ドレスコーズとイデア
みなさまこんにちは。話の長いあやめです。
とうとうきょうが三ヶ月の節目です。やったね✌🏻
ほか三本の記念noteはこちら。
マイペースに咀嚼しつつ、新曲も届いて、いろんなことを教えて下さるフアンの先輩方にも出逢えて、とてもよいタイミングで船に乗れました。
なぜこんなにドレスコーズさんの音楽がからだに馴染むのか? という問いを立てて、きょうの解答として記録します。
その解答は、この先かたちを変えてもいいし、変わらなくてもいいし、とにかく記念に取っておこう。
ここぞとばかりに、欲張って埋め込んだ動画を鳴らしながら、ご笑覧ください。
おしゃべりな身体
はじめに少し回り道をします。
道端ですれ違う人を観察すると、こちらの視線に気づきながら身体を動かしている人と、そうでない身体の人を、直感で判別できると思います。
それは視線であったり、肩や腕の振り・脚の向きであったり、距離の取り方として表出します。
こちらの視線に気づいている人も、たとえばスマホの通知が鳴れば、注意が解けて一瞬無防備になります。眉間や口元を見れば、それがどんな知らせか、文面を読まずとも推測できるでしょう。
そんな風に、言葉を交わすことなくすれ違うだけの身体であっても、非常におしゃべりなのです。
ステージの献身的なペテン師
そうした身体のおしゃべりを、歌詞という言葉を発しながら、かつメロディで声色を極端に強調しながら行うのが、ライブパフォーマンスといえます。
一番仕事が多いのはもちろん演者さんですが、観客もまた、身体のおしゃべりや声によって、絶えず演者に話しかけています。
たとえば「愛に気をつけてね」で起きていることを整理すると、何重にも矛盾したメッセージがステージに渦巻いて、大きな愛情表現として爆発しているのが分かります。
身体のおしゃべり:
中指を立てる、客席にダイブする、ダイブした演者を支える、怪我をしない強さで触れる、睨みつける、手を振る、唾を吐く、笑顔言葉:
「どうもありがとー!」、「あんたなんかキライ」声色の強調:
怒り、喜び、優しさ、甘え、憎しみ、信頼
でも志磨先生は、忘我した剥き出しの身体でトランス状態を感染させているというよりも、場を精密に調整しているように見えるのです。
一見没入しているようで、とても冷静に自分の姿や振る舞いをコントロールし続けて、「かくあるべし」というcode、理想像に忠実であろうとしている、といえるでしょうか。
どうも観客との間にもうひとつのレイヤーがあるのでは?という仮説を持っていましたが、ちょうどこれを書きながら、補強する材料がラジオから届きました。
ここで、プラトンのイデア論を補助線としたいと思います。
「重度の理想主義者たるゆえ内戦にはことかかない」
古代ギリシアまで来ちゃいました。帰ってこられるか心配ですね。式日さんのテーマのひとつも「プラトニック」だそうなのでお許しを。
イデア論は、たとえば、私たちが生きている現実の「現象界」にあるものを「美しい」と分かるのはなぜ?という問いに対して、直接には手の届かない「イデア界」にのみ存在する「美のイデア」を思い出しているから、と説明します。ideal(理想)の語源でもあります。
「愛」や「正義」と聞けば、その姿自体を私たちは見たことがないにも関わらず、「愛ってこうだよね」「正義ってああだよね」と、それぞれのイデアを思い出して引用することができるでしょう(そこがズレることで数え切れない悲劇が生まれているわけですが!)。
イデア論では性を含め、肉体の快楽の追求は否定されます。なぜなら、欲や妄想に満ち、朽ちてゆく肉体は人間の精神を奴隷とし、純粋にものごとを考える行為から遠ざけてしまうからです。
一方で、少なくとも私にとっての音楽(聴くこと、歌うこと)は、それ自体が快楽の一種です。聴覚または全身運動という、身体に依存した活動ですから、イデア論では否定されることでしょう(とはいえ、哲学者のみなさんもトーキングトランスが楽しくはなかったのだろうか)。
まして、ステージで肉体を用いて表現する「ロックスター」とは、イデアの対極に位置する生業かもしれません。
ですが、過去のライブ映像には、「ロックスター」「ドレスコーズの志磨遼平」というイデアに向かって、それを真摯に体現しようとする姿が記録されているように思えるのです。
「…ねえ、死んだらどうなるの? 死んだらどうなるの」
イデア論への代表的な反論として、なぜ見えないはずのイデアが存在することを、人は知覚できるのか?(なぜ、現実世界では見えないイデアが存在することが分かるのか?)というものがあります。
これに対しては、生まれる前に魂がイデア界を知るためという回答があり、朽ちる肉体とは対照的に、不変の魂は消えることも新たに生まれることもないと説明されています。
死んだらどうなるの、と問いながら楽曲を作る「メロディ」には、イデア論と接続することでひとつの回答が与えられそうな気がします。それを「メロディ」が気に入るかはまた別の問題ですが。
また、志磨先生の作曲法として、あらかじめ完成した形で楽曲が浮かんでくるとお話しされていたので、身体という器にイデアのかけらを受け取り、こちらの世界に楽曲を生み出すことができるのだと理解しています。
つまり、聴きたい身体になっている
そんな風に身体でイデアと向き合い続けている志磨先生が、何を受け取って、何を形にしたのか、聴きたくて仕方ないのです。
ざらざらしたもので心をくすぐられたり、すっかり降参するのが心地よかったり、泣いてちいさくなったり、歌だから言えるわるい言葉を口に転がしたり、やさしくて苦い夢を味見したりするのが、気持ちよくて懐かしいのです。
どこかで共鳴しているイデアにどんな名前がついているかは分からないけれど、とにかくそれが、この三ヶ月で分かったことでした。
「えっと なんだっけ なんでもいっか」
ほんとに、名前なんてなんでもいいんです。ここまで読ませておいてごめんなさい。
まだまだ知らない曲もたくさんありますし、これからもあっとおどろく音楽と出逢えることが、とても楽しみです。
「来年、僕はなにをやってるんでしょうねえ」(2023年8月26日NACK5 HITS! THE TOWN)と淡々と語る志磨先生に、この先は何のイデアがささやくのでしょう。
最後に、プラトンからもう一行だけ引用して、おしまいにします。
そんなこと言ったって、この耳で聴いて、この目で見るしかないのだから、仕方ない。
「魔法」と第一稿に書いた通り、ドレスコーズさんに騙されながら、またそれを楽しみながら、親しんでいきたいと思います。
おしまい🪄︎︎💫
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