恥ずかしいの?」
「うん。ちょっと無理かな」
木崎さんになら名前を打ち明けてもいいのではないか。そう思うことはある。でも、彼女は柏市の子だ。名前を言ったら昔のことに気付かれ嫌われるに違いない。いじめ防止セミナーというものに行っているくらいなのだから、あの事を知らないわけがない。
気が付くと、雪はもっと積もっている。これは早く雪かきをしてしまわないと大変なことになりそうだ。
「雪かきするからまた後でね。体調に気を付けてください」
三上が雪かきを始めると雪は徐々に弱まってきた。これなら一時間程度で終わりそうだ。父親はお昼には帰ってくるだろうから、それまでに終わらせてしまおう。
「うお、重い…」
雪は意外に重く、腰が痛む。中学生の頃はこんなことをしてもなんとも思わなかったのに、少し運動をしていないだけでここまできつくなるとは思わなかった。
三十分雪かきをして、少し休み、スマホを見ると、木崎さんからまだ連絡が届いていた。
「カンナバーロ。カンテ。クローゼ。カイ・ハフェルツ。クルトワ。クンデ。カカ」
これは一体何の暗号なのだろうか。
「今度フットサル行きませんか?そこでPKをして私が決めたら名前を教えてください」
どうやら木崎さんはサッカーが好きらしい。三上はさすがに女の子に決められるわけもないと高を括って「いいよ」と返事をした。木崎さんから可愛らしい犬のスタンプが送られてきた。
そのすぐ後に父親が帰ってきて、車から降りるなり「何を笑っているんだ。雪かき楽しかったか。ありがとうな」と笑われた。どうやら三上は思っている以上に彼女のことが好きらしかった。
子供の頃からピアノをやっていたらしい彼女はサッカーをやっていたわけではないが、年末から年始にかけて行われる高校サッカーを見るのが好きだったようだ。特に自分の県の高校が優勝してからは特に親近感があるらしく、今では少しだけ海外の選手も知っているらしい。いきなりフットサルをやろうと言ってきたのも、先日まで行われていた高校サッカーに影響されたということだった。
東京にあるフットサルコートを予約してくれた彼女は、お気に入りだという綺麗な白いスポーツウェアを着て意気揚々とストレッチを始めた。
「K君は何か運動をしてたの?」
「いや、何も。中学は一応卓球部だったけど一年で辞めたし高校も帰宅部だから」
思えば、運動らしいことは何もしてきていない。小学校の頃から運動が得意で運動会やマラソン大会で目立っている子に憧れていたなら少しはするだろうけれど、三上はそんな人に憧れることなんか一切なかった。それどころか、こんなことで頑張るなんてかっこ悪いという今思えばとんでもなくダサい考えを持ち合わせていて、常に怠そうに動いていた。だから雪かきくらいで腕も腰も痛くなる。
「帰宅部なんだ。青春とか興味ないの?みんなで過ごす学校生活。中学高校でしか部活ってやれないのに。そういう所の仲間って一生ものだよ。私は今でも中学校の吹奏楽部の子たちとは連絡とってるし、顧問の先生ともたまに会うよ」
木崎さんの性格ならさぞかし慕われていただろう。行動力もあって、思ったことを相手が傷付かないように口に出す。しかもユーモアさえあるのだから彼女のことを嫌う人がいるわけがない。三上とは正反対だ。
「そういうのに興味なかったかな」
「えー。楽しいのに」
準備運動を終えたところで、木崎さんがボールを持ってきた。思ったよりも大きなボールが綺麗に敷かれた人工芝の上で跳ねている。
「じゃあ、私が先攻でいいですよね。さあ、木崎選手。ボールをセットします」
テレビで見たことのあるPK戦はもっと遠くで蹴っているイメージだったのに、今、木崎さんがボールを置いた場所は三上がいるゴールの目と鼻の先だ。こんなに近いのか。フットサルのゴールは小さいからまだいいけれど、サッカーのゴールだったら確実に入れられていたに違いない。
木崎さんは距離を取った。誰を真似しているのかわからないけれど、何やら奇妙な動きをしている。それに笑いそうになりながらも、三上はしっかりとボールを見てどこに飛んでくるのか予想した。
木崎さんが振りかぶって、思い切り足を振った。ボールは想像以上に強烈な勢いで飛んできてゴールに突き刺さった。
「はい。じゃあ、名前教えてください」
「三上康介です」
木崎さんは名前を聞いてから何かを思い出したような表情をした。それを悟られまいと、すぐに笑って「いい名前だね」と無理をして言うのがなんだか申し訳なかった。
そのあと、三上たちはすぐに帰った。フットサルコートにいた時は晴れていたのに、薄っすらと雲が覆ってきている。まるで三上と木崎さんの心を表しているかのようなそんな天気だった。
「今日はありがとう。また遊ぼうね」
家に帰ってきてから、三上は木崎さんにそう送った。しかし、木崎さんからは返信はなかった。
まだ空が暗い時間に、いつものように悪夢を見て目が覚めた。今日は木崎さんに罵倒される夢だった。一生をかけて償えと三上に対して駅の向こう側のホームから叫んでいた。その顔は泣いていて目は充血していたように思う。
今日はボランティアの日だ。駅前の雪かきをしてくれという内容だったと思う。ここ数日で転ぶ人が多く、怪我人が出たらしい。駅員は忙しいからそれに対応ができず、ボランティアである三上たちが駆り出されることになったのだ。
あれ以来、駅で木崎さんを見ることはなかった。たまたまセミナーが終わったのか、それとも、三上に会うのが嫌で行かなくなったのかはわからない。スマホには何も連絡は来ていなかった。あれほど三上の名前を当てようと躍起になって様々な名前を送ってきていたのに。
しょうがないか。
木崎さんはおそらく矢野の知り合いだろう。矢野が自殺したから、いじめ防止セミナーというものに通うことにしたに違いない。もしかしたら恋人かまたは、幼馴染だったのかもしれない。
矢野が自殺した日、遺書には三上の名前がはっきりと書いてあり、許さないと綴ってあった。普通ならそれは誰も知ることがないのだけれど、母親が見つけ、三上を社会的に抹殺するためにSNSに公開したのだ。それはあっという間に拡散された。顔を晒されることはなかったけれど、学校や職場、住所などいろいろな情報がすぐに特定された。結果、三上の家族は崩壊した。母親は精神を患い、父親は退職に追い込まれ、三上本人は神奈川の誰も知らないであろう土地の学校へと転校することになったのだ。
一年経った今でも、少しネットを調べれば情報はたくさん出てくる。木崎さんは三上の名前を知って、違和感を覚えて調べたに違いない。そして、三上が彼女と親しい間柄にあったであろう矢野を自殺に追いやったことを知ったのだ。
「ああ、もう支度しなくちゃ」
気が付くと七時を過ぎていた。そろそろ家を出なくては間に合わなくなる。憂鬱だけど行かなくては。
しんと静まりかえったリビングをせわしなく動き、簡単に顔を洗って歯を磨くとすぐに家を出た。今日も冷たい空気が肌に突き刺さるように寒い。
いつまで善行を続ければ許してもらえるのだろう。この先、ずっと何十年と続けても許してもらえないかもしれない。そもそも、謝罪すべき相手はとうにこの世にいないのだ。誰のために何をいつまですればいいのだろう。
あの日、木崎さんに青春に興味がないのかと聞かれたとき、興味がないと答えたけれど、本当は普通に友達とくだらないことを話して笑いたいし、気の合う仲間と一緒に夢を追いかけてみたい。木崎さんみたいな可愛くて優しい彼女と一緒に何でもない日を一緒に過ごして思い出を作りたい。けれど、そんなことは三上にはできない。学校でも先生たちは三上のことを知っているし、同級生たちの中にも勘の良い人は気付いていて、なんとなく避けている。正直、虐められていないだけありがたい状態だ。友達や恋人なんて一生縁はないのかもしれない。
「あ、座りますか?僕降りるのでどうぞ」
おばあさんに席を譲った。感謝をされたけれど、どうせこの人も三上が虐めていたことを知ったら距離を置くと思うとやるせない気持ちになる。
それでも、日頃から善行は続けていかなければ、三上は誰からも許してもらえないのだ。たとえ、嫌われても距離を置かれても酷い事を言われても。それが自分が背負った業であり、贖罪になる。決して逃げることは許されない。
電車が駅に着いた。ドアが開くと、せっかく暖まった肌にまた冷たい空気が刺さる。いくら着込んでいても顔だけはいつも無防備だ。
「三上君。おはよう。今日もボランティア?」
不意に後ろから声をかけられた。そこにはあの日と同じく白いダウンパーカーを着た木崎さんが立っていた。どうやら同じ電車に乗っていたらしい。
「何驚いてるの?まさか、私が嫌いになったとでも思った?確かに驚いたし、少し前なら憎んでたけど、私はもう子供じゃないよ。あ、17ってまだ子供か」
そう言って少し笑ってまた木崎さんは話し始めた。
「私はいじめなんて子供の頃は当たり前にするものだと思ってる。三上君の場合はたまたま矢野君が自殺しちゃって、その遺書をお母さんがSNSに公開しちゃったっていうちょっとレアなケースなだけだよ。実際、いじめ相手が自殺しないだけで、もっと酷いことしてる人だっている。だからといって、矢野君のいじめを肯定するわけじゃないけど。でも、実際、ここまで騒ぎになるようなことじゃないと思ってる」
こういうことを言うのが恥ずかしいのか木崎さんは目を彷徨わせながら、ゆっくりと考えて言葉を作っているようだった。
「でも、人に席を譲ったり、体調の悪い人を助けてくれたり、ボランティアをしたり、雪かきをしたり、そういう一面だってあるわけで、そういう一面は褒められるべきだと思う。私は三上君のそういう一面しか知らない」
「でも、そういう行動も全部、やりたくてやってるわけじゃないんだよ。こういうことをしないと誰からも認めてもらえないというか、人として見てもらえないような気がするんだ。だから、善意じゃなくて義務感なんだよ。そこに優しさなんかない」
「みんなそうだよ。優しさから動ける人なんてほとんどいない。三上君とボランティアしてる人だってそうでしょ。暇だからとかそんな理由でしょ。私だって、いじめ防止セミナーに通っているのも善意なんかじゃない。矢野君をどうやったら救えたのか、考えることで自己陶酔してるだけだって言われてる。その通りだよ。実際に今大変な人のことなんか何も考えてなかった」
「そんなことないでしょ」
「そんなことある。私、今の学校で陰で偽善者って呼ばれてる。優しそうなふりして満足してる自己愛の強いナルシストって言われてる。友達だっていない。吹奏楽部で一緒だった子たちと連絡を取ってるなんて嘘。皆から嫌われてる」
ああ、そうか。彼女なりに悩んでいたのか。もしかしたら、いじめ防止セミナーに参加してるのも自分のためでもあるのかもしれない。
「でも、三上君が仲良くしてくれてすごく嬉しかった。こんな優しい人いるんだなって思った。それに、三上って名前を教えてくれたのも信用してくれたんだなって家に帰ってから気付いたの。だから、私にとっては良い人でしかないの」
そう言う彼女は泣いて目を赤くしていた。鼻も赤くして、鼻水も垂らしている。その鼻水が人中を伝って口に入ったのか、そこでやっと鼻水と涙を拭い、一息ついた。
「だからこれからも仲良くしてください」
きっと、この先も三上は過去の業を背負って生きていく。それは一生忘れることができない。もし、大学に行っても、就職しても、どこかで過去の行いが暴かれ、生きていくことが辛くなる時があるかもしれない。それでも、この人がいればきっと大丈夫だろう。
冷たくなった手で三上は彼女の手を取り、力強く握る。全身が寒いのにそこだけ小さく温もりが生まれていく。やがてその温もりは全身に広がっていった。